第48話
一人の孤児が引き取られて、毎年多額の寄付を約束され、双方の子供は環境に恵まれ、悪い話では決してない。状況としては大団円だ。それでも胡蝶の胸の靄は晴れず、湿り気を帯びたまま晴れない。大人として事情を理解できても、もう我が子同然と思い込んでいた気持ちとの乖離があり過ぎた。
そもそも寄付してきた人間は、いつマリアに目を付けたのか。胡蝶は足繁く園に通っていたが、他に人間が胡蝶と同じく頻繁に通っている雰囲気も、子供や他のシスターたちから漏れ聞こえてきた記憶はない。
「どうか、どうかご理解ください」
膝に付くほど頭を下げ上げようとしない御木に、胡蝶は聞いた。
「一つだけお聞きしても」
「ええ」
「その方の名前を教えて下さい。私はマリアちゃんを娘のように思っていたのはご存じのはず。彼女が本当に幸せそうにしているのか、それくらいいいんではないでしょうか?」
「ですが……」
個人情報の取り扱いに困っているのか、苦悶の表情が見てとれた。御木に視線を集中させ、無言の圧力をかけて、静かに待つ。
御木はおもむろに立ち上がり、机の引き出しの鍵を開けてファイルを取り出した。そして紙にペンをはしらせている。胡蝶の目の前にメモ用紙を置くと、
「これは床に落ちていた、という事にしておいて下さい」
御木は再び深々と頭を下げ、胡蝶は紙を手に園を後にした。
真っ直ぐ家に帰る気力が湧かず、足は自然と鳥坂の部屋に向かっていた。インター・フォンを鳴らすと、気だるそうな声が聞こえてきた。
「お前、相当暇なんだな」
憎まれ口を言うくせに、鳥坂は胡蝶を追い払ったりはせずに、毎回部屋に招き入れてくる。胡蝶には鳥坂は、まだ根は優しくていい奴なのに、ワザと尖って見せている高校生みたいに見えていた。
「相変わらず何も無い部屋だね」
「なら来るな」
リビングに座り込んだ胡蝶の前に、コーヒーが無造作に置かれる。
「なんだい。インスタント?」
「いつもの事だろ」
鳥坂はテレビを点けて、雑誌を捲っている。砂糖が入っていないコーヒーはいつもより苦みと酸味を増して、喉の奥にずっと残っていた。
「マリアちゃんとの養子縁組、なくなったよ」
鳥坂の返事はなく、テレビからは笑い声が聞こえてきた。
「何かね、金持ちが横入りしてきてさ。寄付金まで納めたんだってさ」
雑誌をめくりながら鳥坂は、興味がなさそうに返してくる。
「よかったんじゃねえ? オカマじゃなくて、金持ちに引き取られて」
力が抜けたような声だった。
「御木さんも同じようなことを言ってたよ……ああ! 悔しいね」
声を少し荒げながら、上を向いた。天井が少しぼやけて見えた。熱くなる目頭を指で摘まみながら、残ったコーヒーを一気に飲み干した。
「ああ! 苦いし美味しくないわね」
「インスタントだからな」
「本当、あんたって奴は」
鳥坂の関心はテレビより雑誌なのか、胡蝶を見ようともしていない。入って来た時は気付かなかったが、いつもは何も無い部屋に、紙袋が置いてあった。胡蝶は子供のように手と膝を付いて、紙袋があるカウンターまで這って行く。中を見るとパンフレットが沢山入っていた。
「あんた大学へ行くきかい?」
「おい!」
鳥坂が慌ててソファを下りると、派手な音が聞こえてきた。
「痛ってえ!」
ぶつけた足を擦りながら、片足で胡蝶から袋を取り上げようとしたが、すでに床にばらまかれた後だった。
「へえ、あんたがねえ」
「悪いかよ」
「いや。いい事じゃないか」
鳥坂はパンフレットをかき集め揃え始めた。胡蝶もそれを手伝う。その中に一枚だけ違う物が混ざっていた。
「これは?」
「――」
しかし一瞬見ただけで鳥坂は手を動かし続けている。『癒しの海の家』と書かれたチラシは光沢紙が使われており、手に吸いつく感じがあった。裏を見てみると、説明書きと代表者の写真が掲載されている。
「――三船」
胡蝶は園で貰った紙を取り出した。
「あんた知ってたのかい?」
パンフレットを揃えながら、「ああ、知ってた」何気ない挨拶をするように返してくる。やっと落ち着き始めていた感情が、昇り竜のように暴れ出すのを感じた。
「どうして秘密にしてた! お前はそんな奴だったのか! ああ?!」
胸倉を掴み上げながら、数センチの距離まで顔を近づけた。鳥坂の瞳の中に自分の姿が映り込んでいる。それでも表情を変えはしなかったが、鳥坂の哀憐している眼に臆してしまい、手を緩めた。鳥坂は何事もなかったみたいに、パンフレット袋に戻し始めた。
「その三船って奴は、オヤジの知り合いだ。いや、だったと言ったほうがいいか」
「オヤジって、あんたの親代わりの安積さん?」
「ああ」
鳥坂の昔の話は何度か聞いていたので、どういった立ち位置の人間かも直ぐに把握するできた。それでもマリアとの関係性が見えないでいる胡蝶に、鳥坂は続けた。
「桃香って会っただろ? あいつは風俗嬢だ。どうやら三船の息のかかった店で仕事をいたらしい。それは俺も聞くまでは知らなかった。オヤジの立場はその三船が台頭して、もうほとんど引退状態だからな。ただ俺の名前が出たらしく、気になって教えに来たんだよ」
「どうして直ぐに教えてくれなかった?」
詰め終わった袋を持って立ち上がった鳥坂は、場所だけ移動させてソファに戻ると、また雑誌を捲り始めた。
「なあ胡蝶。諦めろ。アレにとってはあっちにいるのが幸せだと思う」
御木には裕福な暮らしができると言われ、鳥坂にも同じことを言われ、自分という存在は何にも値しないと言われているようで、久々に心臓を直に握られているみたいに痛んだ。
「確かに私は何億という金は」
「そうじゃない」
鳥坂の強くそれでいて、気遣うような言葉に体が強張る。
「何でお前は、アレを引き取ろうと思った?」
家族を自分の予期せぬ力で亡くしてしまい、少なからず負った傷を、マリアの気持ちを少しでも和らげてやりた。
羽根の折れた天使のようなマリアに救済とまでは言わないが、それに近い気持ちがあると伝えた。鳥坂の眼は胡蝶を見据えていた。
「俺はアレを天使だとか思わない。確かに見かけはそれに例えられるような容姿だが……俺には反対に悪魔より性質が悪いモノにしか見えない」
「どういうことだ?」
「どんな経緯であれ、実の親を殺してるんだ。おまけに怪我人やらも出してるんだろ? でもそれに対してアレは、罪悪感や畏怖の念がない。確かに性的な虐待や悪戯があったんだろうが、悪意に対して何とも思わな過ぎる」
胡蝶には何を言わんとしているのか、理解できなかった。鳥坂は続けた。
「わからないか? 俺も何て言えばいいか迷うが、罪の意識がないようにしか見えない。少なからず人を傷付ければ、何かを感じるだろ? でもあれにはそんな素振りなど一切ない。人を傷付けるという行為が、正当化され過ぎている気がする。まだ子供だから尚に性質が悪い。汚れを知らないから残酷とでもいうか……」
鳥坂が言わんとする内容は分かった。
なら、なおさら自分が愛情を持って分らしてあげたい。話を聞いて更にマリアに対する気持ちは強くなった。
鳥坂の言葉通り、マリアの感情が欠落しているなら、両親親や親戚に裏切られたからではないか。マリアが産まれた時は、両親たちは慈しんでたっぷりの愛情を注いだはずだ。
ならマリアが本当のマリアを取り戻せるように、自分が死ぬまでそれ以上の以上を注げば、鳥坂の考えは杞憂に終わる。
「とにかく、その三船って男の所へいくよ。そしてマリアちゃんに会って話をして、どうしたいかを決めるさ」
「――止めておけ。諦めろ」
「もし何かがあったら、マリアちゃんをお願いね。あとお店もあんたにあげるよ」
「どっちも願い下げだ」
胡蝶はチラシを手に持って、部屋を出て行った。
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