第44話

 気持ちのいい、晴れた日。胡蝶は朝一番に園に向かった。御木とも信頼関係が出来つつあったので、マリアが帰って来るまで待たせて貰うことにした。

 しかし昼になってもマリアは園には帰ってはこなかった。代わりに電話が御木宛に掛かってきた。胡蝶は、電話でやり取りをしている御木の話に聞き耳を立てて、様子を伺っていた。

「え? そんな急に……困ります。ですから、そういう話しをしているんではなくてですね、ちょっと! もしもし? もしもし?」

 御木の焦っている素振りから、話の途中で電話は切られてしまったみたいだ。

 胡蝶は、何があったのか御木を問い詰めた。

「どうかしたんですか?」

「それが、マリアちゃんを連れて出て下さった桃香さんが、旅行に行くと言って……」

「旅行? どこに?」

「それが、私の話しを聞かずに、一方的に電話を切ってしまって。どうしましょう――」

 御木は、実質この園を任されている状態だから、かなり焦っていて、無駄な動作を繰り返していた。

「御木さん。私からも桃香さんと連絡を取ってみます。もちろん、鳥坂にも連絡を入れておきます。もし上のかたから何か報告をされるならちょうどいい機会でしたし、トライアルと伝えてはどうでしょうか?」

 御木はそれでも不安な表情をしていたが、神に仕えるシスターとはいえ、自分の立場という俗世のしがらみに絡まっている。

「すみませんが、そのようにさせて頂きます」

 御木の前では冷静を装っていたが、気持ちは数キロ前を走っていた。

 胡蝶は園を出ると、すぐさま鳥坂のマンションへと向かった。しかしインター・フォンを鳴らしも応答がない。

 部屋で寝ているのかと思いスマホを鳴らすが、電源が切られている。

 以前に聞いた、桃香のスマホも鳴らしてみたが、こっちは留守電にもならないから、相手を怒鳴ることもできなかった。

 家にいない鳥坂は仕事かもしれないが、胡蝶は構うことなくスマホを鳴らして、留守電になる度に伝言を吹き込んだ。その度に機械的見流れるアナウンスを耳にして、目頭が熱くなった。

 メッセージを何件も吹き込んだが、鳥坂からの折り返しはない。桃香からの折り返しもない。

 胡蝶はマンションの入り口で、子供のように蹲り、携帯が鳴るのを待った。通りすがる主婦やマンションの住人は、汚い物を見る目で一瞥しては去って行く。長い間コンクリートに座っていたため、薄い尻が痺れ始めたが、体勢は変えなかった。

 身体の芯から、徐々に氷に変化して冷たくなってくる感覚。周りの音も何も聞こえてこなくなって、視界からも光がなくなってくる。

 いつも大事な、かけがえのない者は、ある日突然、胡蝶の前から消えてしまう。どうして自分が大事にしたいと思う存在を、神は取り上げてしまうのか。

 神は乗り越えられる試練しか与えない。と馬鹿な発言をする奴がいるが、あれは乗り越えるんじゃない。生きているから周りが、乗り越えていると勘違いをしているだけ。

 乗り超えて一歩を踏み出しているんじゃない。生きているから一歩に見えるだけなんだと。

 それに乗り越えられなく、自殺する人間もいるはずだ。神がいるなら、なぜ乗り越えられず死ぬ人間がいるのか。

 答えは、神なんていないからだ。人が弱いと認めなくない人間のエゴの言葉なんだと、胡蝶は解釈していた

「何を、やってんだ?」

 顔を上げると、鳥坂がコンビニの袋を提げ立っていた。半透明の袋にはビールをつまみが入っているようだ。

「お前、鏡見ろ。バケモンみたいだぞ」

「五月蝿いね」

 自分でも驚くくらいに、覇気もなく、蚊の鳴くような声だった。

「化粧が涙でズタボロだって言ってんだよ。来いよ」

 部屋に入り、洗面台に案内されると、化粧が崩れて、本当に化け物のような酷い有り様だった。それよりも、自分が気付かないうちに泣いていた現実に、大いに驚いた。

「しっかり化粧を落としてから、顔を拭けよ」

 投げ渡されたタオルを首から掛け、置かれていた洗顔フォームで何度も洗い流した。不純物が取り除かれた顔からは、一気に老け込んだ中年がいた。目には隈ができて、寝不足からか微唾(まどろ)んでいる様に見える。

 リビングでは鳥坂がビールを飲んでいた。

「真っ昼間から飲んでじゃないよ」

「煩いオッサンだな。で? 少しはスッキリしたか?」

 そう言いながらビールを手渡してきた。迷ったが手に取って缶を開けた。

「飲むのかよ」

 胡蝶は何も言わずに喉に流し込んだ。炭酸とアルコールで喉がキュッと締まりながら、熱を帯びる。

 二人は何も言わずにビールを飲んだ。鳥坂がつまみを取る時に、包装の音がやけに大きく聞こえた。外からは自転車のベルが聞こえてくる。音が流れ終わればまた静寂が訪れた。

「私ね、あの子を引き取ろうと思ってね。ここ最近、何度も足を運んでいたのよ」

 鳥坂の反応はなく、ビール缶を持ったまま、点いていないテレビを見ている。しかし聞いていようがどうちらでもよかった。ただ話したかった。

「死んだ娘の代わりだって思われるかもしれないけど、あの子を幸せにしてやりたいって心から思ったんだよ。御木さんにも理由を話していたから、本当にあの子自身を必要としているのか何度も聞かれてね。そりゃあ考えたさ。妻や娘を裏切る行為じゃないかって。でもまだ小さなあの手を握ったら、どうしようもなく愛しくてね。成長した姿とか、大きなってどこの馬の骨とも知らない男と結婚するんだろうなとか、ウエディング姿の横で自分が泣いている場面とかさ。それで色々話し合って、手続きに入る準備を始めてるんだよ。だからあの子はもう、私の子供と同じなんだ」

 気持ちは既にマリアの親だった。あの時は、気付けば全てが手の届かない所に大事なものがいってしまい、どれだけ足掻いても戻ってくるはずもなかった。

 しかしマリアは違う。ちゃんと生きているし探せば戻って来る。それを一秒でも早く確認したい一心だった。

「やめとけ」

「え?」

 射るように、それでいて憐れむような瞳で鳥坂は胡蝶を見ていた。意味が分らなかったが、鳥坂から悪意を感じない。どちらかと言えば心配する声色だった。

 だから自然に、「どうして?」という言葉が出てきた。鳥坂は視線を反らしただ、「あいつは駄目だ」とだけ言った。



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