第43話

 あれから施設を抜け出すことも、以前のように自分を汚す事もなくなり、マリアは部屋に籠っていた。

 胡蝶は御木に用があるみたいで、何度か施設を訪れ、帰る時に少し話しをするだけだった。

 部屋で本を読んでいる時だった。

「マリアさん。お知り合いのかたが来られましたよ」

「――知り合い」

 と言われても、思いつくのは胡蝶と鳥坂しかいない。

「桃香さんという、若い女性です」

 鳥坂の家であった彼女だと思い出して、シスターの後を付いて行った。子供が過ごす部屋は、園長室がある建物と離れていて、渡り廊下で繋がっている。

 園長室の部屋に入ると、相変わらず短いパンツと露出度が高い服を着た桃香がソファに座っていた。。

「久しぶり! マリア」

 何年も付き合いがあるみたいな体と、明るい声が響いた。

「こんにちは」

「そんな余所余所しくしなくてもいいよ。で、先生。それじゃ、マリアと出掛けますね。いいよね?」

 急な事態で驚いて、御木を見た。

「桃香さんが、あなたと買い物にと言ってくださっているんですが、どうしますか?」

 顔が曇ったのを不思議に思ったのか、御木は続けた。

「別に無理とはおっしゃっていませんよ?」

「ね? 行こうよ。何だか妹が出来たみたいで嬉しいし。ね?」

 一緒に出掛ければ、鳥坂の詳しい話が聞けるかもしれない。下心が芽生えたマリアは決めた。

 桃香に手を引かれ、そのまま靴に履き替え外に出ると、部屋の明りに慣れた目が、燦々と注ぐ陽に意地悪をされ、どうしても薄目になった。

 立ち止まると心配そうな声で「大丈夫?」と桃香に聞かれた。頷きながら数秒留まり、ようやく慣れた目で桃香を見ると、「行こうか」と嬉しそうに微笑んできた。



 夜、仕事を終えた鳥坂は部屋でビールを片手にテレビを点けていた。どのチャンネルも大して面白みもなくて、リモコンを何度も持ってはチャンネルを変えていた時、携帯が鳴ったので出てみると、胡蝶だった。

「なんだよ。こんな夜中に」

「マリアちゃん! 桃香ちゃんの携帯を知ってる?」

「は?」

「だから桃香ちゃんの携帯番号よ」

 慌てているのか、電話から胡蝶の吐く熱が伝わってきそうな勢いだ。要領を得ないので、ゆっくりと話した。

「桃香の携帯番号を聞いてどうするんだ? 飯でも食いに行くのか?」

「違うのよ。マリアちゃんが戻ってないらしいのよ」

「桃香と餓鬼は関係ないだろう」

「違うの! 今日、桃香ちゃんがマリアちゃんを連れて出たらしいの。夕方には戻って来る予定だったらしいんだけど、まだ戻らないって園から連絡があって」

「だから? 連絡先聞いてるだろ?」

「それが――」

 話から察するに、園は自分たちの知り合いだからと安心でもしたのだろう。大きく溜息を吐いた鳥坂は、桃香の携帯番号を教えた。

「あんたからもお願いね。繋がったら私にも連絡をちょうだい」

「はいはい」

 と流す様に電話を切った。その直後にまた携帯が鳴る。

「分ったって言ってるだろ」

「どうした? 鳥坂」

「あ? え、オヤジ?」

「そうだ」

 早寝の安積が、十時を回って起きているのは珍しい。だからこそ緊張が走った。

「何かあったのか?」

「いや。少し聞きたい事があってな」

「聞きたい事?」

「ああ。お前、志村聖美しむらさとみって女を知ってるか?」

「いや」

「じゃあ桃香って名前は?」

 嫌な予感がした。安積から名前が出るという事は、何かしら組み絡みだと示唆している。

「桃香なら知ってるが」

「そうか。それはお前の女って訳ではないな?」

「そんな関係じゃない」

「そうか」

 沈黙が流れ、やはりあまりいい話ではないのだろう。

「桃香がどうかしたか?」

「以前、三船の話しはしたな? アイツの下に付いても俺を頼ってくれる奴が少なからずいるんだ。といっても、今の俺は愚痴を聞くぐらいなんだけどな。まあ、あいつ等も付いちまった以上、一緒に泥濘にハマるしかねえからな。その一人が今日言ってたんだが、店で働いている女が子供を連れてきたらしい。それでいい話があるから三船に連絡を取ってくれと。要件を聞くにも連絡を取れの一点張り。仕方無く連絡をとったそうなんだが、待っている間、女が少し席を外した時に子供が『鳥坂お兄ちゃんは?』って聞いてきたらしいんだ。で理由を聞こうとしたら女が戻って来て、その後すぐに三船が来て話しをして出ていったらしくてな。気になったからお前に聞いておこうかと思って電話をしたんだ」

 桃香とマリアの接点は数日前、家に来た時くらいだ。あの日、傷を治そうとしていた。

「鳥坂?」

「あ、いや……俺には関係ないから」

「――そうか。まあ、何かあればできる限り協力はする。じゃあな」

「ああ」

 手に握られたままの携帯をどうするか、暫く悩んでいた。このままにしておくと、胡蝶が騒ぎ出し収集が付かなくなる気がした。

「どいつもこいつも、面倒ばかり起こしやがって」

 携帯からの呼び出し音が、苛立ちを突くように聞こえてくる。

「もしもし? 鳥坂?」

「桃香か?」

「珍しいね! どうしたの?」

 明るく答える声は、事の重大さと悪行を働いたとは微塵も感じてはいなかった。

「お前、ガキを連れ出しだろ。それも俺の名前を出して。お陰で電話が五月蝿いんだぞ。早くガキを送ってやれ」

「ああ……うん。でも今日は遅いから、家で泊まらせようかと思ってるんだけど」

「それならそれで、あっちに連絡を入れておけ。警察沙汰にされても知らねえからな」

「ええ! それは面倒臭いじゃん。鳥坂が電話しておいて」

「何で俺がしなきゃなんねえんだよ! 自分でしろ!」

 電話を切ると、直ぐ胡蝶に折り返した。少し落ちついたと思ったが、今度は桃香の非常識な行動に対し怒り始めた。これは長くなると鳥坂は感じて、先手を打った。

「その非常識な小娘が、ちゃんと施設に連絡をいれているか確認したほうがいいんじゃないのか?」

 胡蝶は、それでも怒りが納まらない様子だったが、渋々と納得してくれ。

 桃香がどうして、マリアを連れだしたのか。あの二人は鳥坂の部屋出会うまで、面識はなったはずだ。そもそも桃香は、子供の面倒を見てやるほどの母性なんて持ち合わせてなんかいない。

 自分の面倒を見るだけで桃香は精一杯で、人の世話なんてしている余裕はない。安積からの電話を思い出して、穏やかだった海原が次第に激しく波打ち始めたみたいな、妙な気分になってきた。

 鳥坂は、持っていたビールを一気に喉に流し込んで、新しいビールを冷蔵庫から取り出してきた。ブルタブを引くと、シュッと耳当たりのいい音がした。鳥坂は、考えるのを止めて、冷えたビールを今度は一気に飲み干した。

 問題は解決した。あとは胡蝶が動くと自分に言い聞かせて、鳥坂はそのままソファに横になった。 



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