第42話
ホッと胸をなで下ろしたが、なぜ自分が疎外されているのか分らない。おもむろに立ち上がって寝室に入った鳥坂が戻ってくると、タンクトップ一枚になっていた。
さらけ出された太く隆々とした腕には、古傷が幾つもあった。肩には、背中に続いているであろう大きな傷もあるみたいだった。
形は違うけど、鳥坂と自分は同士だと思った。見える傷を抱えている鳥坂と見えない傷を持っている自分。全てを諦めているつもりで、何かに縋って自分でも分からない何かを求めている。
視線に気付いたのか、鳥坂は眉間に深い皺を寄せた顔で、マリアを見てきた。体の中で自分さえ把握できていない得体のしれない何かが、壁を破ろうと暴れている。
でも壁は強固にできていて、引っ掻いても叩いても、体当たりしても壊れない。その壁を壊そうと、得体の知れない物を助長させる鳥坂の視線。両親や従兄、叔父とは全く違うものだった。
悪意がないのに畏怖の念を感じる。逃げ出したい衝動に駆りたてられるにも関わらず、居場所はここだと訴えている。
「はい。マリア」
一瞬の緊張を解くように水が手渡され、胸をなで下ろした。桃香も水を飲んでいるから、部屋の中が静かになる。それを破ったのは、派手な音楽だった。
「あ、私だ。ゲッ! マジ……鳥坂、私、今から店に行かなくちゃ。ゆっくりしたかったのになあ」
「ここでくつろぐな」
「えー、だって居心地がいいんだもん」
「止めろ、気色が悪い」
「じゃ、私は行くね。マリア、またね」
桃香が出ていってしまって、空間が広がったように感じる。鳥坂はやはりマリアを見ようとせず、ソファに座ったままだ。
インター・フォンが鳴り、鳥坂が立ち上がった。
部屋には、誰もいないかのように玄関に行く鳥坂の姿を追い、気持ちが丸められた紙屑のように小さくなって、無性に悲しくなっていた。
「やっと来たか」
「よかったわ。あんたの所で」
聞こえてくる声から胡蝶だと、直ぐに分かった。
息を切らしながら現れると、マリアの姿を見るなり、勢いよく抱きつかれた。腕の中にすっぽりと包みこまれた時、優しい香りがした。
「もう! どうして勝手離れたの! 言ってくれれば連れて来たのよ」
胡蝶の顔が真横にあり、長い髪が悪戯をしてきてくすぐったい。
「――さい」
そのままスライドされ、数センチしか離れていない距離に、潤んだ瞳があった。
「ごめんなさい」
「何か、声を出すようになったみたいだな」
マリアはまた優しい香りに包まれた。
「胡蝶……さん」
「鳥坂、聞いた! 『胡蝶さん』って」
「鳥坂お兄ちゃん」
「鳥坂、お兄ちゃんだって」
胡蝶だけが喜び、鳥坂はもう興がそれたかと言わんばかりに、冷蔵庫からビールを取り出していた。
「ちょっと。何か反応しなさいよ」
「てか、早くそいつを連れて帰れよ」
「何、言ってんの! そうそう! 御祝しなきゃ!」
「知るか。余所でやれ」
マリアは、そのままソファに座った鳥坂の後ろに周り、傷跡に手を当てた。傷を消せば、桃香みたいに喜ぶだろうと安易に考えた。皮膚は凹凸で、虫が皮膚の中を這っているみたいに盛り上がっていた。
「何してる!」
それはマリアが今まで聞いたことがない、鳥坂の怒声だった。
施設に行くまで、面と向かって叱られた過去はなかった。シスターは、静かに諭しながら話す。その中には自分に対する慈しみのようなものがある。
しかし鳥坂はマリアを正面から鋭利なもので串刺し、侮蔑の篭った念を込めてきた。それは伯母や麻衣が自分に向けてきたものに似ているようで似ていない。
両親や親戚が自分にしてきた行為に対しての怖気は知っているが、今向けられているような感情を投げ付けられた記憶はない。
だから驚きと戸惑いで、マリアは氷ついたように動きが止まってしまった。
「ちょっと! 何を怖がらしてるの!」
胡蝶が素早くマリアを、動物が敵から子供を守るみたいに抱き寄せた。
「は? じゃあこいつは俺に何をしようとした?」
「何って……あんたの傷跡を消そうとしたんじゃないかい? いいことじゃないか」
「お前もそうとう毒されてるな。そのガキに」
「ちょっとあんた。本当に怒るよ」
野獣が睨みあうような緊迫感が、部屋の隅々までに広がる。
「俺はこいつにそんな事を頼んでいない。それにこれを消したいとも思っていない。これは俺が持っておきたいものだ。人が大事にしている物を勝手に取り上げられて、黙っていられるか? 胡蝶」
胡蝶は察したのか、バツが悪そうに顔を背けたが、直ぐに体勢を立て直す。
「それでも、そんなに怒らなくてもいいじゃないか」
「俺はそいつが、嫌いだ。嫌悪感さえ抱いてる」
マリアが鳥坂を見ると、向けられたことがない、全てを否定するような瞳。冷水でも浴びせられたように体温が下がる気がした。
「どうしてそんなに」
胡蝶が反論始めたが、鳥坂に電話が入った。今から出掛けるみたいで、マリアは胡蝶に手を引かれ、鳥坂の部屋を出た。
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