第41話

皿が空になって、胡蝶がデザートでアイスを用意していたから、マリアが気を利かしてテーブルに運んでおいた。

 その間胡蝶は、台所の隅で誰かに電話をしていた。小声で聞きとりにくかったが、どうやら相手は鳥坂みたいだ。胡蝶が、マリアの声を聞いた、また今度出掛けるなど、嬉しそうに話している。

 病院での彼の態度を思い出し、雲のようにふわふわしていた気持ちは、一気に鉛のように重くなった。

 鳥坂は自分に姿を見せるなと言い放った。なぜ鳥坂は自分に、酷い言葉を言い放ったのか分らなかったが、もしかしたら怪我をして気が立っていたのかもしれない。

 退院をして傷を綺麗に治してあげれば、機嫌も治るかもしれない。また、鳥坂の家へ行こうと思っていた。

 翌朝、家を出る前に胡蝶の携帯が鳴った。相手は鳥坂からで、話しの内容から、朝一で退院したようだった。

 胡蝶はマリアを一度だけ見ると、「送ってから寄るから」と言っていた。そのままマンションを出て、胡蝶の一歩後ろを服を摘まんで歩いていた。胡蝶は、鳥坂の長所と短所を色々と口にしては、怒ったり笑ったりしていた。

 公園が見えてきた所でマリアは掴んでいた服を離した。しかし胡蝶は、マリアが離れたのに気付かずに、施設への道を一人で話しながら歩いて行く。

 マリアは小走りで鳥坂のマンションへと向かった。

 マンションに着くと、ちょうど母娘らしき二人が入って行くので、その後を付いて入った。三人一緒にエレベーターに乗り込むと、年配の女性は三階で降りて行った。二人は母娘ではなかった。

 年配女性が降りると、若い女性は不思議な顔でマリアを一度見たが、そのまま扉が閉まった。鳥坂の部屋がある五階で扉が開き、若い女性も一緒に降りた。

 前を歩く女性とマリアは、見知ら同士なのに、一本の見えない糸と繋がっているみたいに、連なってマンションの廊下を歩いていた。

 前を歩く女性は、ハイヒールにホットパンツを穿き、上も胸が見えそうで見えない、ギリギリまで胸元の空いたシャツを着ていた。

 女性は、マリアが目的とする鳥坂の部屋の前で立ち止まった。

「あんた……鳥坂の部屋に来たの?」

 マリアは頷いた。

「ふーん。まさか鳥坂の相手をしに来た訳じゃないわよね?」

 何の意味か分からず、首をかしげるしかない。

「うん? 何処かで会った?」

 首を振って答えた。

「――よね。私も子供の知り合い何ていないし。ま、鳥坂はまだ帰ってないみたいだから、ここに座って待つしかないよ。どうする?」

 玄関前に座り込んだ女性の横に、マリアも並んで座った。

「で? あんた名前は?」

「マリア」

「私は桃香。鳥坂の彼女。よろしくね。ところで鳥坂とはどんな繋がりな訳?」

 どう答えていいか分からず、考え込んでしまった。

「まあ、いいか。これ食べる?」

 質問をしてきた割に、もうマリアへの興味が反れたのか、桃香の手にはルビー色と同じ赤い飴がある。

「ありがとう」

 マリアは、口の中で飴玉を転がして遊んだ。

 桃香は気にすることなく携帯を触り始めた。その時、桃香の羽織っていたブラウスの裾がずれて、蚯蚓腫れのような線が幾つもあって、何だろうと不思議に思った。

「ああ、これ? リスカの痕。リスカってのは、リストカットね。知ってる?」

「知らない」

「まあマリアには縁がないかもね」

「何?」

 知らない事を知りたいという、単純な欲求だった。

「自分で自分を傷付けるって意味。これをするとね、一時的に嫌だった記憶を忘れられるの。最近は落ち着いてきて、昔みたいに頻繁にはないけど、こうやって傷は残ったまま。だから夏の暑い日でも長袖は手放せないんだけど」

 桃香は自嘲気味に笑っている。なぜ隠すのに傷を付けるのだろうか。マリアには理解できなかったが、その傷を隠したいものだという気持ちは分かった。見るだけでも痛々しいその腕を、マリアはそっと掴んだ。

「どうしたの?」

 初めて会った桃香に、鳥坂にした治癒が出来るだろうか。マリアは鳥坂のあの刺された時の場面を思い出しながら、小声で治れと呟いた。

「え?」

 先程まで両腕になった沢山の傷跡は消え去って、凹凸のない、滑らか腕に変わっていた。

「うそ! なんで?!」

「よかったね」

 桃香は驚いて言葉を失っている。でもマリアの言葉の意味は、頭で処理ができたようだった。

「え? マリアがやったの?」

「うん」

「傷を治せるの?」

「うん」

 桃香はマリアを強く抱き寄せた。無理な体勢で抱きつかれたので、少し首が痛い。

「他に何かできる?」

「悪い大人に、罰を与えられるよ」

「例えば、どんな風に?」

「殺しちゃうの」

 桃香の腕に力が入ったが一瞬だけだった。エレベーターが階に止まった時になる音が、廊下に響いてきた。その後を誰かと話す鳥坂の声が続いた。マリアはエレベーターを降りてきた鳥坂と目が合った。

「おい、家の前にいるぞ。ああ、わかった。直ぐに頼む」

 鳥坂が話している、携帯の相手の予想はできた。鳥坂の視線はマリアを見ているようで見ていない。存在を消し去ったみたいに桃香に注がれている。

「おい桃香。何やってんだよ」

「決まってるでしょ」

「毎回毎回、懲りねえなお前も」

「とにかく中に入れて。トイレ行きたい」

 鳥坂は溜息を付いて玄関を開けた。鳥坂が最初に入り、二人が後に続く。中に入っても鳥坂はマリアを居ないものとして扱った。しかし桃香がいる為そうもいかない。

「鳥坂ー。飲み物ちょうだい」

「冷蔵庫から勝手に飲め」

「マリアは何が飲みたい?」

 鳥坂を見ると、明後日の方を見ながら顔が険しくなっている。

「って、ミネラルウォーターかビールしかないから、水でいい?」

「はい」

 その声に鳥坂が、マリアを初めてしっかり見てくれた。


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