第40話
「あらあら。そんなに力を入れなくても大丈夫よ。少し水が溜まったら捨てて、もう一度回してね。綺麗に水を切れていたほうが、いいから」
マリアは言われた通りにした。
「ねえマリアちゃんの声って、どんな声なのかしら? 聞いてみたいわ。どうかしら?」
マリアは、電池が切れた玩具のように、ピタリと動きを止めた。声を出すのに問題はない。
ただ、友達だった麻衣みたいに傷つけたくないのに傷付けてしまったらと考えると、怖かった。
胡蝶や鳥坂は、傷付けて殺してもいい大人じゃない。ファッションショーと言われた時御堂を思い出した。同じ目に合わされた、御堂同様に殺そうと思った。
でも胡蝶は違った。ただ本当に楽しんだだけだった。鳥坂も、何度か二人きりになったが、自分に手を出さなかった。だから刺された時、生かせるものならと小声で試した。
人を傷つけて殺すだけではなくて、傷を治せると判明した。
「ごめんね。冗談よ。無理強いする気はないわ。ごめんね」
胡蝶は気にせずに手を動かし続けている。
百四十センチ弱のマリアから見ても、胡蝶は大きく見えた。視線に気付いたのか、胡蝶はニッコリと笑ってから、マリアの頭を撫でる。
掌があたった頭頂部が、じんわりと温かい。期待に応えてみたいとマリアは思った。予行練習のために唾液を何度も飲み込み、喉を湿らせた。
鳥坂の時は、息を僅かの声量だったが、それでは聞こえないだろう。口を小さく何度も開いては閉じた。
「マリアちゃんできた?」
口を開けたまま胡蝶を見た。
「よく水がきれたみたいね。じゃあ今度は盛りつけをお願いしようかしら」
陶器の大きめの皿を出して、胡蝶がカウンターの前に他の食材を置いた。
「じゃあ、この野菜たちをお願いね。あと……これ」
とクッキーの型を手渡した。
「マリアちゃん、可愛いくよろしくね」
とウインクをしてくる。
胡蝶の背中を見ながらマリアは作業を進めた。相変わらず胡蝶は鼻歌でリズムを取って料理をしている。
手を動かしながら、その背中に向かった声を出そうかと何度も試みた。でも金魚のように口をパクつかせるだけで終わってしまう。
「できた? マリアちゃん?」
頷くと、胡蝶がマリアの隣に並んだ。
「あら! 素敵だわ。食べるのが勿体ないわね」
と言いながら、またマリアの頭を撫でる。ありがとうと、思いきって言おうとした所で胡蝶と重なり、かき消されてしまった。
食事の準備が終わり、テーブルに並べられた席は、胡蝶と向き合うようにセットされている。
「さあ、食べましょうか。テレビでも点ける?」
首を横に振る。
「そう。じゃあ頂きます」
「……ます」
「え?」
胡蝶が驚きで動きを止めた。マリアは気恥ずかしさもあり、食事に集中する。胡蝶も何事もなかったように振舞ってくれて、マリアは少しホッとした。
言葉を話そうと思った時から過去を振り返り、自分なりに考え、答えを出した。
どれも自分が体の中心、心から湧き出て押さえられない激情。そして心底から体の隅々までに波紋のように広がると、細胞が共鳴したかのように応える。その時に発した言葉が周りに多大な影響を与えていた。
しかし施設での軽い嫌がらせの時、少しの気持ちの波紋で、小さな傷を与えている。それはマリア自身が相手に対し、外敵と判断したからだ。
日常の些細な言葉、例えば挨拶、話し言葉、そこに悪感情を入れ込む事は困難ではないだろうか。気持ちを落ち着かせ、深く考えなければ問題はないだろう。マリアはそう結論を出していた。
両親が死ぬまで普通に話していたのだ。それを意思とは言え、やはり話さないというのは不便でもある。それに胡蝶と鳥坂に敵意を向けることはないだろう。必要最小限、そう思い定めた。
目の前の胡蝶は終始目尻を垂らし、リズミカルに食事をしている。目が合えば菩薩のように微笑む。
胡蝶があまりにも優しく微笑むので、つられて微笑んだ。しかし暫く笑うことも話すこともしなかった頬の筋肉は、思った以上に動かず、気持ちだけになった。
胡蝶はマリアの僅かな変化に気付いてくれたみたいで「ゆっくりでいいのよ。無理はき・ん・も・つ」と気を使ってくれている。
両親や叔父夫婦のような事はもうないかもしれない。以前のように普通に暮らせるかもしれない。マリアは淡い気持ちを抱いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます