第36話

 五年ほど前だった。仕事ばかりしていた胡蝶こと村雨慎二むらさめしんじは、何度も先送りになっていた約束の遊園地に向かうため、妻の佳苗かなえ由香里ゆかりを車に乗せて移動していた。

 由香里は久々の遠出で大いにはしゃぎ、佳苗もそれを見て嬉しそうにしていたのを覚えている。

「おい、由香里。少し寝ていたらどうだ? 昨日も寝るのが遅かったんじゃないか?」

「えーー! だってずっと言ってたのに、パパのお仕事で行けなかったでしょ? だから嬉しくって!」

「ねえ由香里。本当、よかったわね」

「うん!」

 アパレル会社のデザイン部門だった慎二は、帰宅するのも遅く、内見会前などは職場に泊まることもしばしばあった。由香里との約束はその内見会以降にしていたが、トラブルが続き伸び伸びになっていた。それもやっと解決しての遠出だった。

 車内では由香里がお菓子を食べて、運転中の慎二にもくれた。

「パパ、はいジュースも」

「お、ありがとうな」

 由香里の甲斐甲斐しさが嬉しかった。妻と娘から出ていた高揚した気持ちが、心地よく車内に満ちていた。

 遊園地にはサファリパークも併設されていて、一日中楽しめた。帰りの車中、由香里は疲れ切って寝てしまい、佳苗も助手席で船を漕いでいた。

 夜の高速道路は、込み合う時間も過ぎていたため、追い越していく車のテールランプは、あっという間に数十メートル先にあった。

 三キロ先にあるパーキングエリアの看板が目に入り、慎二は少し体を休めようと考えた。体力には自信があったが、溜まった疲れは自分が思うより歳を取っていた体に、相当の負荷になっていたようだった。

 徐々に重たくなる瞼に必死に抗いながら、ハンドルを握っていた。

 そして目が覚めた時には、病院のベッドの上だった。

 意識を眠りに囚われてしまった慎二の車は、そのまま壁に激突し単独事故を起こした。事故から三週間は経っていて、その間に妻と娘の葬儀は終わったと、自分の両親に告げられたのだった。

 一体、両親は何を言っているのか、全く理解できていなかった。ただ自分の体には幾つかの医療器具が付けられていて、体を自由に動かせないのは嫌でも理解できた。自分では腕を上げているつもりで動かそうとしているのに、見えている腕が置物みたいにベッドの上でピクリともしない。自分と見えている腕が、本当に繋がっているのか疑心暗鬼にもなった。

 仰向けに寝ている慎二の目には、包帯が撒かれた脚が、天井の紐に釣られて上がっている。手にも同じく包帯が巻かれ、頭には圧迫感があった。きっと同じ状態なのだろうと思った。

 慎二は両親から聞かされた話しは何処か夢うつつだったので、意識がハッキリしてくるにつれて現実ではないと考えた。

 繋がっていないと疑っていた腕が、自分の考える動きと連動し始めて、容体が落ち着きだした頃、担当の看護婦にも妻や娘の様子を聞くため、何度も質問を繰り返していたが、「大丈夫ですよ」と言うだけで、詳細は何故か聞けずにいた。

 部屋も集中治療室から個室へ移され、見舞いに両親や会社の人間、友人たちが来てくれていた。何重にも巻かれていた頭と腕の包帯も取れ身軽になってきた頃、見舞いに来た両親に、何度も投げかけていた質問の答えを求めた。

「佳苗を由香里の病室は?」

「ちょっと複雑だったから、別の病院に」

 言い淀む母親が廊下へ出ていった。だから義両親の姿を見ないのかと納得していた。部屋に残った父親は、

「これから色々リハビリがあるが、乗り越えるんだぞ」

 と、慎二の手を、祈るように強く握る。

 慎二は今回の件で、仕事を程ほどにするか、転職を考え始めていた。

 事故で、家族がいかに大切なものなのか、改めて思い知ったからだ。これからは家族サービスを沢山しよう。妻や娘のあの笑顔が、ヒマワリのように燦々と慎二の中で咲きほこっていた。

 何とか自分で動けるようになった頃、病院から義実家へ電話を掛けた。

「はい。北浦でございます」

「あ、お義母さん。慎二です」

 そう言った途端に電話が切れてしまった。間違いで切れたと思った慎二は、もう一度ボタンを押した。

 しかし通話中の単調な音しか聞こえてこない。両親も見舞いに来るが、リハビリ中に来るので、めっきり顔を合わせない。見舞客にも佳苗と由香里の状態を聞くが、はぐらかす感じで、自分より重症なのかもしれない。胸が小さくなったのではないかと思うほど、苦しくなって、呼吸をするのも辛くなるほどだった。



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