第35話

「涼太。俺はそろそろ引退しようかと考えてる」

 急な告白に、鳥坂は息をするのも忘れそうだった。

「なんで?」

「時代に俺が付いて行けない、とでもいうかな。最近は若頭に仕切らせてる」

「三船さんに?」

 三船は中々したたかで計算が高く、利用できるものは全て利用しようとする。以前に、安積が鳥坂に言っていた。

 内容から安積が、良い感情を持っていないのは明らかだった。安積は窓の外を眺めながら、どこか遠くを見ているように続けた。

「仕切らせてると言えば聞こえはいいが、ほとんどが三船の下に付いちまったってところだな。あっちに付いた方が金の出入りはいいだろう。ま、そりゃあ構わんさ。だがな」

 鳥坂は安積の言葉を待った。

「俺も色々とやってはきたが、人を人と思わないやり方は、俺には無理だ。涼太、お前も足を洗え。今からでも遅くはない。大学へ行って勉強しろ」

「オヤジ」

 安積は鳥坂に微笑みかけてきた。皺が多くなった目尻が垂れ下がって、何処にでもいそうな優しいおじさんにしか見えない。

「長居したな。退院したら飲みに行こう」

「オヤジ、俺」

 急な安積の提案。戸惑うことばかりだった。

「大学に掛かる金は心配するな。後はお前次第だ。休んでいる間、ゆっくり考えろ。じゃあ、電話待ってるぞ」

 無言で鳥坂は、安積の背中を見送った。




 胡蝶は病院を後にすると、マリアを自宅へ連れ戻った。

 胡蝶の住むマンションは、鳥坂がいる町から一駅ほど離れている。間取りは4LDKの典型的なファミリータイプだった。

「さあマリアちゃん上がって。遠慮はしないでいいからね」

 病院を出る前に、施設には電話を入れていた。胡蝶の家で一泊させる許可もとっていた。

「マリアちゃん。今日は大変だったから、家に泊まればいいわ。施設には許可は取ったから」

 マリアの顔が明るくなった。心を開いてきたのか、慣れてきたのか、表情が徐々に豊かになっている。その変化に胡蝶も嬉しくなった。

「そうそう。今日買った服で、ファッションショーをする?」

 マリアが一瞬、警戒したように見えた。

「あ、ごめんね。疲れているわよね。ジュースいれましょう。そうそう。シュークリームがあるの。ここのは美味しいのよ。立ってないで、座って座って」

 玄関を上がって動こうとしないマリアの背中を押して、部屋の中へと誘導した。

 広いリビングにカウンターキッチン。四つの部屋の内一つは、リビングと繋がる和室。残り三つの部屋の扉は閉まっている。

 その内の一つの部屋で、胡蝶は服を着替えて、髪を下して戻ってきた。

 カウンター奥にある食器棚から、可愛らしい子供向けのキャラクターカップを出して、マリアの前に置いた。

「アップルジュースよ。他にもあるから、飲みたい物があれば遠慮なく言って」

 皿にシュークリームを二つ乗せ、置いてあるクッキーも一緒にマリアの前に置いた。マリアが驚いた顔で胡蝶を見ていた。

 一人暮らしだと思っていていたのなら、マリアの反応は当たり前だ。

「多かったかしら?」

 マリアは頷いた。些細なやり取りが妙に幸せだった。

 マリアがシュークリームを食べ始めると、少しクリームが口元に残っている。それをティッシュで胡蝶は拭ってあげた。

「大丈夫。自分で拭けるよ?」

 とマリアがボードに書いた。

「そうよね。そんな歳のじゃないものね。ごめんね」

 マリアは首を振って、シュークリームをまた食べ始めた。

 自分の娘も生きていれば、こんな感じだったのだろうか。考え始めると、胸が急速に熱くなり、それは直ぐに目元まで上がってきた。


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