猫たちとの出会い ⑪

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。

次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。


学校の国語の教科書にあったこの一文、不思議に脳にこびりついています。

三好達治の「雪」でしたっけ。

先生の解釈があまりに性に合わなくて苛々したことだけ覚えているのですが、だったら実際、自分がどう解釈するかと問われれば、「言葉にはしづらい……」と、作家なのにあっさり諸手を挙げて降参してしまいそう。

でも、詩の解釈なんて、他人に伝える必要はないのでは、そして、自分の中でもハッキリ言葉にしなくてもいいのでは、という気もします。

その人の暮らしに自然に染み込み、ふんわりとその人を構成する要素のひとつになっていく。それが素晴らしい詩なのではないか、と。

何の話でしたっけ。そうそう、猫の話です。

N機関の猫たちをお世話している冬のあいだ、私の頭には、いつも、


子猫を食べさせ、子猫の背中に雪ふりつむ。

ママを食べさせ、ママの背中に雪ふりつむ。


というフレーズがよぎっていました。

うちで食事をしてくれても、休息してくれても、最終的には寒い空の下へ消えていってしまう。雪の中、遠ざかる小さな背中に、いつも胸がギュッとする思いをしていたのです。

ただし、希望も日々、ささやかに育っていました。

ほぼ毎日やってきて、それなりに長い時間を我が家で過ごしていくようになった波多野はたの福本ふくもと。それよりは訪問頻度が少なく滞在時間も短いけれど、それでもちょくちょく来てくれる甘利あまり

ゲームの中のレアキャラのように、たまに来てサッと去っていく実井じつい田崎たざき

とびちゃんの5匹の子供たちは、とても健やかです。

「もう帰る」と外へ出て行こうとするのを、「もうちょっといなよ」と説得し、彼らがパニックを起こさない程度に引き留める地道な働きかけの効果も、少しずつ出ているようです。

特に波多野と福本は、朝までうちで寝ていく日が少しずつ増え、外にいるときも、大部分は我が家か実家の庭で過ごしているようです。彼らは、いつか何かのタイミングで、家猫へスライドさせられそう。

そんな明るい未来が見えてきました。

きょうだい猫たちが家にいつけば、甘利もそれにならってくれる可能性は高いと考えられます。あるいは、田崎と実井も……?

あとは、とびちゃん!

すでに去勢・不妊手術を済ませた子供たちと違い、とびちゃんはまだ子供を産む可能性があります。

猫は1年に二度以上、妊娠・出産のチャンスがあるので、とびちゃんについてはあまりグズグズしてはいられないのです。

もはや「用心が悪い」などと言っている場合ではなく、私はとびちゃんが食事に来ると、必ず席を外すことにしました。

玄関扉を開け放ち、上がりかまちにかなり近いところに食器を置き、猫トイレを設置してある玄関脇のトイレを開放、ついでに反対側にある、物置として使っている部屋も扉を開けたままにして。

家に上がり込んでいいよ、あちこち探険していいよ、トイレも使っていって、何なら物置部屋に猫ベッドとおもちゃを用意したから、くつろいでいって……という、鉄壁の「おもてなし」です。

とびちゃんは賢い猫なので、彼女の視界に私がいる間は、決して家に入ってきません。足音が十分に遠ざかってはじめて、そろりそろりと慎重に家に入ってきます。

たいていの場合、私は仕事部屋の入り口、あるいは彼女から見えない階段に腰を下ろして、耳をそばだてていました。

当たり前ですが、とびちゃんは爪切りができていないので、たとえ爪を出していなくても、歩くと長い爪の先が床に当たって、カツン、コツン、と乾いた音がするのです。

それを注意深く聞き続けるうち、次第に音だけで、とびちゃんが今どこにいるかわかるようになりました。

何週間かそれを続け、私が邪魔をしにこないとようやく確信できたとびちゃんは、食後、しばらく物置部屋でくつろいでいくようになりました。

しばらくといっても、数分から、長くても十数分程度です。でも、それで十分。

次の段階へ進むことができそうです。

次に私がしたことは、とびちゃんがいるときに、さりげな~く、エントランスホールを横切り、トイレに入ること。

用を足すわけではありませんが、とびちゃんに関係のない用事で移動しているよ、とアピールするためです。

最初のうちは、予想どおり、私が姿を見せると、とびちゃんはたちまち外へ逃げ出し、そのまま戻ってきませんでした。

でも、毎日それを繰り返し、トイレでじーっと待つことを続けていると、1週間ほどして、いったん逃げたとびちゃんが戻ってきたではありませんか……!

玄関扉の外でさんざん逡巡し、家の中を覗き込み、前脚を上がり框にかけてトイレの様子を窺い(私は必死で奥に隠れています)、それから、そろりそろりと物置部屋に入っていく。

やったー!

もう、私の脳内では、加藤みどりさんが「なんということでしょう」と言い始めています。

登山でいえば、七合目まで来ました。そんな気持ちです。

あとは、私の問題。

正確に言えば、私の移動スピードと反射神経の問題です。

こればかりは、どうにもできないので、自分を信じるしかありません。

ある日の朝、私は何故か唐突に、「今日ならできる」と確信しました。

理由は特にありません。ただ、何となくそんな気がしただけです。

いつものように、ごはんを食べるとびちゃんの前をスタスタ斜めに横切り、私はトイレに入りました。

来るたびに毎度繰り返されるその行為に、警戒心が強いとびちゃんも、さすがにもう慣れっこ。

いったんは外へ出て行きますが、用心しながらも、すぐに戻ってきます。

辺りを窺いながらガツガツとごはんを食べ、水を飲み、そして、ゆっくりと物置部屋へ入っていきます。

もはや優雅でさえある、その足取り。とびちゃんなりに、少しリラックスしていることが窺えます。

ほどなく、とびちゃんが、部屋の中にある段ボール箱でバリバリと爪を研ぐ音が聞こえました。

それから、とすん、と軽い音がして、静寂が訪れます。

どこかで横になったのでしょう。

チャンス到来。やろう。

緊張で、喉がカラカラです。咳が出そう。

でも、今咳き込めば、とびちゃんはビックリして飛び出してくるでしょう。ぐっと我慢です。

私はなけなしの唾を呑み込み、静かに深呼吸して気持ちを落ち着けると、全身をバネにして、トイレから飛び出しました。

これ以上のスピードは出せません。正直、片膝の靭帯が切れたままの女には、過ぎた疾走です。

裸足で土間に飛び降りて、全開だった玄関扉を一気に閉めます。

私の足音に驚いたとびちゃんも物置部屋から駆け出し、外へ逃げようとしましたが、幸いにも私のアクションがほんの一瞬、早かったようです。

可哀想に、とびちゃんは扉の前に立ち塞がった私の脚に、次いで閉めた玄関扉にどーんとぶつかってもんどり打ち、シャーッ!と怒りの声を上げて、たちまち物置部屋に引き返しました。

荷物の山に飛び込んだとおぼしき、大きな物音が聞こえてきます。

マンガのような、ドンガラガッシャーン!という音です。

大丈夫かな……。あっ、さらにガサガサいっています。無事に大暴れしているようです。

すべては、ほんの10秒ほどの出来事だったでしょうか。

目まぐるしさに呼吸をすることすら忘れていましたが、とにかく、想定した中では最良の結果です。

私はすかさず物置部屋の引き戸を閉め、中から決して開けられないように、扉と枠のあちこちに、布テープを貼り付けました。

部屋の中には、水もカリカリも猫トイレも置いてあります。エアコンも稼働中。

しばらくこのままでも、何の不自由もないはずです。

引き戸に耳を当ててみましたが、もう何の音も聞こえてきません。

とびちゃんはきっと、自分が閉じこめられたことを早くも理解して、室内のどこかに身を潜めているのでしょう。

とりあえず、家の中、そして部屋の中にとびちゃんを入れることには成功しました!

でもまだ、やるべきことがあります。

地域猫にするにしても家猫にするにしても、とびちゃんをまずは動物病院に連れていき、不妊手術を受けてもらわねば。

そのためには、彼女を捕獲かごかクレートに入れる必要があります。

さて、どうやればいいかな……。

ここからは、落ち着いて考えても大丈夫。

できるだけ、とびちゃんを怖がらせず、なるべくこれ以上のストレスを与えないように……と頭をフル回転させながら、私はズキズキ痛み始めた膝の古傷をさすったのでした。

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