猫たちとの出会い ⑩

玄関扉のすぐ前に、ご飯皿をセット。

翌日は、扉のちょっと内側。

その翌日は、もうほんの少しだけ、上がりかまちに近いところへ。

ジワジワと猫を引き寄せる、この「ごはんで誘導作戦」。

子猫たちでは上手くいったのに、とびちゃん相手ではそう簡単ではありませんでした。

さすが、百戦錬磨のママ猫!

いくらお腹が空いていても、私の策略など、とびちゃんにはお見通しなのです。「その手は食わないわよ!」とばかりに、すぐ玄関扉の外へと逆戻りしてしまいます。

しかし、胡散臭い捕獲かごなどには絶対に入らない賢いとびちゃんを確保するには、この作戦を続行する以外にいい方法を思いつきませんでした。

どんなに徒労感を味わおうと、落胆しようと、何度でもチャレンジするしかないのです。

慰めは、すっかりリラックスして家に上がり込むようになった子猫3匹(甘利あまり福本ふくもと波多野はたの)ののびのびした姿と、警戒心を緩めないながらも、律儀にほぼ毎日朝夕、食事をしにとびちゃんが通ってくれているという事実でした。

一時期は、ガリガリに痩せ細り、文字どおり身を削って子育てをしていたとびちゃんが、栄養たっぷりのごはんをお腹いっぱい食べて、ふくふくのツヤツヤに戻ってきているのが、私にとってはささやかな喜びだったのです。

とはいえ、猫にばかりかまけているわけにはいきません。

責任を持ってやり遂げなくてはならない仕事があります。

いよいよ介護の入り口をくぐったとおぼしき、親の世話もあります。

家族の生活費に加えて住宅ローンを支払い、猫たちのごはん代や、彼らの健康を守るための駆虫薬代も稼がねばならないのです。

耐えられない諭吉の軽さ、というやつです。

それなのに、とびちゃんは縁を切った子供たちと顔を合わせないよう、わざわざ時間帯をずらしてやってきます。

結果、とびちゃんの「ごはんで誘導作戦」を実行し始めて以来、猫を待つ時間はほぼ倍になり、私は一日の大半を玄関で過ごすようになりました。

これは、普通ではない。そういう自覚は、ちゃんとありました。

上がり框にホットカーペットを敷き、スタジアムコートを着込んで、それでもなお、開けっぱなしの扉から吹き込む山の寒風に震えつつ、ノートパソコンのキーを叩いて執筆を続ける。

ときには、家の中に雪が吹き込んできたりもする。

そうやって待っていても、半日空振りする日もある。

こんな効率の悪いことは、いつまでも続けられるものではありません。

過剰な無理と自己犠牲は、よくない。本当によくない。

でも、諦めたくない。

とびちゃんは、いうなれば共に子猫たちを育ててきた同志のような存在だと、私は勝手に感じています。

さらに、今はきっぱり子離れしているけれど、もう新たに子猫を産まなくてよくなれば、そしてN機関の面々と共に暮らすようになれば、また親子の絆が戻ってくるかもしれない。そう期待してもいます。

とにかく、今が正念場だ。ここを越えれば、きっと色んなことが上手く回るようになる。

でも、いつ「越え」られるの……? 本当に、そんな日は来るの?

不安と焦燥でいっぱいの日々を送るうち、とてもさりげなく、特大の転機がやってきました。

そろそろとびちゃんが来る頃かな、と、いつも靴を置くあたりよりやや外側にフードをセットし、用事を思い出して、私は仕事部屋にいったん戻りました。

用を済ませて、さて待機……と思ったら、とびちゃんが来ているではありませんか。

もりもりと美味しそうにごはんを食べているので、邪魔をしてはいけないと、私は仕事部屋を一歩出たところで足を止めました。

とびちゃんはいったん食べるのをやめ、胡乱うろんげな目で私を見ましたが、十分な安全距離が取れていると判断したようで、そのまま食事を再開しました。

おや、このくらい離れていたら、とびちゃんは鷹揚な態度を取ってくれるのか。

ならば。

ちょっとした思いつきで、私はそのままひょいっと仕事部屋に引き返しました。

といっても、引き返した「ふり」です。とびちゃんに気づかれないよう、元気よく仕事部屋に戻ってすぐ、今度は抜き足差し足で引き返してきて、物陰からそっと彼女を見守ることにしました。

いくら賢い猫でも、人間がそんな失礼な真似をするとは思っていなかったのでしょう。

すまん。でも、ちょっと試してみたいことがあってね……。

盗み見を心の中で詫びながら、私はとびちゃんを観察し続けました。

やがて、お腹がいっぱいになったらしく、御機嫌で舌なめずりをしながら顔を上げたとびちゃん。

「おや、今日はあの人間、戻ってこないのね! だったら……」というような顔で、周囲をキョロキョロと見回し始めました。

あー! やっぱり、家の中に興味はあるんだ!

いいぞ、その好奇心、大事に育てていこう。

というか、私が姿を消していれば、とびちゃんは心おきなく行動することができるはず!

それでも、用心深いとびちゃんは、幾度も迷い、外へ出て行こうとしてまた引き返してくる……を何度も繰り返して、ついに、上がり框に前脚を掛けました。

ぃやったー! 私、心の中で、大歓声、特大ガッツポーズです。

そろり……と、音も立てずに家の中に上がったとびちゃん、右手にあるトイレを覗き、左手にある客間という名の物置を覗き、人間がいつも出てくる奥のほうを見て、ふむ、と小さく頷いて踵を返し(猫でもそう言うのかしら)、玄関を出ていきました。

その間、5分ほどもあったでしょうか。

かなり、ゆっくりしていきましたよ!

ささやかな希望が、見えてきました。

ごはんを出す→私が姿を消す→とびちゃんが家に上がってうろつく

この流れが定着すれば、家の中でとびちゃんを確保できる可能性があります。

3匹の子猫たちについては、もはや2階で食後のひと休み、ひと暴れ、ひと眠りからそのままご宿泊、という日も少しずつ増えてきています。

おそらく機が熟せば、家に定住してくれることでしょう。

とびちゃんはそんな風にはならないにせよ、せめて不妊手術をして、これ以上子供を産まなくていいようにしたい。その後のことは、そのときに考えればいい。

ようやく、真っ暗なトンネルで、手探りしながら前に進むような時間は、終わったようです。

ここからは、小さく遠く見えるトンネルの終点に向けて、確かな足取りで歩いていこう。

私はひとり、気合いを入れ直したのでした。

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