グレーの奥にあるもの

文学少女

祖母へ

 ドアに寄りかかりながら、僕は地下鉄の電車に揺られていた。ドアのガラスには、暗いコンクリートの壁を背景に、反射した僕の顔が浮かんでいた。生気を失い、目に光はなく、なにもかも諦めてしまったかのような、生きているのか、死んでいるのか、わからない顔つきだった。窓に映った僕が、僕に問いかける。「このままでいいのか?」と。このままではいけない、という思いは、たしかにある。だが、どうすればいいのか、というのが何もわからない。目標もなく、無意味に日々は過ぎている。こういうことを考えるようになったのは、去年祖母を亡くしてからだ。氷がゆっくり溶けてゆくように、静かに亡くなった祖母を見て、僕は自分が死ぬ時を想像した。白い壁に囲まれた、病室のベッドの上で横になり、動けなくなり、何も見えなくなり、何も聞こえなくなり、今までの人生を回想する、その時を。そうすると、このままでいいのだろうかという漠然とした不安が、僕の胸に広がり、息苦しいほどの、胸騒ぎがするようになった。

 今日は大学が始まる日だった。この電車は、大学に向かって進んでいる。電車は、淡々と、僕を大学へと運ぶ。今までと同じように、これからも同じように、漠然とした不安が収まらない中、電車は無慈悲に僕を大学へと運ぶ。大学の駅に近づいた、そのとき、強烈な違和感が僕を襲った。僕はまた、去年と同じように、無意味な一年を過ごすのだろうか。そう思うと、僕は憂鬱になった。僕は、反射した僕の顔の奥で、右から左に流れてゆく灰色のコンクリートの壁をただ眺めていた。壁に取り付けられた白い蛍光灯が、流れ星のように通り過ぎてゆく。いつの間にか、降りるはずの西早稲田を通り過ぎていた。僕は、新宿三丁目で降りた。


 地上に上がる階段の踊り場で、男が寝ていた。全く動かず、静かに、男は寝ていた。黄土色のボロボロになった布を被っていて、顔は見えなかった。布からはみ出た男の足の色は灰色だった。赤いレンガの上で、その足は冷え冷えとしていた。その足には、生命力を感じなかった。死んでいるのではないかと思った。こんな風に、いつか僕も朽ち果てるのではないかと思うと、僕は淋しくなった。

 地上に出ると、雨の匂いが漂い、ひんやりとした空気が僕を包んだ。霧のような弱々しい雨が、静かにそっと降っていた。雨に濡れ、つやつやと輝く黒いアスファルトにできた小さな水たまりには、ぽんぽんぽん、と小さな丸い波紋が浮かび、互いにぶつかり合って溶けてゆく。背の高い灰色のビルが、僕の目の前に並んでいた。都会の象徴である、無機質な人工物のビル群は、雨の中で、氷のような冷たさを僕に感じさせた。ビルの間から覗く窮屈な空には、灰色の雲が立ち込め、重々しく、低く垂れさがっていた。コンクリートも、寝ていた男の足も、ビルも、空も、灰色だった。僕は、彩のない、モノクロの世界に閉じ込められている。

 僕は新宿御苑に向かった。灰色の景色を眺めて、色彩豊かな自然の景色が、無性に恋しくなった。無機質な建物に囲まれた、息苦しい人間社会から抜け出したかった。新宿御苑に行くのは、幼いころ、祖母と行ったとき以来だった。雨に濡れた、都会の街の中を歩いてゆく。すると、ビルの街の中に、深緑の木々が姿を現した。その木々の間からは淡いピンクの桜の木が覗いていた。都会にこんな場所があるのが、なんだか不思議だった。新宿御苑へと続く横断歩道の前、赤信号で立ち止まると、右側に、高くそびえ立つドコモタワーが見えた。霧で霞み、その頂上は見えなかった。

 学生証を見せ、二百五十円でゲートをくぐった。さっきまで見ていた、灰色の都会の風景とはかけ離れた、静かな自然の世界があった。僕は、違う世界に来たような気がした。深緑、黄緑、褐色の木々が並んだ道を抜けると、広大な芝生の広場に出た。雨が降っていて、平日の午前中だからか、人の姿は疎らだった。広場には、満開の桜がずらりと並んでいた。僕は桜の木に近づき、花を見上げた。灰色の曇天を背景に、薄暗い中、桜はふっくらと咲いていた。近くで見ると、雨の日だからか、桜の花はピンクというよりも、淡い水色に見えた。淡い水色を浮かべる桜は、どこか霊的な感じがした。僕は、青空の下で太陽の光を浴び、ピンク色に鮮やかに美しく輝く桜よりも、この桜の方がきれいに思えた。

 僕は日本庭園に向かった。人の少ない新宿御苑はほんとうに静かだった。雨粒が傘に当たる音と、僕が湿った土を踏む音、そして、鳥のさえずりだけが聞こえた。静かな雨の中、鳥の美しいさえずりは、綺麗に響いていた。

 日本庭園には、丸々とした木と植木に囲まれた、大きな池があった。その奥には、ドコモタワーが高くそびえ立っている。木、植木、ドコモタワー、池に架けられた橋が池の水面にぼんやりと浮かび、雨が作る波紋でさららと揺れる。僕には、池にもう一つの世界が広がっているように思えた。この池に飛び込めば、水面に映る美しい世界に行けるような気がした。

 どこに行っても、霞んだドコモタワーが見えた。桜の木の枝越しに見えたり、深緑の木の後ろに見えたり、葉もない枯れ木の後ろに見えたりした。僕は写真の構図を決めるように、絵画の構図を決めるように、映画のワンシーンの構図を決めるように、いろんな角度、いろんな景色でドコモタワーを眺めた。いつしか僕は、心に重くのしかかる憂鬱を忘れていた。

 もう新宿御苑を出ようとした時だった。一本の桜の大木が、僕の足を止めた。この桜の木は、他の桜の木とは何かが違う。僕はなぜだかわからないが、とにかく、その桜の木に心がひかれたのだ。桜の大木は、全身に真っ白な桜の花を咲き誇っていた。羽を広げた鷲のように、枝を大きく広げ、大きくそびえ立っていた。地面につきそうなほど低く垂れている枝もあった。僕は、その桜の木に、そっと近づいた。桜は、僕を、優しく包んだ。人肌のような、安心する温かさを、僕は感じた。僕は、祖母の優しさを思い出した。祖母が僕に残してくれたものは、心の隅にそっと佇む、温かい優しさだった。「桜の樹の下には死体が埋まっている」という、梶井基次郎の言葉が、僕の頭をよぎった。この桜は、祖母が咲かせているのだと思った。


 新宿御苑の出口へと向かうとき、僕はふと、またドコモタワーを見上げた。さっきまでかかっていた霧が姿を消し、頂上がはっきりと見えた。僕は清々しい気持ちになった。僕は、どんな些細な一歩でも、前に進もうと思った。

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