険非違士・出立の段
涼海 風羽(りょうみ ふう)
険非違士・出立の段
朝霞が山肌にけぶっている。カガリは鼻梁を天へと向けた。
夜明けまでほど近い現刻、樹々の覆う森の奥まで届く光は微々たるものだ。カガリは肌を湿らす風の流れに、つん、と
艶やかな黒髪は肩口で舞い上がり、真麻色に変じた毛先を大きく躍らせ、額の先から左の頬まである白い傷跡が露わにされた。真正面に据えた視線は
カガリは瘴気を嗅いだ風上に向けて歩を差し出した。背には大弓を提げている。
「貴方様に、
見上げた先に鎮座するのは、烏の
「ヒドラノ
カガリが言うと、烏頸の鹿が頭を上げた。
『
烏の頸が喋ると瘴気のにおいがむっとあふれた。カガリは言う。
「私は御身に仕え、
森を震わす哄笑が鳴る。烏頸の鹿は大岩を、尾で砕き割った。あたりの樹々から鳥共が逃げた。しんと静まりきった森の奥で風とにおいが蠢いている。カガリは眼前に据わる巨大な異形にうやうやしく跪き、両掌をそっと合わせた。
「お返し申し上げます」
光沢のない
「御奉公を」
大弓と
このカガリという者を除いて。
大弓を捨て、蓑がさの裏に両手を這わす。幅広の二尺刀が二振り、光芒を迸らせる。一切の呼吸を排除した、獣の狩りの模倣である。
カガリの狩りは、行われた。
ごろりと烏頸の鹿が地にくずおれる。両刀にまとわりついた黒い脂を自身の衣で拭う。腰裏の
「ヒドラノ尉様……」
すでに動かなくなったそれは、カガリが仕えていた存在だった。否、今もなお仕えているとカガリは心でそう思っている。いわんや、これからもそうであり続けたいと願っていた。
……願っていたのだ。
猫の豊かな毛に身をゆだねながらカガリは感情のあふれるままに慟哭した。まだ側にいたかった、まだ教えを
崩れ落ちるカガリをせせら笑う声が上がった。烏頸の鹿である。絶命寸前の余力を絞っているのが分かる
『ヒドラノ尉の
そう言って嘴から吐き出したのは、小さな
「お前も
『化けねば滅ぶは常世のならいよ、清きは穢れに喰らわれるのみ、
「
断として言う姿を、再び嘴が大きく笑った。
『哀れなり、人の子よ。我が同胞にほだされおって』
「……聞かせよ、お前は何という名を持っていた」
『……サラヅノ
それを最後に異形の動きは完全に止まった。カガリが勾玉を拾い上げると色も無く透き通っており、
カガリは勾玉を胸に抱きこむように握りしめ、そして烏頸の鹿――サラヅノ輔へ向き直って再び刃を抜く。その刃を、烏の眼窩に目がけて突き立てた。柄を両手に持って、そのままほじくる。
ぽろりと、透明な勾玉がまろび出た。榊の印も同じである。
「……お前も、暗き穢れに怯えていたのか」
眉根に哀しい力がこもってしまう。二つの勾玉を両手に取る。勾玉に映るカガリの
風が森の中を吹き抜けてゆく。浅葱色の霞が揺らぎ、あたりのにおいをさらってゆく。いつしか陽が昇りかけ、夜明けの空は白みはじめている。冷えた森の木の葉はすでに色がくすみつつあった。
主を失くしたこの森は、やがて瘴気に侵されるだろう。言外にサラデノ輔は語った。それほどまでに森の外は穢れ果てたと。カガリの仕えたヒドラノ尉は、外から来たサラデノ輔と大岩の座を争い、そして敗れた。
森の主として彼の座に居座れるのは、ただ一柱だけなのだから。それが人でも獣でもない異形の彼ら……〈神〉と呼ばれる存在が持つ宿命である。
しかしサラデノ輔は生き残るべく、道を違えた。瘴気を纏った神はもはや神と非違なる物と呼ばねばなるまい。神を殺した欲望の獣。すなわち
ヒドラノ尉を殺したサラデノ輔さえ森の外に怯えていたのだ。地上には
ただしヒトだけがここにいる。森の外に広がる
(なればこそ……)
スズミは胸中で、熱い物を決した。
土中に眠るかつての主に深く頭を下げた。今はもう帰れる場所はどこにもない。黄金に染まる天を仰いでカガリは大きく遠吠えをした。森のはりつく山々に残響しながら、カガリの声は消えてゆく。
カガリは森を出ることにした。黒と真麻の髪を結い、左右の耳に透いた勾玉を飾りつけ、真一文字に引き締めた口元には確固たる情熱が力強く、それでいて澄んだ凪のように玲瓏な色もある。
翡翠に近い瞳は、跳梁跋扈で荒れ狂う
(戦乱の世、というわけか)
面白い。カガリが口に笑みを浮かべた。腰に提げるは二振りの剣。生き抜く術なら身に持っている。主たる神と生まれ育った故郷の森を、
荒ぶる神と守り神。その狭間に生きるヒト、カガリは森を踏み出し、旅に出る。
これはまだ、この世に神がいた日の物語。
険非違士・出立の段 涼海 風羽(りょうみ ふう) @pusan2525
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