第7話

 目の前に床の木目が見えた。すぐそばに灰色の壁がある。部屋の中にいるようだった。起き上がろうとして、腕と脚をしばられている事に気付く。首の後ろが火傷やけどしたようにヒリヒリと痛んだ。

 黙ったまま視線を動かす。マンションの一室だろうか。いや違う、窓がない。地下室だと思い当たった。入り口近くには人相の悪い男が二人、だらしなく床にしゃがんでいた。景子が目覚めたのに男の一人が気付き、部屋の外に出ていく。もう一人が嫌な目付きで景子を見た。

 何故私はここにいるのだろう。もやのかかった頭で、景子は記憶を辿たどった。そうだ、コンビニを出た時にあの男に出会って。

「お目覚めですか」

 慇懃いんぎんな声がした。コンビニで会った、あの男だ。先ほどとは違い、何とも嫌な感じのする笑みを浮かべる。景子は黙って男をにらみ付けた。

「そういう態度は不快ですね。もっとおびえてくれないと。そう、あの子みたいに」

 男が嗤う。景子は慌てて男の背後を伺った。

「まだ此処にはいませんよ。もうすぐ来るかな。目印はちゃんと置いておきましたから」

 バッグが見当たらないのに気付いた。コンビニの袋だけが部屋の隅に置かれていた。

「彼に手を出さないで」

 景子の言葉を聞いて、男は嬉しそうに笑った。

「そうそう、そんな感じ。もう少し追い詰められた方がいいかな」

「ふざけないで」

 男の眉が吊り上がる。

「また睨む。そういうのは嫌いだ」

 男が合図すると、入り口の対角にある引き戸が開いた。その奥にあるものを見て、景子は悲鳴を押さえられなかった。男が声を立てて笑う。

 そこに見えたのは、拷問用の器具、そして床には、はっきりと血の跡があった。

「カトリックが異教徒弾圧に使ったもののレプリカだよ。当時そのままに、精巧に作られてる」

 手下と思われる男が持ってきた道具の一つを受け取り、景子に示す。声が出せなくなった景子に向かって、男は話し続けた。

「迷える子羊に愛を、とかうたいながら、まつろわぬものは虐殺する。何の躊躇ちゅうちょもなく人を殺すんだよ。異端というレッテルを貼った途端に、相手が自分と同じ人間だという認識を捨て去れる。本当に簡単なんだね」

「何が言いたいの」

 男の言葉に誤りはない。盲信は人を狂わす。思考を乗っ取り、操るのだ。そう、『M』のように。

「信仰によって自分の頭で考えることをやめた者たちは、正義という名の虐殺を行う。殺される側になっても同じだ。隠れキリシタンは踏み絵を拒否し、死んでも信仰にしがみつく。イエス様も罪深いよね。神の国を信じさせることによって、虐殺する側と、される側の両方を作り出してしまったんだから」

 何の演説なのだろう。自己の正当化か。それとも。いや、理解しようとしてはいけない。逃げることを考えなければ。

「早く来ないかなあ、あの子。僕を見て怯えた顔が最高だった。エクスタシーを感じる程に」

 日下部くん、お願いだから来ないで。ここに来ちゃ駄目。

 願いは叶わなかった。開け放たれたままの扉の向こうに見慣れた姿を見付けて、景子は叫んだ。

「日下部くん、来ちゃ駄目。早く逃げて!」

 薄闇の中を歩いて来る大輔の足取りは覚束なかった。時折りふらつき、壁に手をついて身体を支える。入り口にいた二人の男が立ち上がり、手に持ったチェーンを振り回すのが見えた。

 突然大輔の姿がブレた。残像が宙を舞う。大きな音を聞いた景子には、何が起きたのか分からなかった。

 床に倒れて動かなくなった男たちの間を走り、大輔は景子に駆け寄った。抱き起こして立ち上がらせ、背後にかばう。

「待ってたよ。遅かったじゃないか」

 男が笑う。

「見かけによらず強いんだね。でも、僕の事は怖いんだ」

 景子の位置からは大輔の表情は伺えない。必死に恐怖に耐えているのだろう事だけは分かった。

「日下部くん、私を置いて逃げなさい」

 耳元で囁く。大輔は動かなかった。その背中に微かな震えを感じた。

「そうだ。その顔だよ。最高に素敵だ。もっと怖がれ。あれ? 今日はまだ倒れないんだね。いいよ。頑張れ」

 背中の震えが大きくなる。男が猫なで声を出した。

「泣いてもいいんだよ。我慢しないで、ほら」

 コンクリートの壁に男の高笑いが反響した。大輔の息遣いに小さな声が混じった気がして、景子は目を閉じ、顔を伏せた。ごめんなさい日下部くん。こんな事に巻き込んで、ごめんなさい。

「動くな」

 低い声が聞こえた。目を開けた景子は大輔の肩越しに、銃口の鈍い光を見た。

「日下部課長」

 男の顔に照準を合わせ、日下部は引き金を引いた。

「駄目!」

 景子の叫びを銃声がかき消した。

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