第5話

 処置室から医師たちが出て来るのを見て中を伺った景子は、見たことのある人物の姿を目にした。

 日下部、二課長?

 調査部にいたころ、何度か話をした。大きな体といかつい顔立ちに似合わず、ジョークが好きな楽しい人だったのを憶えている。

 大輔は彼の胸に顔を埋め、肩を震わせていた。

「怖い」

 そう訴えるのが聞こえた。微かにすすり泣きが聞こえる。無意識に握りしめた掌に爪が食い込んだ。

 日下部大輔。ふと名字が同じことに気づいた。大輔は彼の身内なのだろうか。

 くぐもった声が聞こえた。何と言っているのだろう。

「無理言うなよ」

 日下部が、そう言って大輔の髪を撫でる。泣き声が大きくなった。

「大輔」

 辛そうな声で言った後、日下部はいきなり大輔を肩に担ぎあげた。景子には目もくれず、処置室を出て病室に向かう。鍵が掛かる音を聞いて、景子はモニター室に走った。

 監視カメラのモニター画面の中で、日下部が大輔をベッドに降ろすのが見えた。振り向き、カメラをにらみ付ける。突然画面がブラックアウトした。

「日下部さん、勘弁してくれよ」

 班長が額を押さえた。諦めたようにマウスを操作する。RECの赤いランプが消えた。


 どれぐらい時間が経ったのだろう、唐突にモニター画面が点いた。日下部の姿はなく、布団を被って寝ている大輔の姿だけがあった。電源が入ったせいか、カメラがズームして大輔の頭部を映す。白い髪が乱れているのが見えた。大輔が寝返りを打ち、むき出しの肩があらわになる。頬に残った涙の跡が痛々しく見えた。


「日下部課長」

 薄暗い廊下に佇む姿を見付けて、景子は声を掛けた。暗い眼差しが振り返る。

音無おとなしか、久しぶりだな」

 そう言って歩き出す。着いて来いという素振そぶりを見て、景子は後に従った。エレベーターホールまで歩き、日下部は足を止めた。

「大輔が世話になってるそうだな」

 やはり身内なのだ。景子は日下部に向かって頭を下げた。

「ご無沙汰しております」

 小さく頷き、日下部は自動販売機にコインを入れた。

「コーヒーでいいか?」

 ありがとうございますと言って受け取った缶は、重い気持ちを少しだけなだめてくれた。

「日下部課長」

「何だ」

 景子は思い切って尋ねた。

「病室で何をしておられたのですか」

 コインを追加する日下部の手が一瞬止まった。

「寝かし付けただけだ」

 早口でそう言い、自販機のボタンを押す。

「どうやってですか」

 景子は畳みかけた。涙の跡を思い出し、胸が痛んだ。

 日下部は黙ったまま取り出し口の缶を手に取り、顔を上げた。

「それを訊くか。嫁さんと何をしようが、こっちの勝手だろうが」

「しかし監視カメラを勝手に切るなんて、……嫁?」

 激しく瞬きする景子に向かって、日下部は笑った。

「まあ、そういう事だ。怖いって、あんまり泣くもんだから。大目に見てくれよ」

 思考がまとまるまで少し時間がかかった。「結婚したので」大輔の言葉が思い出される。何故だか妙に安心した。そして、嫉妬心が消えた。

「ご馳走ちそう様です」

「何がだよ」

 柄にもなく照れる日下部が可笑しかった。

「コーヒーの事です」

「おう、そうか」

 愛してるんだ。そう思った。なのに何故。

「どうしてあんな任務を」

 断ることは出来なかったのだろうか。大切な人を、あれほど辛い目にあわせるなど、景子には考えられない。そんな思いを視線に込めた景子を見て、日下部は口元を歪めた。

「大輔が決めたんだ。隔離されて会えなくなるより、辛くてもこの方がいいと。離れたくないから。あいつは、そう言った」

 拳を握り、日下部は目を伏せた。協力者への依頼の中には有無を言わせない強引なものがあるというのを、景子も耳にしている。きっと日下部たちも同様だったのだろう。何らかの二者択一を迫られたに違いない。

「二人で逃げようって言ったら、冷静になれとさとされた。逃げきれると思うのか、母さんはどうなるってな。情けない限りだ」

 最後は呟きのようだった。しばらく黙った後、日下部は思いつめた表情で顔を上げた。

「よろしく頼む」

 そう言って向けられた真っ直ぐな眼差しに、景子は答えを返すことが出来なかった。

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