第3話

 ある日の昼下がり、景子は大輔を連れてフランス料理店の扉をくぐった。夜に入れば高い店だが、昼間は安いランチのコースがある。先週は大したものを食べていないから、たまにはプチ贅沢ぜいたくもいいだろうと思った。

「こういう店は初めて?」

 少しオドオドしていた大輔が「はい」といってうつむく。白い開襟シャツにブルージーンズというラフな格好だが、昼間ならOKだ。それに大輔のたたずまいは、どことなく品がある。

「わあ」

 運ばれてきた前菜を見て、大輔が目を輝かせた。花の形に加工された野菜、カラフルなゼリー寄せ、ワニの形をした小さなパイ。

「頂きます」

 手を合わせてからフォークを持つ。嬉しそうに口に運ぶ様子を見て、景子は口元が緩むのを感じた。

 可愛い。そうだ、この子はれたところが無いのだ。だから幼く見える。上品な所作と綺麗な姿勢を見て、育ちが良いのだろうと景子は思った。

「ねえ、あなたの事を訊いてもいい?」

「はい、どうぞ」

 即答されて景子は驚いた。答えてくれるのか。

「ここには、いつからいるの?」

「先月の初めからです。一昨年に半年ほど入院して、一旦は家に戻りましたが、要請があって」

 すらすらと答え、大輔はワニの姿を模したパイを食べようとして躊躇ちゅうちょした。

「顔があると食べにくいですね」

 優しい子なのだろうと思った。何となく色眼鏡で見ていた自分が恥ずかしい。

「ご両親は、お家に居られるの?」

 ふと大輔の表情がかげった。ワニを避け、黄色い花のカボチャをつつく。

「父は四年前に亡くなりました。母は、どこにいるのか」

 フォークを置き、大輔は項垂うなだれた。急に食欲をなくしてしまったように見えた。

「ごめんなさい」

 余計なことを訊いてしまった。額を押さえる景子を見て、大輔が笑顔をつくった。

「大丈夫です。今は新しい家族がいますから」

 そう言ってカボチャを口に入れる。

「新しい家族?」

「はい。結婚したので」

 景子はフォークを取り落とした。金属が落ちる音が床に響く。ウェイターがそれを拾い、新しいフォークがテーブルに置かれた。

 言葉が、いや声が出なかった。結婚、この子が。信じられない。相手は、どんな女なの。タキシードを着た大輔の隣に顔のない花嫁が立つイメージが浮かんだ。違和感しかない。この子には、むしろウェディングドレスの方が似合う。混乱する思考の中に、景子は確かに嫉妬の感情を認識した。


 車を走らせながら、景子はダッシュボードの上に置いた小さな紙袋に目をやった。結局ワニは最後まで残った。下げられる皿を名残惜し気に見送る大輔を見て、景子はパイを包んでくれるよう店員に頼んだ。

 たくさん食べたせいなのか、大輔は車の中でウトウトし始めた。

「日下部くん、起きなさい」

 白い睫毛まつげが震えた。

「はい。お休みなさい」

 頓珍漢とんちんかんな返事を返し、とろとろと眠りに落ちていく様子を見て、景子は笑ってしまった。眠っていると本当にお人形のようだ。パーキングに車を入れ、エンジンを切る。しばらく寝かせておいてあげようと思った。

 静かな中にいると睡魔がやって来る。それなりに疲れがたまっていたのだろうか、景子もまた、運転席で眠りに落ちた。


 『M』対策委員会からスカウトが来たのは、家族がいなかった事が理由かも知れない。景子は大学四年の時に両親を火災で失った。放火だった。犯人は捕まっていない。その頃から起き始めた無差別犯罪のひとつと思われた。通り魔、暴走、そして放火。嘆き悲しんだ月日の後、景子は警察病院を研修先に選んだ。何が起きているのか知りたかった。そして委員会にスカウトされた景子は、驚くべき事実を知ることになった。人の精神を喰う悪魔の存在。見た者は命を落とし、近寄っただけでもその影響を色濃く受ける。心が悪意に染まり凶悪な犯罪者となる。

 『M』の拡大に準ずるように、犯罪の種類も凶悪化しているという。巧妙に計画された猟奇犯罪が起きる様になった。『M』によってサイコパスが生み出されているのだと、班長は言った。大輔と景子の仕事は、街中にひそむ彼らを見付け出して、本部に伝えることだ。

「あの子は、レーダーなんだよ」

 班長は言った。

「ある事故により、彼はその能力を身に着けた。『M』の影響を受けた者の精神と共鳴するんだ」

 驚く景子に向かい、班長は言葉を吐き出した。

「いいか、一人残らず見付け出せ。これ以上増えたら手に負えない。時間が無いんだ」

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