商店街の秘密

第1話

 道を歩いていて、ふと気づくと新しい店が出来ている。ここは以前何の店だったろうか。その前は。思い出せない。大した意味を持たない記憶は、簡単に上書きされていく。見知った路地を一歩入って、いつもと違う景色が広がっていたとしても、きっと誰も気にも留めない。


 辛い人生から逃げ出したいと思った男が路地を入り、仄暗い灯りを付けた屋台を見つけ、声をかける。

「竹輪を三本くれ」

 屋台のおやじの目が光り、男をじっと見つめる。お前はそれでいいのか。本当にその覚悟があるのか。一瞬の問いに答える間もなく、目の前に湯気の上がった皿が置かれる。

「はい、お待ち」




「だけど夜に見たときは、人形は違う方向を向いてるのよね、山口先生」

 少女の呼びかけに顔を上げ、美紀は膝の上の古い漫画本コミックスを閉じた。

「そうねえ、先生は見たことないけど」

 目を上げた先にある理科室の人体模型。子供の目には恐ろしい姿に見えるのだろうか。


「それから、ひとりでに鳴る音楽室のピアノ」

「踊り場の鏡」

「トイレの花子さん」

「HANAKO?」

「菊田、秋山、岡部~」


 どっと笑いが起きる。小学四年生の四人組。大柄な男の子、ひょろりとした秀才くん、眼鏡の少年に美少女、という組み合わせではなく、現代っ子らしく皆それぞれに垢抜けた男児二人女児二人。


「屋上へ続く十三階段」

「何それ?」

「いつもは十二段なのに、何故か数えると十三段あるんだって」


 地元商店街の佃煮屋の息子である中川つばさが、この夏転校してきた田中りりに説明している。大きな瞳を輝かせて、りりは摘み細工の飾りを付けた編込みの頭を振った。

「じゃあ数えない方がいいね、怖いから」


 りりは商店街の子ではなく、駅の反対側のマンションに引っ越してきた子だ。同じマンションに住む山田あんじゅが、「弱虫だなあ」と優し気に声をかける。言い返すでもなく、りりはにっこりと笑顔を向けた。


「数えちゃいけないっていう話なら、私もう一つ知ってる」

 横から川口ひまりが口を出す。


「お母さんが、神社で数を数えちゃいけないって言ってた」

「何で?」

「理由は教えてくれなかった」

「何でだろう」

「何故かな。ねえ先生」


 再び自分に回ってきた質問に美紀は少しの間首を傾げ、「そうね。タブー、なんじゃないかな」と答えた。


「タブーって?」


「触れちゃいけないもの」

「知らない方がいいこと」

「知ってしまったら消されるんだよ」

「誰に?」

「秘密結社とか」

「三角頭巾の?」

「信じるか信じないかは、あなた次第」


 またも笑いが起き、話題は学校の七不思議から逸れていく。

「山口先生、『こっくりさん』ってやったことある?」

 少し口元をとがらせて答えを待つひまりの顔を見ながら、美紀は苦笑した。


 小学校の理科教師。イメージ通りにフラスコで湯を沸かし、ビーカーに入れたコーヒー。子供たちの前に置かれたジュースはメスシリンダーの目盛りを合わせて。ほんの少しの背徳感を味わいたくて、彼らはここに来るのだろうか。


「中学校のとき一度だけね」

「どうだったの?」

 悪戯っ子の輝きを宿した八つの眼差しが美紀を見つめる。


「中間テストで平均何点取れるか尋ねたら九十五点って答えがあって、安心して全然勉強しなかったら見るも無残な結果だった。それから、してない」


 ため息とも感嘆ともとれる声が四つの口から漏れる。


 笑わないんだね。美紀は夕日が赤く色を付けようとしている窓の外に目を向けた。

 お山の頂上に見える小さな赤い鳥居。そこから長い階段を下った処から、鎮守の森商店街が始まる。神社を北に、西と東に二筋の道。駅まで真っ直ぐに抜ける西の道の両側には、観光客相手の土産物屋と、やはり観光客相手の小洒落た飲食店が並ぶ。一本ずれた東の道は、少し蛇行しながら駅の横の踏切へと続いている。つばさやひまりの家があるのは、こちらの方だ。中川佃煮店は神社の石段から数えて三つ目。ひまりの家である喫茶ラガールは、踏切から商店街に入ってすぐの所にある。


 開拓が進んで都会化していく駅の向こう側に比べて、取り残された感が否めない寂れかけた商店街。辛うじてシャッター街にはなっていないが、美紀が子供の頃に見た賑わいはもう無い。


 朝顔祭り、縁日、浴衣を着た人々に混じる狐の面。あの下の顔は人間なのだろうか。路地の向こうを通り過ぎるチンドン屋の正体は? 幼い美紀にとってそれは恐ろしいだけではなく、大きな胸の高鳴りをもたらすものだった。今夜あの角を曲がったら、そしたら、もしかしたら。


 顔を上げた美紀は夕日が沈みかけているのに気づき、慌てて子供たちに声をかけた。

「そろそろ帰りなさい。暗くならないうちに」


 美紀の声に被さるように下校の音楽が流れ始める。

「はーい」という素直な声を残して、子供たちは理科室を出ていく。


「先生さようなら」

「さようなら。気を付けて帰ってね」


 扉が閉じられた後に聞こえるのは、オルゴールのようなメロディだけ。いつしかそれも止み、部屋は静寂に包まれた。

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