第55話 彼女と僕の最初の出逢い

渚沙なぎささん」


 僕が声をかけると、渚沙さんは振り向いた。


 大きな窓から出てみると、そこはタイル張りのバルコニー。横に長く、隣の部屋まで続いていた。バルコニーの中央にはラタンのアームチェアが置かれ、その一つに渚沙さんが深く身を預けている。


「上を見るとすごいの。星がたくさん」


 椅子はリクライニング方式になっていた。僕が見よう見まねで触っていると、背もたれが大きく倒れる。僕はそのまま夜空を見上げて、歓声をあげた。


 黒い墨と紫のインクが混じったような複雑な色の夜空に、白く輝く星が無数に浮かんでいる。ちかちかと瞬く星を、僕たちはしばらく会話もせずに夢中で眺めていた。


「……二人で見られてよかった」

「うん。やっぱり僕らは、幸運だね」

「……あのね、それなんだけど。私なりに、考えたの。幸運の理由」


 よく晴れた夜空を見上げながら、渚沙さんがぽつりと言った。


「理由?」

「今までも、ちょっと怖くなる時もあったんだよね。なんの能力もない私に、幸運が起きるようになる理由ってなんだろうって。なんというか、後でまとめてバチが当たるような気がしてさ」


 その気持ちは僕にもよく分かる。過ぎた幸運が怖くなる──そういう小市民的な思考は、確かにあるのだ。


「だから今回のことはひやひやしたの。あんなに近くにいたのに、彩人あやとくんが危険な目にあったでしょ? ああ、私はやっぱり特別じゃなくて、幸運には何か理由があったのかもって。で、考えてみたら……思い出したの」

「思い出した?」

「初めて、彩人くんに出会った時。その時から、始まった」


 僕は渚沙さんに初めて会った時のことを思い出していた。確か、高校に入った時に「夏帆かほ姉さんが話してた、小林くんって君のこと?」と声をかけてきてくれたんだっけ。その頃から確かに、幸運伝説は始まったと言える。


「もしかして、高校の時が初対面だと思ってる?」

「え、違うの?」


 渚沙さんの言葉に、僕は驚いた。頑張って記憶を探ってみるが、昔はぼんやりと靄がかかっていてどうにも思い出せない。あのイジメのトラウマがあるから、自分で昔の記憶を取り出せないようにしているのかもしれなかった。


「……ごめん、どうしても思い出せないや」

「無理ないよねえ。小学生の時だもん」


 渚沙さんは笑ってこう続けた。夏休みのこと。バイトが終わった夏帆さんを迎えに、お父さんの車で僕の家の近くまで来たのだという。


「その時、うちの車は大きい外国のやつでね。彩人くんの家の前には駐車しにくいから、ちょっと先の駐車場で待ってたんだけど」


 そこに僕が、ほてほてと歩いてきたのだという。どうやら写生に行った帰りだったらしく、スケッチブックを抱えながら渚沙さんの乗っている車をじっと見ていたそうだ。


「坊や、車が珍しいのかい?」


 その頃はまだ末娘をかっさらうとは思っていなかったので、シュワ父さんも親切だった。車の窓を開けてくれて、少し僕と話をしていたという。その時に渚沙さんは後ろの座席でふさぎこんでいて、会話に加わろうとはしなかった。


「……まあ、車の話って興味ないと退屈だよね」

「違うの。その時、私……落ち込んでたから」


 渚沙さんの描いた絵が、学校のコンクールで入賞した。亡くなったお母さんがいつか行きたいと話していた場所を、全部まとめた夢の町。今まで絵など習ったことのない渚沙さんだったが、のびのびと描いた子供らしい感性が評価されたのか、教室でもかなり良い場所に飾ってあったという。


「それで、なんで落ち込むの? お母さんのことを思い出したから?」

「違うの。純粋に嬉しかった。でも……それで、仲良しだった女の子と喧嘩しちゃって」

「喧嘩?」

「その子は絵画教室に通ってて、確かにかなり上手かったの。それなのに、選考から落ちちゃったみたいで」


 なんで私が落ちて、渚沙ちゃんが選ばれるの。そう言って泣き叫ぶ女子は教室内ではおさまらず、そして悪いことに他の生徒たちも彼女に同情し始めた。そして互いの両親が学校に飛んでくることになった。


 担任の先生がなだめても、女の子は泣き止まなかった。そして画家だという女の子の母親はもっと怒り心頭だった。


「……今でもね、その時に言われたことは覚えてる」


 顔を真っ赤にした母親は、渚沙さんの目の前でこう言い放った。


『どう考えてもうちの子の方が上じゃないですか。母親を亡くした子だからって、みんな同情して投票したんでしょう』──と。


「ひどい……」


 確かに採点は学校の先生が協力して行った。その中には事情を知っている人もいただろう。が、絵がつまらなければ誰も評価などしなかったはずだ。


 先生はそう説明したし、シュワ父さんは激怒したが──それでも、相手の母親は謝らなかったし、女子も母親にくっつくばかりだったという。クラスの雰囲気も悪くなり、渚沙さんは気まずい日々を過ごした。


「彩人くんに会ったのは、その暴言から二週間くらい経ってからだったかな。わざわざお姉ちゃんを車で迎えに行ったのも、みんなで食事をして私を元気づけるためだったって、後からお父さんに聞いた」


 渚沙さんも、皆が自分に気を遣ってくれていることは分かっていたし、もうその女の子は放っておくしかないと思っていた。


「……でも、それでもね。傷ついたのは変わらなかった。頑張って、いいことをして、それでも人から恨まれるなんて経験が全然なかったから」


 自分が頑張って何かした結果が、人を傷つける。渚沙さんはその事実に怯えて、何をするのも怖くなってしまったのだと言った。


「それは逆恨みってやつだよ。堂々と受賞したんだって言えばいいのに」

「今ならそう思うよ。お父さんたちも同じように言ってくれた。けど、あの時の私は

 目の前が真っ暗で、そこから抜け出せなかった」


 父親や家族の前では無理して笑っていたが、ふと彼らの視線が外れると憂鬱になる。だから僕とお父さんの会話がある話題になった時は、怖くて仕方なかったという。


「今日は宿題をやってたのかい?」

「うん。絵を一枚描かなくちゃいけないから。でも、僕あんまり上手じゃないんだ」


 僕がそう言った時、お父さんが不意にこう答えた。


「うちの渚沙は絵が好きだぞ。この前、学校のコンクールで賞をもらったんだ。なあ、渚沙」


 その時、渚沙さんは返事ができなかった。認めたら、また罵声が飛んでくるのではないかと思って。しかし僕は、能天気にもこう答えたという。


「『すごいね、おめでとう。今度、僕にも教えてよ』……って。嬉しかった。自分がやったことで、こんなにも素直に喜んでくれる人もいるんだって」


 今回の件、確かに家族は慰めてくれたし、認めてもくれた。しかしそれは家族だからであって、多くの人にとっては自分は邪魔な存在なのではないか。


 そう思いかけていた渚沙さんにとって、ぽっと出の、何も知らない呑気な少年の言葉こそが救いだった。彼女は頬を赤らめてそう語る。






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「まさかの幼なじみ展開? もっとよこせ」

「シュワ父さんの常識的なところが見られた」

「モンスターペアレンツ滅びよ」

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