第4話 君の名前を呼んでもいいかな

「あー、海辺の風って気持ちいいわね」

「うん。寒くない日で良かったね!」


 結果、到着した時にはなぜか滅茶苦茶元気な姉妹と、精根尽き果てた僕が出来上がっていた。とほほ。


「ほら、あれが水族館だよ!」


 遠海とおうみさんが指さした先に、円柱状の建物がある。外壁は水色、下にいくにつれて濃い青になっていた。だいたい五階建てのマンションくらいの高さで、周囲を美しく整えられた花壇が取り巻いている。


「入り口は……あそこね」


 建物へ伸びるエスカレーターがあり、そこに次々と人が吸い込まれていくのが見えた。一階から見ていくわけではないらしく、客は次々と上階に消えていく。


「一列でお願いします!」


 僕たちはチケット確認の列に並ぶ。そこを通ったら、一人分の幅しかない細いエスカレーターに乗って上へいくようだ。


「並んで乗りたかったのにな……」

「館内で手を繋げばいいじゃない」


 前から恐ろしい会話が聞こえてきて、僕は身震いした。今日のミッション、生きて帰ること。以上。頑張れ、僕の心臓。


「チケット、拝見します……あら」


 遠海さんがチケットを差し出したとたん、スタッフのお姉さんが固まった。見ると、横手から男性スタッフが何やら呼びかけている。


「お連れ様はいらっしゃいますか?」

「はい……お姉ちゃんと……彼氏が」


 遠海さんは、何が起こったか分からずきょとんとしている。


「実は、あなたがリニューアルオープンして百万人目のお客様なんです。もしご迷惑でなければ、記念品を贈呈させていただきたいんですが」

「今回はそうきたか……」

「相変わらず強力ね、あなたのパワー」


 遠海さんの後ろで、僕はこっそりささやいた。事情を知っている夏帆さんもうなずいている。


「はい、ありがとうございます」


 遠海さんはにっこり笑って、大きなイルカのぬいぐるみを受け取った。


「この後十二時から記念セレモニーも予定しておりまして、よろしければそちらにもご参加いただきたいのですが」


 可愛い女の子が百万人目、ということもあって、勧誘するスタッフの声にも熱が入っている。遠海さんがどうしよう、と言いたげにこちらを振り向いた。


「私は構わないわよ。せっかく当たったんだから出てあげれば?」

「僕もいいよ」


 どうせ注目されるのは美人姉妹だけだろうから、僕は背景として邪魔にならないようにしていればいい。


「じゃあ、よろしくお願いします」

「ありがとうございます。お名前をお伺いしておきますね」

遠海渚沙とおうみ なぎさです」

「遠海様。セレモニーは四階の大水槽前で行いますので、時間になりましたらそのぬいぐるみを持って会場にお越しいただけますか?」

「わかりました」


 遠海さんがうなずくと、周囲から拍手があがった。


「では、それまで展示をお楽しみ下さい」


 こうしてようやく僕たちは入館を許された。時刻はすでに十時半になっている。


「十二時か……あんまり時間ないわね」

「上の階、見終わらないかもしれないですね」


 僕たちは急いでエスカレーターに乗った。乗り込むと止まることなく五階まで連れていかれる。そこから降りていく仕組みで、大水槽を上から下へ見渡せるような構造になっていた。


「色々な角度から見られるのはいいわね」

「でも、上からだとよく見えない魚もいるよ?」

「あら、ほんと」


 深い海を思わせる暗めの照明の中で、夏帆かほさんがつぶやいた。遠海さんはぬいぐるみを抱えたまま、姉のそばに寄っていく。デカいぬいぐるみで両手がふさがっているから、手を繋ごうとは言われなかった。グッジョブぬいぐるみ。


「四階から見た方が、綺麗かもねえ」

「でも、ジンベエザメはやっぱりよく分かるね。大きいから」

「こっちにはペンギンとアシカがいるみたいだよ。もうすぐペンギンは餌やりの時間だって」

「ペンギン!!」


 あっちに行きたいこっちに行きたいとバタバタしているうちに、一時間半が経過してしまっていた。そろそろセレモニーに行かなければ、と夏帆さんに言われて、僕たちは我に返る。


「そうだった!!」


 おそるべき、水族館の魔力。僕みたいにぼーっと水槽を見ているだけの人間でも楽しめるのはいいことだ。


 四階へ降りていくと、大水槽の横にある案内板の前に、いかにも仮作りといった感じの白いステージができていた。「百万人おめでとう」の垂れ幕の前に、館長らしきスーツ姿の男性が立っている。


 その回りにはたくさんのスタッフと、取材とおぼしき記者たち。テレビカメラまであるのを見て、僕は驚いた。


「テレビも来てたんですね……」

「市はここをデートスポットとして宣伝したいみたいだから。若い二人が出たらとっても喜ぶと思うわよ」


 夏帆さんが笑いながら言った。まずい、それは想定外だ。


「僕ちょっとお腹が……」

「ドンと覚悟決めて行くのよ。つべこべ言わないの」


 逃げようとする僕を、夏帆さんが無理矢理ステージに押し出した。僕はこれから捌かれる鯛のような気持ちになって、遠海さんの横に立つ。


「それではセレモニーを開始いたします。栄えある百万人目のご来場は、遠海渚沙様。今日はお姉様と、素敵な彼氏と一緒にご来場です!」


 マイクを持ったスタッフが声を張り上げる。彼氏のくだりで失神しそうになりながら、僕はかろうじて笑みを作る。


「今日はなぜこちらにいらしたんですか?」

「とても素敵な水槽があると聞いて、前からデートで来たいなと思ってたんです」


 遠海さんはハキハキと模範的な解答をした。


「彼氏さんもそうなんですか?」

「……ええ……まあ……そんなようなものです……」


 僕はそう言うのが精一杯だった。頼む、ここは全部カットしてくれ。


「妹は毎日、彼氏ののろけばかり言うものですから。今日も一緒に来ることになって、とっても喜んでいるんですよ」


 夏帆さんやめて、火に油を注がないで。


「あら、そうなんですか」


 僕の心の中などつゆ知らず、スタッフは目を輝かせた。


「素敵な彼氏さんなんですね」

「はい。一緒に居ると、こういうラッキーで楽しいことがたくさんあって……私、彩人あやとくんとずっと一緒にいたいです」

「まあ……もしかしたら、結婚して子供さんができた後に、寄っていただけたりするんでしょうか?」


 遠海さんはさすがにそれを聞くと、顔を真っ赤にしていた。僕はそれどころではない。ないったらない。


「将来が大いに楽しみなカップルですね。では、記念の賞状と、特別限定パスポートの贈呈にうつります」


 それからのセレモニーの間、僕は何があったか覚えていなかった。夏帆さんにステージから降りるように促され、暗い片隅に歩み寄って、ようやく回りがはっきり見えてくる。


「若人よ、しっかりしなさいよ」

「いや……あまりに破壊的すぎて……」

「確かに結婚・子供までは刺激強かったかしら」


 それもある。それもあるけれど。


「彩人くん、って呼ばれて……ちょっとパニックになっちゃって」


 今まで何回も、それこそ何万回も呼ばれてきたはずの下の名前。そのはずなのに、遠海さんの口から出ると、僕の脳髄はぐらんぐらんに揺さぶられた。


「だってずるいじゃない。お姉ちゃんばっかり名前呼びで、私だけ置いてきぼりなんだもん」


 遠海さんは口をとがらせている。


「ということで。私は彩人くんと呼びます。異論は受け付けません。なので、そちらも渚沙さんと呼ぶように」


 高らかに宣言されて、僕は困惑した。


「渚沙ちゃんや渚沙でも可とします」

「今まで通り、遠海さんじゃダメ……?」

「ダメです」


 彼女は言い出したら聞かなかった。


「……じゃあ、渚沙さん、で」


 結局、僕が屈服した形になる。夏帆さんはその様子を見て、楽しそうにくすくす笑っていた。


「私も、渚沙くらい頑張らないとな……」


 その笑い声に混じって、夏帆さんの小さなつぶやきが聞こえてきた。彼女はどこか遠くを見ている。


「え?」

「なんでもない」


 僕が問い返すと、夏帆さんは元の表情に戻った。


 それから一通り水槽を見て回って、フードコートで魚の形のパンを食べて、関田せきたさんへのお土産を買った。おおむね楽しかったと言えるだろう。五分に一回くらい、「ねえねえ彩人くん」と言われることを除けば。


「ああ、楽しかったね」


 結局水族館の外に出たときには、午後四時を回っていた。日は明るいものの、山裾に向かって落ちかかっている。


「もう少し遊びたいんだけど、今日はお父さんが早く帰ってくるから……」

「ああ、帰ってあげて。僕はここの近くの本屋に寄って帰るから。夏帆さん、ありがとうございました」

「どういたしまして。今度はお邪魔しませんから、二人でごゆっくり」

「まあ……もうそれは……どうでもいいです……」


 僕がボロカスのようになりながらつぶやくと、遠海さんが笑いながら服の袖を引いてきた。


「またね、彩人くん」


 上目遣いで微笑む仕草。期待されている言葉は、一つだけだった。


「ま、またね……渚沙さん」


 僕の舌は、ようやくその言葉を形作った。その時の彼女の笑顔は──控えめに言っても、誰にも見せたくないくらい、可愛かった。




 一週間ほどしてから、関田さんが昼食を食べている僕に近寄ってきた。


「ほい、小林。この前のボールペンの代金。遅くなって悪かったな」


 関田さんは弟さんから風邪をうつされて、しばらく休んでいたのだ。


「ん。弟さんたち、喜んでた?」

「すごく。風邪ひいてんのに眺めようとするから、寝かせるの大変だったけどな。……それでも、あげて良かったよ」

「それなら良かった」

「……それにしても小林、なんでそんなとこで食べてるの?」


 僕がカーテンにくるまるようにしてパンを食べているのを見て、関田さんが呆れたような声を出す。


「水族館に行って」

「それは知ってる」

「な……遠海さんが百万人目の入場者ってことになって」

「おお、すごいじゃん」

「カップルとしてインタビューを受けたんだけど、そこでなぜか結婚とか子供とかの話が出て」

「……おお」

「このクラスに僕の居場所はもはやないわけで」


 放映日の後、はじめて登校した僕を出迎えたのは、血走った目をした啓介けいすけと響き渡る男子たちのエロイムエッサイムの声。その後なにがあったかは、今更語りたくもない。


「大変だったんだな……」

「今、話しかけてくれるのは遠海さんだけだよ」

「まあ、これからは私もいるから。元気出せよ、な?」


 僕がそこから普通に机でご飯を食べられるまでに、一週間くらいかかった。


 しかし、この時の僕は分かっていなかった。この放送が、もっと大きなトラブルを呼び込んでしまうことを。





※今回のお話は楽しんでいただけましたでしょうか?

「彩人は結局どうやって立ち直ったの?」

「関田さんについてもっと知りたい」

「結婚宣言、渚沙さんの他の家族はどう思ってるの?」

など、思うところが少しでもあれば★やフォローで応援いただけると幸いです。

作者はとてもそれを楽しみにしています!


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