霧の晴れた日を待ち侘びながら。
鈴ノ木 鈴ノ子
きりのはれたひを待ち侘びながら
冷たい秋時雨が窓から見える木々の葉を濡してゆく音で目が覚めた。
規則正しく葉を叩く音が響き、その間に小雨が地面に堕ちてゆく優しい音が耳に聞こえてくる。
キャンピングカーの室内は静寂が支配していて、ベット脇にあるカーテンを指で摘んで覗き見ると色をぼやかす程度の薄い冷たい霧が漂っていた。
「冷凍庫みたい」
布団にくるまったままでそれを見ていた私は霧を見てふとそんなことを口にした。
真夏の冷凍庫から溢れてくる冷気に
「起こしちゃった?」
隣で寝ていた彼が心配そうにこちらを覗いてきた。
短く切り揃えられた髪に少し肉のついた頬、優しい瞳の前に掛かる眼鏡に淡くきらりと読書灯の光が跳ねる。
「大丈夫よ」
私はそう返事をして彼を安心させると覗いていた顔が後ろへと下がっていった。
包まったままの布団ごとそちらへ向き直ると大きくて優しい彼の手が私の髪の毛を優しく撫でた。冷えた髪がその温かさを感じとり、私はその手を掴んで自分の頬へと寄せて残りの温もりを味わう。
「おはよう」
きっとこの仕草をみて気恥ずかしくなったのだろう、彼がそう呟いた。
「おはよ」
そのまま私は見上げるように彼に挨拶を返した。
しばらく微睡みを味わうかのようにその温もりを堪能した私は、固まったままの彼の手を名残惜しそうにしてそっと離した。その手はゆっくりと私の元を離れるとその体もベッドから離れていく。
「珈琲入れてくるよ」
「うん、お願い」
ドアを出てキッチンスペースへと向かった彼の背中を見送りながら、私は左手の指に光る輪を見つめた。
シルバーでできた細くてどことなく頼りなさそうに見えるその輪には満遍の想いが宿っている、2人だけにしか分からぬ秘密の想いだ。一生独り身でいるだろうと考えて準備もしていたのに、薬指を輪が包むことになろうとは思いもしなかった。
「あれから、もう、8年・・・」
再び向きを変えて外を覗く、冷たい霧は相変わらず薄く辺りを漂っていた。
出会った日もこんな冷たい霧が漂う朝だった。
8年前のあの日、新卒から入社して8年が過ぎ、ようやく自分自身でプロジェクトを立ち上げるまでに成長できた頃のこと、多くの仕事が舞い込んできて、それを采配しながらこなし、充実しながらも一分一秒が惜しいと思えるほどに打ち込んで、いつも通りの始まりを迎えていた。忙しさと生理のため、痛みと気怠さの残る体を奮い立たせるように自宅を出て駅までどうにか辿り着いた。頭痛と下腹部の痛みにイライラとしてしまいながら足早にロータリーを抜けるように歩いてゆく。駅前は薄い霧に包まれていたが、電車は動いているので通勤通学の老若男女で溢れていた。
本当にいつも通り1日の始まりだった。
改札口へと向かう人の流れに混じると、流れる木の葉のように押されて引かれてを繰り返しては翻弄されながら歩みを進めてゆく。ようやく辿り着いた階段を登ろうと一歩を踏み出した途端、叫び声と共に脇腹に衝撃が加わった。
「死ね」
冷酷な一言と共に私の脇腹には深々とナイフが突き刺さっている。犯人の男が着ている黒いマウンテンパーカーが死神のローブのように風に靡いて広がり、焦点の消えた目が特徴的な表情からは悍ましい薄ら笑いを浮かべていた。
ナイフが脇腹から勢いよく引き出される。地面をナイフから滴り落ちた血が走り、それと共に言い表すことできないほどの激痛に私の体は震えだした。
男の顔白い顔に興奮しているのか妙に赤い唇が恐ろしく、その両手には赤く血で染まったナイフが握られているのをしっかりと認識してしまうと、体全体が激しく震えてその場へと崩れ落ちる。
朝の喧騒を切り裂くように悲鳴と怒声が辺りに響き、皆が騒然とする中であまりの痛みに地面に倒れた私の目の前に滅多刺しにされ白い制服を血まみれにした女子高生が、顔をこちらに向けて人形のようにパタリと倒れた。
美しく整った顔に焦点の合わない黒色の落ちた瞳、美しい口元から赤い血を嗚咽して吐き出しながら、引き攣ったような痙攣したしていたが、徐々に徐々に痙攣が無くなって息絶えてゆく姿を見て、私は漠然としか抱いていなかった恐怖という命の危機を、ぼんやりと鈍っていた思考が判然と感じとった。
犯人は意味をなさない絶叫しながら、付近の人を次々と刺しているようであり、折り重なって人が倒れていくのが視界の隅に見えた時、意識が残るうちに逃げようと、普段なら駆け上がれる階段へと、震える片手を階段について尋常ではない痛みを堪えながら、必死に全身を動かして一段、また、一段と這って登ってゆく。
早くこの場を離れなければ・・・。
これだけが私の中を支配していた。
ひたすらに、唯、ひたすらに、逃げるために踏み荒らされた薄汚い階段を抑えた脇腹から血を流しながら這い上がってゆく。階段の最上段には避難した人々がこちらを見ているが、誰1人として助けに来る人は見受けられない。数人ほどスマホを向けているのが見えた。
声を上げることのできないほどの激痛を堪えて、一歩、また一歩とでも言うように、力なく、本当に力無く進みながら3段目に手をかけた時、人影がさして怒声が頭上から響いた。
「おい!」
髪の毛をむしりとるかのように掴まれ、その痛みに思わず首がのけ反る。階段から引き剥がされ掴まれたまま階段下のタイルの上に叩きつけられるように投げ出された。
「まだ、死んでない!」
バサリとあのマウンテンパーカーが翻る音が聞こえ、その声が耳をつん裂き、声と音に恐怖は最高潮に達する。痛みはいつの間にか感じず、耳から聞こえる音は全てが消えてた。心臓の鼓動が強く鼓舞するように響く、私は両手足をもがく様に必死に動かして少しでも距離を取るように這いつくばる。だが、現実には数センチ動いただけだ、再び髪を掴まれた時、私は短い人生の終わりを感じた…。
突然、何かが折れるような音が聞こえた。
髪を掴む力が弱まったので振り解き、無理やり体を捻って振り返えた私が見たものは、犯人の首が人間では到底動かすことのできない角度へと曲がる、いや、首が折れていた。
その後ろには、男子高校生が制服の白いシャツを真っ赤に染め、口から血を垂らしながら歯を食いしばった憤怒の表情を浮かべて、仁王立ちとなり犯人を睨みつけている。
「お前こそ、死ねよ!」
彼が持っていたカバンを渾身の力で犯人の頭に振り投げたのだ。その証拠に地面に落ちたカバンのショルダーベルトを彼の手がきつく握りしめていた。
「ざまあ、みろ!」
渾身の力を振り絞だして最後にそう叫んだ彼が、相手を倒したボクサーのように両膝をつき地面へ崩れ落ちて動かなくなる。しばらく呆然としていた私もやがてそのまま意識を失った。
目が覚めると私は病院の
無機質なカーテンではなく医療機器に囲まれて職員が忙しなく働いている室内で、丁度、点滴を変えに来ていた看護師が目を覚ました私に気づいた。
「池之宮さん、わかりますか?」
「は、はい…」
声にならない声を出して私は返事をした。
そして腹部に鋭い痛みを感じとる。発音をしただけなのに、久しぶりに動いた筋肉と傷口が悲鳴を上げたのだ。
「あ、無理に答えないでいいからね…」
和かな目元から微笑んでくれていることがよくわかる。彼女は私の状態のチェックを終えると、また来るからと言い残して離れていった。
「助かったんだ…」
涙が湧き上がる様に流れる。声を押し殺すように泣き、やがて、ふと、隣のベッドをみた。
「あの時の高校生…」
そこにいたのはあの助けてくれた高校生の彼だった。至る所からチューブとケーブル、点滴を這わせた状態で引き締まった顔が眠っている。口元には太いチューブがつき、頬にはガーゼが当てられ、空気を送り込む規則正しい機械の音が聞こえてきた。
私の周りより遥かに多い医療機器が彼の容態を物語ってもいて、私は胸が締め付けられる思いがした。
「神様、私を助けてくれた彼を助けてください」
掠れ声に出して心でさらに力強く祈る。私にできることは今はこんなことしかできない、でも、それでもと、顔を合わせる度に彼に早く目を覚ます様に声をかけ、心の中で真摯に祈り続ける。1週間ほどして私は一般病床へと移ることになり、離れ際に彼の手に触れて声をかけて、そして握りしめて祈りを捧げたのだった。
一般病棟に移ってからスマホに何十件と入っていた心配する連絡に返事をようやく返すことができた。集中治療室では携帯その他は厳禁であったからしかたないとは言え、連絡を待ち侘びてくれていた友人達は皆んな心から喜んでくれてその声に励まされた。
気が重いが会社にも連絡を入れた。
プロジェクトの件を課長に謝罪し、小言を言われながらもゆっくり治療すれば良いとの返事だったけれど、プロジェクトは後輩に引き継がれていて、結局、戻る席はなくなり退職となった。
通院しながらの仕事など片手間だよ、と退院日を伝える電話に課長が吐き捨てる様にそう言って決断を迫られ、私は自ら退職を選んだ。
それが経済というものなのだから…。
だが、私がもっとも絶望したことは仕事ではなく、私を助けてくれた高校生がタチの悪い週刊誌に「殺人者」として書かれ始めたことだった。
犯人は複数回の傷害事件を起こした男で精神疾患を患っていたために弁護士が擁護して服役ではなく、心身衰弱として医療施設に入院していた。しかし、複数の職員を薙ぎ倒して脱走した末に事件を起こしたらしい。そこまでは事情聴取に来た刑事が呆れる様に教えてくれた。
だが、問題は収容していた医療施設の方だ。
そこの院長はマスコミの取材に対して、脱走を詫びたのちに、彼は殺されるべきではなくきちんと治療を受けるべきであったと言い放ち、あまつさえ、立ち向かってくれた高校生に対して、治療の必要性があると断言したのだ。普通なら叩かれるべき話であるはずなのにその医師が権威の一角を統べる立場であったこと、そして馬鹿な政治家と活動家が擁護する素振りを見せれば、やがてその意見に同調するマスコミによって、犯人の不幸な生い立ちが、まるで料理を味付けするように調理され始めた。
曰く、家庭環境は災厄だった。
曰く、虐めにあっていた。
曰く、素直に治療を受けて回復途中であった。
曰く、曰く、曰くetc…。
世間は犯人を軽蔑の眼差しから同情の眼差しへと変化を見せるようになる。そして本来なら讃えられるべき高校生の彼を「殺人者」として罵り始めた。動画投稿サイトに彼の倒れる前の二言が切り取られて掲載されると、キャンペーンのように新聞やテレビがそれに追従していく、この国の司法制度と報道が、被害者を「2度殺す」ことを知ったのはこの時だった。
一般病床に移ってから1ヶ月を経たが彼はいまだに呼吸器に繋がれたままだと付き合いの長くなった看護師から聞き、反論の余地なく、世間を勝手にミスリードして雰囲気を形成していく度に私は世界を呪った。
彼に目の前で助けられた私の元に1人の記者が取材にきた時の言葉が忘れられない。
「犯人は憎いと思います、ですが、一つの命でした。そして貴女を助けた彼も人殺しをしています。治療が必要だと思いませんか?」
「は?」
私は呆れ果ててしまった。
人を見境なく殺した者と、人を救うために殺した者の区別がつかないのか、そして、あまつさえ、助けられた私に対して聞くべき問いではない。殺さないで!と叫んで私に殺されろということなのだろうか…。被害者は語れない、故に、勝手気ままに蹂躙される。
生きていようと死んでいようと…。
私は烈火の如く怒りの声を病室であげて、怒鳴り散らした。慌て駆けつけた看護師が話の流れを聞いて、冷たい声でその記者に出ていく様に迫り追い出してくれた。
「どうしてなの…」
理不尽さを恨みながら私は一日中泣き腫らして過ごす羽目となったことは言うまでもない。
リハビリをこなしながら社会復帰を進めて行く途中で、その彼が意識を取り戻して回復を遂げ、一般病棟に移ったのを聞いた時、ようやく動くようになった体を引きずるように彼の個室へと御礼のたびに向かうことにした。看護師と先生の許可をようやく得れることができた私はゆっくりとした足取りで病室の近くまで、ゆっくりとした足取りで向かってゆく。
すると、彼の部屋の前で看護師と男が扉の前で揉めているのが目についた。あの、ロクでもない記者だった。
「だから、少しだけ話をするだけだよ」
「まだ、面会はできません!それに許可を取ってください!」
看護師が必死に説明をして、私でも理解できる説明をしているのに、記者はただ、自分の正当性ばかりを並べ立てている。国民が聞きたがっているだの、殺人をした彼の気持ちが聞きたいだの、あれやこれやと言い放ち、若い看護師を質問攻めにしていたが、警備員と警察官が姿を見せた途端に、逃げるように踵を返してエレベーターのある此方側の通路へ歩いてきた。
「あ、あなたは!」
知り合いですらないのに、まるで味方を見つけたかのような笑みを見せて私に近寄ってくる記者に対して、私は怒り心頭に発する一言を怒鳴り浴びせる。
「あら、ペンで人を殺すお仕事の方でしたね。殺人者を擁護する人なんですから、やっぱり似たもの同士なんでしょうね!」
記者の笑みが消え、私を睨みつけるようにしてその場を離れていく。その言葉を聞いていた揉めていた看護師やあたりの患者さんがクスクスと記者を嘲笑った。顔を真っ赤にした記者がエレベーターへと消えるのを睨みつけながら見つめたのち、私はようやく彼の病室の前に辿り着いた。
事前に許可を得ていたから、先程の看護師も入るのを許してくれる。
「失礼します…」
扉をノックして開けると個室のベッドで上半身を起こした彼がらこちらを見ていた。あの時は分からなかったけれど好青年で素敵な顔立ちをした彼だったが、今は目に涙を溜めて泣いていた。
「俺は…、あ、す、すみません」
その力無い言葉を聞いた途端、私は駆け寄るように近づきくとの頭を胸元にしっかりと抱きしめた。
「あんな奴のこと、気にしないで大丈夫だから」
「でも…」
「貴方が私を助けてくれたんだよ。それにそれ以上の被害者も出なかった、全部、貴方が助けたの」
「でも、あいつを殺して…」
抱きしめていた頭を私は話して両手でしっかりと両頬を掴む。
「そうしてくれなかったら私はここにいない…。でも、私の命を救ったことで苦しめてしまってごめんなさい…」
卑怯な言い方だ。でも、そうでもしないと彼が潰れてしまう。そして彼は思い出したのだろう、私を力無くではあるけれど痩せ細った腕で抱きしめてくれる。
「あの時の…よかった…貴女が生きていて本当によかった…」
絞り出す様なその一言に私は再び救われた。
自分が死の淵を彷徨い歩いたのに、他人を心配できる彼の大きさを持つ人間など滅多にはいないだろう、
彼のベッドの上にはスマホが落ちていて、あの記者が書いたのかもしれないひどい記事が読みかけ途中となっていた。それでも他人を思いやることのできる彼に私は再び力を込めてしっかりと抱きしめた。
目を覚ましてみれば、自身も被害者であるのにも関わらず、殺人者にされてしまうなど悪夢のなにものでもないのに…。彼が泣き止むまで私は抱きしめ続け、こんな理不尽な世界を呪い、そして私は彼の名誉を回復するために動くことを決めた。
「私はあの時、殺される間際の被害者でした…。彼のおかげで今生きています」
数週間後、私は憎い報道番組へと出演した。
収録ではなく、数社から連絡の来ていた生放送の番組を選んで連絡をとり、各社のプロデューサーに対して私の気持ちを意見を話して承知してくれるところに…。なんて生優しいことなどは考えない。
「犯人が擁護されていることが許せません」
運良く被害者弁護団が結成された際に私も加わり、その席でこう言い放つとさらに声を上げた。
「私たち被害者は2度殺されたようなものです。犯人に、犯人を擁護する人々に!」
加害者が御涙頂戴で助けられるなら、こちらもそれでいけば良い。人間、感情に左右されるのだから、理路整然に戻すためには、犯人に傾いた世論を、同じ手口でこちらへと傾ければいい。正義のための戦いなんてものじゃない、これは喧嘩だ。
ルールもなにもない死闘に近い。
相手は捌ける法律に守られている。こちらは何もない。他国より被害者が軽んじられる日本で、私達は被害に苦しむことから、被害に苦しみながら戦う道を選んで怨嗟の雄叫びを上げたのだった。
切り取られた動画の全編を全て公開して、被害者がどの位置にいたか、結果、刺されたりして傷を負ったかはもちろん、アメリカの犯罪学者に依頼をして、高校生が犯人を制圧しなかった場合の予測モデルを作成してもらい公表もした。海外に依頼したのは国内の専門家は誰も引き受けてはくれなかったからだ。ある専門家は関わりたく無いと吐き捨てるように言い放ち、テレビでは犯人を擁護し続けた。公表した内容には私も知らなかったのだけれど、彼のすぐ近くにには乳児を抱えた女性や転んで動けなくなっていた老人などが居て、少なくともその2人は間違いなく殺害されて被害は拡大していただろうとの結果だった。
事件では被害者のうち5人が死亡している。
その中には一年生になったばかりの小学生もいたから、乳児だから躊躇うなどと言う甘い考えは通用しない。やがて例の逃した院長の医療施設から内部告発があり、彼が回復の見込みが薄かったことが暴露されると、世論は急速に潮目を変え始めた。この頃には生活苦を語る被害者が徐々にで始めた。犯罪にあうと言うことは生活にも直結してくる。
民事裁判を争いながら、犯人の両親は支払いを拒否し、自分達は関わり合いはないとばかりに言い放つ姿に腹が立った。だが、こんな育てられ方をしたのだから、こうなってしまったのだど少しだけは同情もするけれど同じ様な環境で育つ人もいて、這い上がり、もがき苦しみながら、必死に真っ当な人生を歩んでいく人もいるのだ。
それを忘れてはならない。甘い言葉は冒涜に他ならないのだと私は思う。
一年と少しを経て彼の退院が決まった。
入院中に2度の急変を起こして死の間際を彷徨い歩いた彼の為に必死に祈り続け、面会できるたびに彼の側に寄り添い続けた。互いに話をしながら私達は関係を育んでいき、やがて私は代表の1人からひっそりと裏方へと回った。彼との付き合いによって、形成された世論に水を差しかねないと弁護団の先生から指摘され、私はそれを受け入れたのだった。
「香奈枝、コーヒー入ったよ」
彼の声が聞こえてくる。私の意識は現実へと引き戻されて、その声に固くなっていた頬が緩む。
「ありがとう、
幸せだった生活はあの日から崩れ去り、義勇はそれにもがき苦しんだ。精神的にも荒れてるが、持ち前の優しさがそれを諌めてを繰り返しながら、彼は徐々に立ち直りをみせたて高校をなんとか卒業することができ卒業と同時に私は彼と同棲を始めた。
でも、しばらくして記憶がフラッシュバックして、錯乱した彼が自らの喉元に包丁の刃を向けているのを見つけることとなった。
「俺があの時、あんなことしなければ…」
虚な眼差しをして震える彼が目の前に駆け寄った私にそう言う彼に返す言葉など見つからない。
私は叫ぶでもなく、騒ぐでもなく、ましてや、何かを語るでもなく、ただ、着ていたパジャマの上着を脱ぎ、上半身の裸体を晒して脇腹の傷跡をゆっくりと指差す。
ただ、それだけ。
私には何も言う資格はない。いや、権利すらない。
私が階段から引き離された時、それに気がついた彼がゆっくりと立ち上がってカバンを振るうまでの一部始終の映像を見て私は助けられたことを後悔した。
8箇所を滅多刺しにされて、動けることすらも不思議な彼が死に物狂いで私を助けてくれた、だが、それと引き換えに彼はどれほど大切な物を失っただろう。私と出会わなければ、私を見捨てていれば、彼の順風満帆な日々を、家庭を、居場所を、壊すことは、なかったのかもしれない。
「ごめん…」
傷跡を目にして彼の目に光が宿る。
立ち上がった彼が包丁をゆっくりと下げて流し台に置いてから、私の落としたパジャマを拾って肩へとかける。安堵した私は両手を回して彼をしっかりと抱きしめた。
「私こそ、卑怯でごめん…。でも、義勇には死んでほしくないの」
「うん」
無言のまましばらく抱き合うと、私達はベッドへと向かい抱き合ったまま、ゆっくりと眠りについた。
その後も度々同じことが起こるたびに、互いに支え合って私達は同じ時を過ごした。
私達は互いに支え合い今に至っている。
風向きが変わったからと言って、彼の家族が元に戻ることはない。特に報道で苦しみ、虐めを受けた妹の傷は癒えず、兄である義勇と私を憎むべきではないのに憎んでしまうことに悩み苛まれていると、彼の母親から聞いてしまえばかける言葉など見当たらなかった。
彼が大分落ち着いてきて、久しぶりに秋の深まる総合公園を2人で歩きながら、互いにたわいもない話に花を咲かせて景色を楽しんでいると、不意に彼の足が止まる、そして私をじっと見つめた。
深刻な話をする時の彼の仕草の一つだった。
思わず身構える、だが、顔が真っ赤になっている事に気がついて、私は身体の力を抜いて微笑んでみせた。
「香奈枝、結婚してほしい」
意を決したように彼が口を開く。
「うん、私もそうしたい」
プロポーズを断る理由などない。
私の口から心からの想いを載せた返事を即答するように伝え、私は満遍の笑みを浮かべた。私達の結婚は式をするでもなく、友人知人に祝って貰うでもなく、ただ市役所から貰ってきた婚姻届を書き、私の両親に立会人の署名をして貰い、提出した。
「香奈枝、貴女がいいならいいけど…」
立会人のサインを貰いに来た私に、躊躇いがちな顔をした両親がそう口を滑らせた。言いたいことは大体予想ができてしまう。きっと、私の人生が彼に縛られているように感じたのだ。
「私はパパとママが一緒にいる様に、同じ様に大切な人を見つけたの。だから、一緒になる、それだけよ」
ある種の覚悟が滲み出ていたかもしれない。それを聞いた両親はそれ以降、私達を応援してくれている。
彼も私の両親に申し訳ないからと、写真館でウエディングドレス姿の私とタキシードの彼とで2人で写真に撮るとそれを持って行き報告を添えた。
実家のリビングと、我が家のリビングにはその写真が飾られている。
そして新婚旅行として買ったばかりのキャンピングカーで2泊3日の旅へ出た。旅館やホテルを使わないのは誰がが私達のことに気がついて騒ぎになれば、また、辛い日々が来るかもしれないと言う怖さからだ。
でも、私も彼も幸せである。
珈琲を飲みながら2人で外を見つめる。
霧は晴れてきて、陽の光が辺りを照らし始めた。日差しが車内へ入ってきて卓上を照らし、2人の両手の指輪を照らしてキラリと光らせた。
私達は周囲と言う霧に悩み苦しむ。
霧に怯えながら。
霧に励まされながら。
霧に貶されながら。
霧に、霧に、霧に…。
被害者は死ぬまで被害者だ。
両手を振って歩けることは2度と訪れない。
霧がそれを阻む。
それでも互いに助け合いながら生きてゆくしかない。
願わくば両手を振って、普段の暮らしが訪れる日がくることを、霧の晴れた日を待つように、暮らしている。
霧の晴れた日を迎えることを祈って…。
霧の晴れた日を待ち侘びながら。 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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