第七十二話 顕現

 静かなはずの朝の平原は、酷い混乱に包まれていた。


 靄を切り裂き、上空より君臨したハチェットイーグル、四頭。

 彼らに追われ、僕たちの方へ、ひいては町の方へと突進するレイジングボアの群れが、百頭あまり。


 グレゴリー氏はよく見えないが、さきほど護衛の一人が悲鳴をあげていた。恐らく、イーグルの羽根攻撃を受けたのだろう。

 同じく怪我を負ったユージーン先生は、まだ立ち上がれるほどに回復しておらず、攻撃を放ったハチェットイーグルを警戒するユーリ師匠は、グレゴリー氏の方が気になるのか、集中しきれていない。


 今、やらなければならないことは三つ。

 一つ、ボアの群れを逸らす。

 二つ、グレゴリー氏と合流する。

 三つ、この平原から撤退し、イェル領都に非常事態を伝える。

 明らかに状況は僕たちの手に余る。一つ目をクリアするために、僕は早々に切り札を切ることを決めた。


「あ、あ、あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」


 燃え上がる体。いや、それは幻覚。

 焼き焦げる肉。これも、幻覚。

 熱い、熱い熱い熱い熱い熱い。熱い!!けれど!!


「『顕現こい』ッッ!!」


 のたうちまわりたいほどの熱が、腹から血の管を通って、全身を包む。

 初めてこの炎を扱った時、僕はこの背に翼を生やし、両手から火の渦を撒き散らした。

 次にこの炎を呼んだ時、僕はそれに蛇の形を与え、腕の肉を焼きながら使役した。


 レベッカさんは僕が、無意識のうちに龍の気を扱っていると言っていた。

 この炎が、極彩色の龍に繋がるなにかであることは、もう、確信に近い。ならば、きっと、炎の示すその先は──。


「うおおおおおおッ!アイゼンには触れさせないっっ!!」


 僕の背中は、ハチェットイーグルの攻撃からは、相棒フレディが守ってくれる。

 師匠も、あの巨鳥に一太刀浴びせようと、動き出した。見なくても、

 ならば、僕はあの猪どもを、破壊的な突進を、逸らすだけ。


 捕食者に怯え、一塊になって逃げようとするのならば。

 より強大な捕食者の姿で、格で。


「曲がれええええええええ゛え゛え゛え゛え゛!!」

『GOOOAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!』


 僕の体から吹き出した炎は、龍の形をとり、レイジングボアに向かって咆哮を上げた。僕の声が、龍の叫びになった。

 どけ。曲がれ。散れ。さもなければ、燃やし尽くす。焼き尽くす。


 この世界における最強種の「格」は、たとえそれがハリボテであろうとも、絶大な効果を発揮した。

 僕たちへ向かって真っ直ぐ突っ込んできていたボアたちが、左右に別れ、ぐるりとUターンしていく。


「Quu……Qukaaa!?」


 霞む視界に、群れを追い立てていた二頭のハチェットイーグルが、驚き翼をばたつかせている様が映った。

 彼らも龍の咆哮に気圧されていたところを、急にボアの突進の目標にされたのだ。恐怖を与えるために低空飛行していたことも仇になり、瞬く間に鋭い牙で尾羽を散らされ、叩き落とされる。

 あの様子では、間違いなく死んだだろう。


「はあ、はあ、ぐう、ああ、がああ゛あ゛!!??」


 ジジ、ジジ、と、消えかけの蛍光灯のように、僕が顕現させていた龍が消えかかる。

 それと同時に、全身を熱以外の感覚が包んだ。


「あ、あ、あ、いたい、い゛た゛い゛!?」


 猛烈な異物感。臍の上を、なにかに食い破られていくような。とにかく、痛くて、痛くて、さらに最悪なことに、身を焦がす熱さは増していくばかりだ。

 思わず膝をついたことで、完全に龍が消えた。


 ──そんな、僕を見て。


「Qurarararara!!」


 四頭の中で最も巨大なハチェットイーグルが。最初に、朝靄を羽ばたき一つで晴らした個体が。

 ズガアアアアアン!!と地面を蹴り、空気を弾き、こちらへと突っ込んできた。


 目を瞑る暇さえ、与えられなかった。

 迫る鉤爪を前に、どれほど命じても体は動かない。引き伸ばされた時の中で、永劫にも等しく、熱と痛み、そして恐怖に苛まれる。


 キィィィイイイン!!


 果たして、僕の耳に飛び込んできたのは、自分の肉が引き裂かれる、生々しい水音ではなく。

 金属同士が擦れ合うような、甲高い音だった。


「間に合っ……うお!?」


 バッドの要領で、大剣を振り抜いたフレディが、そこにはいた。

 爪の迎撃ではなく、足の切断を狙った一撃。お互いの速度が乗った交錯に、巨鳥の方が危機感を覚え、鉤爪をずらしたことで、なんとか彼でもハチェットイーグルと打ち合えたのだ。


 けれど、その奇跡は長く続かない。

 すぐさま羽ばたきで勢いをつけた空の覇者に、フレディの体が大きく沈む。


「遅れてすまないね。私も助力するよ」


 そこに、砂礫の弾丸が舞い込んだ。

 立ち上がり、杖を振ったユージーン先生の魔法によって、イーグルが高く飛翔した。


「助かった、先生」


「君は生徒じゃないんだから、私のことは呼び捨てにしてくれて構わないのだがね」


 軽口を叩きつつも、二人は一切の油断なく、大空を睨んだ。

 そうだ、フレディがこちらに来てしまったら、もう一頭は?


 奥歯を強く強く噛み締めて、痛みで吹き飛びそうな意識をつなぐ。

 頭だけを動かして振り返れば、ホバリングするハチェットイーグルの周囲を縦横無尽に跳び回る、我らが風の姿と──イーグルの攻撃を巧みに受け流す、グレゴリー氏と護衛騎士が、見えた。


「はあっ、はあっ、あ゛あ゛っ、はあっ」


「アイゼン。どのくらい休んだら、復帰できそうだ?」


 背を向けたまま、フレディが僕に問う。

 正直、今にも意識を手放しそうで、戦闘なんてもってのほかだ。あの龍の顕現の代償が、僕に重く重くのしかかっているようで、脈打つ体は、自分のものではないように感じる。

 体の中に、どろどろした何かが捩じ込まれていく気がする。それが嫌で、気持ち悪くて、思わず吐き出した血は、瞬く間に炎に巻かれて消えた。


 それでも、倒れることは許されない。

 この魔物を、戦う力のない人たちの元へ行かせないため?

 サーシア王女様に、依頼されたから?

 ここにいる友だちと、その大切な人たちを、死なせたくないから?


 そのどれもが正しいようで、間違っているような気がした。

 故郷に帰りたいなら、逃げるべき。冒険者として正しいのは、一刻も早くこの危機を伝えること。

 けれど僕の頭には、どちらの選択肢もない。


「あ゛と……ぜえ、はあっ……三分。ちょうだい。この、お゛お゛お゛お゛……じゃじゃ馬、押さえつけて、みせる……っ!」


 小さな理由の積み重ねなんて、今の僕には不要だった。


「応。俺に、任せろ」


 ただ、この世界を。

 スマホもなければ、安全な家もない。家族もいない。けれど、美しい国。そして、そこに住む優しい人たち。

 僕の手の届く限りを、守りたい。


 ぼんやりした青臭い理由を胸に、僕は今一度、龍と対峙した。

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