第十八話 希望の光、絶望の拳
フレデリクの方から聞こえてきた、肉が潰れる音に、僕は思わず目を瞑ってしまう。
彼に守られながら、彼が傷つくことへの恐怖──否、人が血を流す姿に耐性がないために、霞む視界を閉ざした。
途端に、意識のブレーカーが落ちかける。堪えていた限界が、僕を闇へと誘いかける。死の淵を、転がり落ちるように。
「俺は死なねええええ!!」
気を失いかけた僕の目を覚ませたのは、そんな叫びで。目を開けた時、予見していた最悪の惨状は、そこにはなかった。
フレデリクは、熊の振り下ろしから、首を傾けることで致命傷を避け、自身の繰り出した薙ぎ払いを腹へと通したのだ。
左肩を激しく損傷したことで、彼の戦闘続行はかなり困難だろう。それでも、死力を尽くした一撃は、熊の分厚い毛皮の上からでも、確かにダメージを与えられたようだった。
その証拠に、熊は二、三歩フレデリクから後ずさる。
「はっ、はっ、アイゼン!待ってろ、俺は……!」
「kuuuoo……」
熊の脇腹は、どす黒い液体でぬめり、光っていた。
茶色の毛皮に、血液が付着し、それが木立から差し込む光を反射しているのだろう。
いけるかもしれない。
フレデリクは、大剣を右腕でようやく支えているような状態で、僕はいまだに立ち上がれてもいない。
それでも、あの巨体が血を流していることに、一瞬だけ希望を抱いてしまう。
きっと、直接対峙しているフレデリクも、同じようなことを考えてしまったのだろう。
熊の動きが、変わった。
「うおおおおお!!」
彼は気づいていない。
先ほどまで、その巨体によって押さえつけるように、常に上から下へと攻撃をしていた熊が、体勢を少し下げたのだ。
なにかある。だけど、なにかはわからない。
フレデリクは片手で剣を振るう練習もしていたのだろう。その重みを器用に扱い、全身をひねるように、一度傷を負わせた熊の左脇腹へと繰り出す。
これまでの相手なら、簡単に太い腕で防御し、カウンターへとつなげてきたところだ。
しかし、今は防御ではなく、回避を選んだ。後退り、大剣を避ける巨熊。
「まだ、まだあああ!!」
空ぶった斬撃の勢いを殺さず、フレデリクはぐるりと体を回した。
一撃目の勢いに、回転による遠心力を乗せた二撃目。しかし、それも熊は後ろに下がることで回避する。
「はあ、ぜえ、らあああ!!」
いつもの彼なら違和感に気づいているはずだ。
だが、負傷による集中力の低下や、「押している」ことでランナーズハイにも似た、戦闘の高揚に包まれているのだろう。熊が何かを狙っていることに、気づけていない。
「フレデリク……!落ち着い、て!」
まだ、大きな声を出そうとすると体全体が軋むようだ。
それでも、彼に違和感を伝えるため。僕は声を上げる。
「もう少し!あと少しだ、アイゼン!いける、勝てる!!」
相手の変化には気づかないのに、彼の剣技はどんどん研ぎ澄まされていく。
三周目の横薙ぎは、剣を上へと向け、腹ではなく腕を狙った斬り上げへと変化させた。
それも避けられると見るや、なんと大剣を手放し、フレデリクは跳んだ。
当然剣は宙を舞うが、驚異的な身体能力で、柄を空中で逆手に握り直し、熊の胴へと突き出した!
「Kuaaaaa!?」
金属鎧を全身に纏っているとは思えない動きだ。
回避に専念する巨熊も、さすがに驚いたのか、下がるテンポが少し遅れる。
結果、フレデリクの剣は熊の右足の甲を捉えた。
「ふうっ!」
さすがに足の毛皮は厚くなかったのか、切っ先は貫通し、彼はすぐさま剣を抉るように動かした。
「Kugyaaaooooo!?」
しかし、相手の足に大剣が突き刺さっているということは、完全に相手の間合いの中だということでもある。
当然、回避に専念していた熊といえど、酒樽のような腕を、フレデリクを挟み込むように打ち合わせる。
それを再び剣から手を離すことで避けた彼は、一度下がって熊を睨みつけた。
「はあっ、はっ、はあっ」
無手となったフレデリクを前に、やはり熊は追撃を行わない。
やはりおかしい。
「なに……か、また、見落とし、てる」
熊が現れる前兆。森の異変に気づいたのは、鳥の鳴き声だった。
今はどうだ?うるさいほどの鳥の鳴き声は健在だが──中心は、ここじゃない。
熊の目標。それは、ハンガーウルフだったはずだ。
僕が最初に襲われたのは、着るように背負った毛皮が、目か鼻を勘違いさせたからだろう。
食った?殺した?どちらかはわからないが、僕たちが戦った三匹の他に、この熊と戦った個体がいるはずだ。
でも、熊の口元に血の跡はない。
僕たちが受けた攻撃も打撃がメインだが、さすがに生き物を殺すまでの打撃ならば、返り血がついて然るべきだ。けれど、熊の毛皮には自身以外の血はほとんどついていない。
そして熊の能力。魔物は動物から変じる際に、肉体的な変化だけでなく、新しい能力を獲得する場合があるらしい。
一番目に留まるのは、両腕の異常発達。目の前の熊の魔物としての特徴は、その腕に思えるが、そこで思考を止めてはダメだ。
僕が最初に突進を受けた時、吹き飛ばされる寸前まで、相手の気配に気づくことができなかった。フレデリクも、だ。
以上から導き出される、巨熊が守りに入っている理由。
それは。
「これでええ!!」
僕が思考に沈んでいる間に、フレデリクは大剣を熊の足から抜き、再び右腕一本で振っていた。
自分の体を弓に見立て、右腕をぎりぎりと引き絞った彼は、体の捻りと踏み込みで限界まで加速して、剣を突き出す。
直線的なその攻撃は、下がるだけでは避けられない。普通に考えれば、死闘はフレデリクの勝利で決着するだろう。
だが、そうはならない。
そうはならないことに、僕は気づいてしまったのだ。
「フレディいいいいいいい!!下がれええええええええええ!!!!」
肺が潰れても構わない。
一刻も早くその名前を呼べるなら、愛称だって呼ぶ。
空気を切り裂く轟音。
攻撃を受ける寸前の熊を守るかのように、突如として現れたもう一頭の熊が、フレディへと巨腕を振るっていた。
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