第十七話 熊森の主

 一秒に満たない失神の後、最初に感じたのは、息苦しさだった。


 トラックほどの大きさの物体に、僕は強烈な勢いで吹き飛ばされたらしい。走り出した方向とは、九十度右側へ、ボールのように転がる。


「っは……!?あああ゛あ゛あ゛!?」


 太い木の根元にぶつかって、ようやく動きを止めた僕は、たぶんそれはもう、酷い有様だったはずだ。

 左胸が熱い。なにか尖ったものが、体の中に突き刺さっているような感覚。

 右腕が冷たい。僕という名のボールを止めた木に触れているはずなのに、一切の感触がない。

 息が苦しい。息が苦しい。唸るように、叫ぶように声を上げないと、満足に呼吸もできやしない。

 明確なる「死」の予感が、僕の脳裏によぎる。


「あ゛あ゛……はっ、はっ、あああああ゛あ゛!!!!」


「アイゼン!!」


 フレデリクの声が聞こえる。彼の方を見ることすらできないけれど、その声は緊迫感に包まれており、僕を吹き飛ばした「なにか」が、近づいてきていることがわかった。


「クソ……!」


 衝突音。片方はフレデリクの金属鎧、もう片方は鈍い音──生き物であることは、間違いなさそうだ。

 全身の痛みに苦しみながら、しかし、僕の脳の一部は確かに冷え切って、働くことをやめてはいなかった。死にかけた体が、それでも足掻くために、頭を動かしていた。


「フレデ……リク……ぐ、うう」


「喋るな!今、こいつを……!」


「Kuooooo!!」


 初めて聞く鳴き声。大地を震わせるような、重低音に本能が察知する。

 僕を吹き飛ばした生き物こそ、この森の主だ。ハンガーウルフを逃亡に追い込み、森をざわめかせていた元凶だ。


「いい……から、はあ、ぜえ、逃げて、いいから!」


「喋るなと言ってる!俺は相棒を見捨てない!」


 再びの衝突音。声に余裕はなく、トゥルスライトの街の中では、実力者として目されているフレデリクが、押されているらしい。

 なんとか、逃げてほしかった。でも、彼は戦っている。僕なんかを「相棒」なんて呼んで。


 出血は酷くないようだ。全身の傷は打撲ばかりで、この痛みと苦しさの原因は、骨折と内臓の損傷だと推測できる。


「うご、け……があああ!!動け!!」


 ならば、起き上がれるはずだ。

 失血の心配は少ない。仲間を見捨てて逃げることのできないお人好しを安心させるため、なんとしても。僕は立ち上がらなければ。


「アイゼン!無理するな!……く、このおおおお!!」


「Kuaaooo!!」


 ぼやける視界に、フレデリクの鎧の輝きと、彼を悠に越える巨体の影が映った。

 言うことを聞かない右手に見切りをつけ、左手で木の幹を支えに上体を起こす。途端に左胸が悲鳴をあげるが、歯を食いしばって抑え、影の正体へと目を凝らした。


「ぐ、ま……熊、か」


 巨体の熊は、後ろ足で立ち上がり、フレデリクと対峙していた。

 茶色の毛並みには、ところどころ紫色の筋が通り、魔の気によって変化していることを示している。

 なにより、そいつは前足が異常に発達していた。

 酒樽ほどの太さがあるのではないだろうか。フレデリクの大剣を簡単に跳ね返し、彼を押さえつけようと繰り出す爪は、僕の短剣よりも大きいだろう。


「フレデリク……!僕は、起き上がっ……ぐ……た。大丈、夫、だから!ぜえ、はあ、逃げ……あああ゛あ゛!?」


 呼吸をするたびに、内臓に骨が突き刺さるような痛みを感じる。

 しかし、呼吸を止めればすぐにでも意識を手放してしまいそうで、痛みを堪えながらも息を吸うことをやめられない。

 あの熊の突進によるダメージは、致命傷一歩手前まで僕を追い詰めていた。


「そんな状態で大丈夫なわけ……!クソ、この、がっ!?」


 僕に意識を向けていたせいだ。フレデリクは熊のパンチをいなしきれず、地面を転がる。

 状況は最悪に近い。僕は足手まといで、彼はこの場から逃げるつもりがない。敵は強大で、助けも来ないだろう。


「く、うう……」


 逃げろと叫び続けたかった。

 だけど、これ以上戦いの邪魔をしては、逃げられる可能性も奪ってしまいかねない。

 僕にできることは、痛みを堪えることと、祈ることだけだった。

 僕は、無力だ。


「うおおおおお!!」


 起き上がったフレデリクは、真正面から斬りかかると見せかけ、踏み込んだ足を一気に下げる。

 太い腕で斬り下ろしを防御しようとした熊の意識を掻い潜り、引き寄せた剣を突きへと変えてみせた。

 ──曲芸じみている。

 子供の背丈ほどはある大剣を持ってして、あの剣技。普通の魔物であれば、間違いなく腹を刺されていただろう。


「う、そだろ……げほっ、ごほっ」


 だが、相手はこの森の主。その毛皮は頑丈極まりなく、フレデリク渾身の突きは、切っ先で引っ掻く程度の効果しか及さなかった。


「らああああ!!」


 それでも彼は剣を振るい続ける。

 冒険者にとって、自分の武器が魔物に大きなダメージを与えられないことなど、珍しくはないのだろう。

 わずかな動揺も見せず、引き戻した大剣を、今度は右からの薙ぎ払いに変えた。


「Kooaaaa!!」


 熊は突きが自らに被害を及さないことを悟ってか、その薙ぎ払いを防御すらしなかった。

 自身が強者であるがために、その象徴たる二本の腕は振り上げられ、攻撃に集中しているフレデリクの頭へと、落とされた。


「フレデリク……!」


 ぐちゃり、と肉が潰れる嫌な音を、僕は聞いてしまった。

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