第十六話 騒めく森
その場に倒れ込むように、僕は寝そべった。
フレデリクはそれを見ても心配は口にせず、隣に座ってくれた。
「なあ、アイゼン」
「……なに?」
「フレディでいいって、言ったよな」
「あ」
彼の前では、そう呼ぶように心がけてきた。だけど、心の中ではどうしても、愛称で呼ぶことに、抵抗というか──申し訳なさがあって、「フレデリク」と呼んでしまっていた。
ハンガーウルフとの戦いで余裕のなくなった僕は、彼を愛称で呼べていなかったようだ。
「ちょっと傷ついた」
「いやちょっと待ってよ。初対面の人を愛称で呼ぶって、結構コミュ力必要だよ?」
「コミュ力?」
「コミュニケーション能力」
「ああ。でも、普通じゃないか?ユーリは酒場で一度会ったきり話してなかったが、昨日愛称で呼んでくれたし」
「ユーリ師匠は普通じゃない!」
「というか、君もさっきまで愛称で呼んでくれてただろ?俺、なんかしたか……?」
「それはー、えっと」
「まあ、いい。わかったよ。愛称でっていうのも、俺たちが同郷だっていう偽装の一環だしな。アイゼンが呼びたくないなら、それで……」
「ちょ、ちょっと待って。呼びたくないわけじゃないんだ。ただ、えーっと、自分なんかが君と二人でパーティー組ませてもらって、いろいろお世話になっちゃって、って考えると、なんか申し訳なくて」
僕はこの世界に来てからこっち、彼にお世話になりっぱなしだ。
僕からは大したことをできていないのに、仲がいいような顔、というか、大きな顔をするのは、罪悪感がすごかった。
「何言ってんだよ。人助けは趣味って言っただろ?それに俺は君のこと、相棒だと思ってるのにさ」
「相棒……僕が?」
「ああ。一緒に外の依頼に出たのは初めてだけど、街中の依頼じゃ、俺はいっつも君の気遣いに助けられてばかりだったよ」
「そんなことない。君がトゥルスライトの人たちに、僕を紹介してくれなかったら、上手く依頼なんてできなかっただろうし」
「じゃ、お互い様ってわけだ。そういうのが、相棒だろ?」
そう言って、彼はまたニッと笑う。
彼の笑顔は、いつだって僕の悩んでいることなんてどうでもいいもののように思わせてくるから、全く不思議だ。
「そうかもね」
「そうだよ。……っと、休憩はそろそろ切り上げよう。腹減った」
「お昼は戦った場所から離れた方がいいんだっけ。完了の報告に使うのは、毛皮だよね?」
体を起こしつつ、そう問えば、フレデリクは早くも自分の倒したハンガーウルフの毛皮を持って見せてきた。いつの間に。
「解体は教えるから、君が倒したヤツは自分でやってみろよ」
僕は短剣を手に、自分で首を落としたウルフの元へ歩き始めて──その途中で、ぴたりと足を止めた。
「フレデリク……フレディ、僕たち、なにか見落としてない?嫌な予感がするんだ」
「見落としって……いや、確かに。それに、森の様子もおかしいな」
僕たちが熊森へ入ってから、約三時間半といったところだろうか。
ハンガーウルフの痕跡を追っている間、森は静かながらも、時折鳥の鳴き声や、葉が擦れる音が聞こえていた。
戦闘に集中するあまり、気づいていなかったのだが、今はそれらの音が多すぎる。森が騒がしい、とでも言えばいいだろうか。
「僕たちの見立てだと、ハンガーウルフの群れは四、五匹。どう間違ってたって、一匹足りないよ」
「ああ。それに、あいつらが俺たちを待ち伏せていたんだったら、三匹同時にかかってくるべきだ。アイゼンが気づく前、あの藪に俺が背を向けたことは何度もあったし」
それに、僕が相手をしたウルフは、フレデリクが相手したものより、一回り体が小さかったように思える。
だからこそ勝てたとも言えるけれど、群れごと魔物化したのであれば、子供がいてもおかしくはない。
「じゃあ、あの遠吠えは」
「俺たちに向けたものじゃなかったんだろう。ハンガーウルフが四、五匹いても逃げる相手、ときたか」
鳥の鳴き声が相変わらずうるさい。やたらと聞こえてくる羽ばたきや、葉が擦れる音のせいもあって、ウルフたちの巣があった方向で何が起きているのか、全くわからない。
「どうする?僕たちの依頼は、調査も含まれてるから、三匹持ち帰れば報酬は貰えると思うけど」
「そうだな……」
森で何が起きているのかはわからないが、ハンガーウルフ五匹以上の実力を持つ敵がいるとすれば、僕たち二人の手に負えない。
ギルド長によれば、今回僕たちが受けたような「討伐依頼」は明確な目標がわかっている時にしか、出されない。そのため、僕たちがこの森の異変の原因を、不明のままで報告すれば、そこで出されるのは調査の依頼だ。
調査依頼では、ギルド側が依頼を受けることを許可する冒険者の力量が、討伐と比べて下がる。
フレデリクは、悩んでいるようだった。
自分達が危険を冒すべきか、誰かにその役目を押し付けてしまいかねないことを、許容するべきか。
「アイゼン。毛皮を持って、先に帰ってくれ」
「……でも」
「君の実力なら、熊森を抜けるだけなら問題ないはずだ。俺は騒ぎの元凶を見に行く」
「僕たちが報告すれば、最低でも調査依頼は出るんじゃないの?それを受けて、もう一度ここに来ればいい。今度は、ユーリ師匠やジム氏も一緒に」
「ジムのアニキのパーティーは強い。だけど、だからこそ調査依頼は受けてくれないだろう。確実性が欲しいんだ、俺は」
じっとこちらを見つめる瞳に、僕は思わず下を向く。
「斥候の基本は、生き残って情報を伝えること、だろ?」
「そうだけど、それじゃ、君がまるで……!」
「大丈夫さ。俺は頑丈だって、知ってるだろ?」
冗談めかして笑うフレデリク。僕は血が出るほど唇を噛みながらも、その言葉に頷いた。
彼から二匹分のハンガーウルフの毛皮を受け取り、走りやすいようにそれをマントのように背負う。
「晩飯は、あの店にしよう」
「うん」
──結論から言えば。
僕たちは、悠長にすぎた。
もっと早く、二手に別れることを決断すべきだった。
いや、もっと早く、二人で逃げるべきだったのだ。
走り始めた途端、横合いから襲ってきた強い衝撃に、僕の視界は暗転した。
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