第十四話 V.S.ハンガーウルフ(前)

 周囲の木々に一瞬視線を向けながら、僕は言われた通りに一番近かった木に登り始めた。

 木登りはおばあちゃんの家の裏山でよくやっていたので、この土壇場でまごつかずに済んだのは僥倖だった。


「フレディ、さっきのって」


「ハンガーウルフの遠吠えだ。俺たちは誘われたらしい」


 彼は背負っていた大剣を中段に構えつつ、上を見ることもなくそう返す。

 全方位、どこから襲ってきてもおかしくはない。僕は木々の間を注意深く観察しつつ、動くものを探した。


「一度に何匹まで相手できる?」


「俺一人で二匹までなら大丈夫だ」


 となると、痕跡からして、僕が二匹か三匹を倒すないし、フレデリクに近づけないようにしなければならない。

 急にプレッシャーが肩にかかった。


「アイゼン、動きは?」


「ないよ。本当に、僕たちへの遠吠えだったの?」


「わからない。だが、冒険者は常に最悪を想定しなくちゃいけないんだ」


 遠吠えが響いたあと、しばらく静まり返っていた森が、急に騒がしくなり始める。

 鳥の鳴き声。下草が擦れる音。そして──なにかが走ってくる音。


「フレディ、正面!」


「わかってる!」


 黒い。襲ってきた影を見て、初めに思ったことは、そんなことで。

 フレディは飛びついてきた二匹の狼を大剣で薙ぎ払った。


「あいつら、お腹に食らわなかった!?」


「魔物の毛皮はしなやかで硬い。俺の大剣じゃ吹っ飛ばせても、大して斬れないさ!」


 彼の言の通り、黒い狼──ハンガーウルフは二匹とも、すぐに立ち上がり、フレデリクに向けて唸り声を上げ始めた。

 体長は一メートル六十センチほど、体高は予想通り一メートルはある。牙と爪は鋭く、金属鎧でもなければ切り裂かれてしまうかもしれない。

 昨日僕が戦った狼と比べて、毛皮は黒く、艶もある。フレデリクの大剣は押し斬るような運用をするとはいえ、勢いよくその刃とぶつかって、ダメージをほとんど負っていそうに見えないことから、かなりの頑丈さを持っているのだろう。


「どうやって倒すの?斬れなきゃ、殺せないよ」


「さっきは空中で当てたから、こいつの本分を活かせなかっただけさ。地面に倒してからなら、首を落とせる……ッ!」


 なら、僕にできることは。

 必死に思考を回し、突進を始めたフレデリクと、彼の大剣と互角に打ち合うウルフを観察する。

 だけど頭には、今、木を降りても、僕はきっと邪魔にしかならないだろうという、予感しか浮かんではこない。

 悔しさに思わず歯軋りをする。せっかくついてきたのに、僕はフレデリクの足手まといでしかない。


「なにか、ないのか!?なにか、なにか、僕にも……!」


 木の上には投げられるものもない。枝を切ればあるいは投げられるかもしれないが、目眩しにもならないだろう。

 ぎゅっ、と短剣の柄を強く握り、フレデリクの戦いを眺めることしかできなかった僕に、転機は訪れた。


「あれ、もしかして、伏せてる……?」


 二匹とフレデリクが戦っている場所から、少し離れた藪のなか。目を凝らしても確証が持てないほどの微かな動きだが、あそこに──もう一匹、いる。


「らあっ!」


「Gauuu!?」


 横薙にした大剣が二匹のうち一匹の顎を捉え、もんどりを打って倒れた。

 すぐにフレデリクが、距離をとったもう一匹に向き直るが、その位置は完全に、件の藪に背を向ける形になる。


「……っ!」


 声を上げれば、彼の意識が僕へ向いてしまう。

 だけど、今、背を襲われては、いくらフレデリクであれど、体勢を崩すだろう。倒れた一匹が起き上がったら、三対一。彼の言っていた対応できる数を上回る。


 判断は一瞬。恐怖に身をすくませる余裕もなく、僕は立っていた枝から跳んだ。

 距離はあるが、高さもある。全力のジャンプなら、あるいは!


「ぅうう……!!」


 思わず情けない声が上がりそうになるが、必死に抑え、握った短剣は下に向ける。

 僕に気づいたのか、藪が蠢くが、このタイミングで逃げ始めても遅い。僕は自分の身体能力に、重力を重ね合わせ、勢いよく藪に突っ込んだ。


「アイゼン!?」


 ガサガサドカッ!という音に、フレデリクが声を上げる。

 それに応えることもせず、僕は無我夢中で、自分の下で暴れる生き物に短剣を突き刺した。


「Gyaaaooon!?」


「フレデリク!こっちはいい!君は自分の相手を!!」


 押さえつけようにも、そいつ──三匹目のハンガーウルフの膂力は、僕のそれを悠に超えており、振り落とされる。

 だが、アルさん謹製の短剣は、ウルフの背中を抉っていたようだ。僕の革鎧が、返り血で赤く染まった。


「りゃあああっ!」


 相手は魔物だが、手負いなら僕でもなんとか戦えるかもしれない。

 ペースを渡すまいと、全力で踏み込み、正面に構えた短剣を押し出すように突進する。

 ハンガーウルフはすぐさま右に跳んで避けたが、その動きはフレデリクが戦っていた個体よりも遅い。

 突進の反動を前転で殺し、体勢を落としつつ、右を向く。前転した際に短剣を体に刺しかねないが、今は一瞬の隙もなく向き直ることを優先したかった。


「Gaururururu……」


 ウルフは俺を警戒するように頭を下げ、艶のある黒い毛を逆立てている。

 僕は飛びつきの狙いを定めさせないよう、左右にステップを踏みつつ、次の手を考えた。

 昨日の狼はアッパーカット気味な斬撃で首を斬ったが、踏ん張りを効かせた上からの斬り下ろしや突きでなければ、ハンガーウルフの丈夫な毛皮は斬り裂けないだろう。

 今は僕が攻めの主導権を握れているが、向こうから仕掛けてこられたら、いなし切れるかはわからない。


 フレデリクの方からは、未だに戦闘音が聞こえてくるため、彼の助力はしばらく期待できないだろう。

 時間稼ぎすれば──と、一瞬よぎった弱気を、頭を振って吹き飛ばす。

 僕は、彼の足手まといではないことを示さなければならないのだ。こいつを倒す気概で剣を振らなくて、どうする。


 覚悟を胸に、僕は再び前へと踏み込んだ。

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