二章 新米冒険者編
第五話 冒険者登録
翌朝。案の定よく眠れなかった僕は、明け方にはギルドの一階に降りていた。
一度眠って起きても、やっぱりここは見覚えのない建物のままで、この世界が夢ではないことは確定だろう。
手持ち無沙汰のまま、昨日男たちが酔っ払っていた椅子に腰掛けると、厨房の方から声をかけられた。
「やあおはよう!早いねえ」
「おはようございます」
朝から溌剌とした声のおばさんは、昨日二階の部屋を案内してくれた人だった。
「あの部屋じゃあ、よく眠れなかっただろう?すまないね」
「いえ、少しは眠れたので」
「冒険者は酒代やら賭けやらで財布の中身をスっちまうのも多いから、うちのギルドの二階は格安の眠れる場所にするってのが、先代のギルド長からの方針なんだよ」
毎晩あんな様子で酒を飲んでいるのかはわからないけど、確かにあの人たちを道に放り出したり、他の宿屋に任せたりするのは、少々危険だと思う。主に通行人や従業員の方が。
「えっと、先代のって言うと、今のギルド長は?」
「ああ。あたしだよ。冒険者どもからはババアだの、女将だの言われるけどね」
「そうだったんですね」
四、五十代だろうか。ギルド長だと言われれば、貫禄はもちろんあるのだが、言われなければ酒場の女将にしか見えないのも事実だ。
というか、ギルドは夜の間酒場なのだから、それも間違ってはいないのだろうけど。
「アイゼンっていったかい?あんた、冒険者になりに来たんだろ?」
「まあ、はい。そうですね」
「あんな酔っ払いと一緒にはならないでくれよ?これ以上増えたら、迷惑ったらない」
顔を顰める彼女は、しかし、彼ら冒険者に対する慈愛で溢れているように感じた。
「気をつけます」
「そうだ。バカどもが起きて来て騒がしくなる前に、冒険者登録、するかい?」
「えっと……」
今朝はフレデリクが起きて来てから、彼の提案に乗ること、つまり冒険者になることを改めて伝え、それからの方針を聞く予定だった。
手続きに時間が取られるのなら、彼が起きてくる前に済ませてしまうのも手だが、如何せん僕にはこの世界の常識がない。冒険者登録に何が必要なのか、さっぱり検討もつかなかった。
「なあに、難しい顔をしなさんな。誓約書にサインと血判をするだけ、かーんたんなことだよ」
ちょっと待ってな、とおばさんは厨房を出て、カウンター席の方に向かう。
どうやら、あそこの机は立ち飲み用の場所ではなく、書類の入れられた受付用の場所のようだった。
「はい、これだよ。文字が読めなかったら、あたしが読むから、遠慮なく言っとくれ」
言われて初めて、僕はこの世界に来てから、一度も文字というものを読んだことがないことに気がついた。
会話はなぜか問題なくできているが、文字が読めないとなると、フレデリクにかける迷惑が増えてしまう。
恐る恐る紙を見ると、そこには見たこともない記号がずらりと並んでいた。
「う……」
「ん?どうしたんだい?」
一瞬顔を顰めると、ざらざらした紙の上で奇妙なことが起こり始めた。
意味の読み取れなかった記号同士が結びつき、踊るように離れ、紙の左の方から日本語へと変わっていくのだ。
順当に考えれば、翻訳されていっているのだろうが、無機質な黒い文字が、紙の上でうねうねと動く様は、かなり気持ちが悪い。
ぱっと目を逸らすと、次に紙を見たときには、すでに全ての記号が日本語へと変化していた。
「あの、今、この紙の上の文字が動きませんでした?」
「何言ってんだい。大方、眠気で涙が滲んだんじゃないかい?文字が動くわけ……」
「ギルド長?」
「アイゼン、あんたそんな目の色がヘンだよ」
言われて、目を擦る。痒みや痛みはないが、どんな色をしているのだろうか。
「おや、戻った」
「えっと、どんな色だったんですか?」
「青と緑と黄色と赤と紫と……とにかく色んな色がごちゃ混ぜになって、ぐるぐる渦巻いてたよ」
今まで生きて来て、何度も見た鏡の中の自分は、黒髪に黒い目だった。
そんな色の大洪水みたいな目の色だったことは一度もないし、言われたこともなかったのだが。
「今は治ってるんですよね」
「うん。何か心当たりはないのかい?」
「いえ、まったく」
読めなかった文字が日本語として読めるようになったことと、関係があるのかもしれない。
だが、それを心当たりとして口にすれば、なし崩し的に僕が異世界から来たことまで話すことになりかねない。
フレデリクのおかげで、なんとか彼の知り合いとしてギルドに受け入れられたのだ。異常性を自分から暴露するのは、望ましくないだろう。
「これで、読めますかね」
目の色についてそれ以上掘り下げられないようにと、急いで書類を書き上げたものの、僕が書いた文字は明らかに日本語だった。と言うか当然だ、この世界の文字──ドラコ語、とフレデリクが言っていた気がする──を、僕が書けるはずないのだから。
「うん、よく書けてるよ。綺麗な文字だね」
しかし、カタカナで書いたアイゼンの文字は、問題なくギルド長に伝わったようだった。疑問は深まるばかりだが、ひとまずは考えないことにする。キリがない。
「血判ってどうすればいいんでしょうか」
「ああ、ナイフか何かで親指を切ってくれれば……って、アイゼンあんた、ナイフも持ってないのかい」
曰く、多目的に使えるナイフは冒険者の必需品らしい。
また、この世界の常識外の行動をしてしまった。これ以上ボロを出す前に、フレデリクにいろいろ教わりたいと、切に思った。
「とりあえず、これを使いな。冒険者としてやってくなら、ナイフは必須だからね、あとでちゃんと買いに行きなよ」
ギルド長に借りたサバイバルナイフのような刃物を使って、恐々親指を切り、痛みに顔を顰めながら誓約書に血判を押す。
これで、冒険者登録は終わり、のはずだ。
「よし。これで終わりだよ。おめでとう、アイゼン。あんたもこれで、ドラコの冒険者さ」
冒険者の証として渡された鉄製のドッグタグの重みが、初めて就いた仕事への緊張を、強く僕に実感させた。
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