第二話 フレデリク

「そんで、アイゼン。あ、呼び捨てでいいよな?俺たち旧知の仲になっちゃったし」


「あ、うん。それで……いいです」


「敬語もナシナシ。仲良くないとジムのアニキにばれちゃうだろ?」


「えーっと、じゃあ、うん。わかったよ」


 ニカっと笑う目の前の青年からは、だいたい同じくらいか少し年上のような雰囲気を感じた。

 少しくすんだ金髪に、焦茶色の瞳。小麦色に焼けた肌には、いくらかニキビの跡が見える。

 どう見ても外国人にしか見えないが、彼の口から出てくるのは流暢な日本語。それに、結構重そうな金属鎧をつけていることにも、強い違和感を覚える。


「忘れてた。俺の名前はフレデリクな。仲良いヤツはフレディって呼ぶから、アイゼンもそうしてくれよ」


「……フレディ。わかったよ」


 人を下の名前、それも愛称で呼ぶなんて、随分久しぶりのことだった。

 中学の友達とはすでに苗字呼びだったし、小学校の友達で今でも付き合いのある人なんて一人もいない。

 この場所への当惑と混乱を、少しの間忘れさせるほど、そのことへのくすぐったさとか、恥ずかしさは強かった。


「おばちゃん!俺、鹿肉のソテーとスープね!アイゼンにも同じものをお願い!」


「あいよー!」


「ここの鹿肉ソテーは絶品だから、楽しみにしときな?」


「でも僕、お金持ってない……よ」


 勝手に僕の分まで注文をしてしまったフレデリクに、慌てて首を横に振る。

 ここで日本円が使えるようには思えないし、そもそもポケットから財布もスマホも消えていることは、感触でわかる。


「いいっていいって。なんかワケありなんだろ?奢るよ」


「そんな、僕たち会ったばっかりなのに、さっきも助けてくれて、ご飯までって、悪いよ」


「気にすんなよ!俺、人助けが趣味なんだ」


 彼はそんな、物語の登場人物みたいなことを言って、また笑った。


「それで?さっきはジムのアニキを誤魔化すために嘘言ったけど、アイゼンはどこの出身なんだ?なんか言えない事情があるなら、そう言ってくれると嬉しい」


 どうしたものかと、僕は心の中で唸った。

 怪しまれないように、フレデリクの優しさを無為にしないようにと、わざわざ偽名じみた名乗り方をしたわけだが、ここで日本という国や、東京という地名を出してしまったら、台無しになってしまうような気がする。

 一方で、この右も左も分からない状況で、フレデリクが日本のことを知っていた場合は、一気に事態解決に繋がるだろう。

 僕は悩んで、悩んで、鹿肉のソテーが届く頃にやっと、彼の優しさに甘えることに決めた。


「えっと、僕の故郷は……日本っていう国の、東京って街なんだ」


「はぐはぐ……ニホン?の、トウキョウ?うーん、俺は聞いたことないなあ」


 しかし、決意も虚しく、フレデリクはソテーを頬張りながら、否定の言葉を告げた。

 世界には百九十六ヵ国あると、日本では言われている。そのどこの国に行ったって、この情報社会において「そんな国知らない。聞いたこともない」と真っ向から否定されることは、おそらくないだろう。

 一人に聞いただけで結論を出すのは早計かもしれないが、他の誰かに僕の出身地を漏らすのは、ジム氏に嘘がばれかねないという観点から、望ましくない。

 それに、さっき僕を庇ってくれた時からして、フレデリクは結構頭がいい人だと思う。知能と知識は別だとしても、完全に切れるものでもないから、彼が知らないとなれば──。


「あの、フレディ、君が話してる言葉って……何語?」


「変なこと聞くなあ。君も話してるじゃないか、ドラコ語」


「ドラコ、語……」


「ああ。ここら一体だとみんなドラコ語だぞ。言葉が通じるし、アイゼンの故郷は近いのかと思ってたんだけどな」


 まったく聞き覚えのない言語だった。

 もしかすると、少数民族の話す言語として存在しているのかもしれない。でも、だからと言って僕がそれを話せるはずがない。

 どういうことなんだ。ここの人たちが話していたのは日本語じゃなかったのか。僕は何語を話しているんだ。


「顔青いぞ?大丈夫か?」


「うん、た、ぶん」


「ほら、ソテー食えって。元気出るからさ」


 言われるがままに、恐る恐る鹿肉のソテーを口に運ぶ。

 木と金属を組み合わせたナイフとフォークは、この不自然しかない「どこか」において、妙な安心感を感じさせた。


「あ、おいしい」


「だーろ?悩みとか辛いこととか、飯食って寝たらさ、割となんとかなるから」


 塩気が強い鹿肉に、果実系の甘いソースがかかっている。

 臭みはほとんどなく、あまり食べたことのない味付けだが、ソテーはとても美味しかった。


「アイゼンがその、ニホン?って国からここに来たのはわかった。じゃあ、なんでギルドの入り口に突っ立ってたんだ?」


「……わからない」


「わからないって……話せない、じゃなくて?」


「うん。わからないんだ」


 認めざるを得ないだろう。

 たぶん、僕は今──異世界にいる。


「……そりゃ、困ったな」


 がしがしと頭を掻きながら、フレデリクはスープを啜った。


「じゃあ、行くアテもないし、仕事もないってことか?」


「そう、なる。だから、ここの食事代も」


「あーーーそれはいいから。いやしかし、記憶喪失?みたいな感じなんだよなあ。君」


「そうかも、しれない」


 記憶喪失。僕の意識は、マンションの部屋の扉を開いたところで途切れて、この酒場の入り口からリスタートした。

 でも、考え方によっては、その意識の断裂の間に、長い長い旅があったかもしれないのだ。僕の記憶がない間に、この世界にやって来たという可能性も、ある。


「アイゼンは、どうしたい?」


「どう、って」


「んー、なんて言えばいいかな。今、突然この街に投げ出されたような状態なわけだろ?」


「うん」


「そしたら、混乱してると思うけど、なにかしたいことはないかってな。行きたいところとか、とりあえずこの街に住みたいとか、なんでもいい」


 したいこと。そう問われて、僕は真っ先にあることが浮かんだ。

 それはとても、単純なこと。


「帰りたい」


「故郷に?」


「うん。僕は、帰りたいんだ、日本に」


 ただ、それだけでいい。僕は家に、帰りたかった。

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