一章 異世界転移編
第一話 ギルドの喧騒
ドアを開けたまま突っ立っていた僕を、最初に包んだのは笑い声だった。
次いで、ぶわっと広がるアルコールの匂い。本当に昔、おばあちゃんの家で親戚が集まった時に嗅いだ、ビールの匂いだ。
混乱する頭をよそに、五感は情報を収集し続ける。
そこは、レストランというよりは、酒場のような場所だった。
男たちが小さい樽のようなジョッキを傾け、簡素な木のテーブルの上の料理をがっつく。
あちこちから上がる笑い声と、時々混ざる怒声。なにやら注文らしい声を上げる男と、「はいよーっ!」と左奥のカウンターから返事をする女。
酒の匂いに混じって、香辛料や肉の焼ける匂いも漂ってくる。どこか、野生味のある香りだ。
そして、さっきまであったはずの肩の重み──スクールバッグとエコバッグの重みが、消えている。
間違いなく。脳の判断を待つまでもなく。そこは、僕の住む部屋ではなかった。
「おい、兄ちゃん」
ドアノブを握った感触を、確かに覚えている。さっきまでマンションの通路にいたことは、まず間違いない。
手を握ったり、閉じたり、手のひらをつねったり、頬を叩いたりしても、何の違和感もない。
僕は確かに、ここにいる。現実だ。
「兄ちゃん。変な服着てるそこの兄ちゃんだよ」
そうだ、振り返ったら、変わらないマンションの通路があるんじゃないか。
そんな淡い、現実逃避じみた希望を抱いて、視線を後ろに向ければ。
「おい兄ちゃん!って、やっと気づいたか」
そこには、筋肉の塊がいた。
いや、訂正しよう。平均はある僕の身長で、見上げなければ顔を視界に映せないほどの、巨漢がいた。
「っ!?」
「入口突っ立ってたら迷惑だぜ、兄ちゃん。というか、どこの村出身だ?見ねえ顔に、妙な服着てやがるが」
なにか、言われた気がする。
その言葉の意味を理解する前に、僕は強引に巨漢の脇をすり抜け、出口の扉を叩くように開けた。
僕の住むマンションの扉とは似ても似つかない、薄い木の板を二枚並べたような扉に、嫌な汗が滝のように噴き出す。
「ちょっ、兄ちゃん!あぶねえだろうが!」
果たして、その扉の向こうには。
見たことのない街並みが広がっていたのだった。
「おい、兄ちゃん。いい加減にしろよ、俺のこと散々無視しやがって」
目の前に広がる未舗装の土道と、仄かな灯りに照らされた、道の反対側の石造りの建物に目を奪われていると、大きな手に肩をつかまれた。
「兄ちゃんの故郷がどこなんだか知らねえがな、ここいらじゃあ、無視ってのはいっとう嫌いな奴にする、侮辱なんだぜ?」
「あ……す、すみま、せん」
スキンヘッドを日焼けで黒くした巨漢は、ぐい、と灰色の瞳で僕の目を覗き込んで、そう恫喝する。
「まずは出身と名乗りをしな。俺を馬鹿にした落とし前はきっちり、そのあとにつけさせてやらあ」
眉間に寄った皺と、彼の作り出す迫力とが合わさって、僕はなにも言えなくなってしまう。
酒場らしきこの建物の入り口近くで、そうしているわけなので、次第に中で酒を飲んでいる男たちも騒ぎ始めた。
「おーおーなんだケンカかぁ?」
「賭けるか賭けるか?俺はジムだな」
「やめとけ、賭けになんざならんならん。ジムの野郎が絡んでるガキ、あいつに隠れてほとんど見えんくらいにちっこいぞ」
「そらそうか、ジム!弱いものイジメなんかしてんじゃねえぞ!」
「うるせぇ!この兄ちゃんはな、入り口でぼけっと突っ立って俺のこと邪魔したんだよ」
「そりゃおめえがデカすぎんのが悪いだろ!」
「その上どんだけ声かけても無視しやがったのさ。俺にも面子くれえある!」
僕が口を開けないでいるうちに、男たちとジムという巨漢の間で、どんどん話がヒートアップしていく。
僕の頭はまだ混乱したままで、まったく、この状況をなんとかする手段も、言葉も浮かばない。所謂、パニックだ。
「やっちまったなガキ!」
「わははは!それじゃしょうがないな!」
「ジム!殺すなよ!」
一目散に逃げ出そうにも、肩をがっしりとつかまれているため、体を動かすこともままならない。
それに、身じろぎでもしたら、即座に拳が飛んできそうで、僕の体は完全に固まってしまっていた。
「兄ちゃん、十数える間に故郷と名前を言いな。すぐに言ったら、ぶっ飛ばすだけで許してやる」
いや、まてまてまて!ぶっ飛ばすだけって、こんな人に殴られたら死にかねない!どうにか殴られないルートはないのか!?
「十、九」
というかここはどこ!?なんで僕がこんな目に遭わなきゃいけない!?
「八、七」
というか言わなかったらどうなっちゃうんだ。もしかして、殺され──。
「六、五」
「ちょーっとまってくれないか?ジムのアニキ、そいつ、俺の連れなんだ」
「四……ああ?」
僕が口を開きかけたその時、後ろから、つまり開けっぱなしだった扉の方から、声が聞こえてきた。
「フレディ、おめえの連れってのは、どういうことだ?なんも聞いちゃいないぞ」
「今日街に着いたんだ。彼はうちの隣村に住んでたヤツでね、小さい頃たまに遊んだんだ」
よく、わからないけれど。僕の後ろで、僕の知らない人が、僕の援護をしてくれているらしい。
「それで?」
「俺は二年前に村を出てきたわけだけど、別れ際に彼も、しばらくしたら冒険者になるって言ってたんだ。それで、両親を説得したり、準備したりと色々してるうちに、今になっちゃったってわけ」
「妙な服を着てるのは?」
「こいつ、昔から手先が器用で、裁縫とか好きだったんだよ。これも、オリジナルの服じゃないかな」
そうだよね?というので、僕は肩を掴まれながらも、必死に首をこくこくと縦に振る。そうしないと殺されそうだから。
「……俺を無視してたのは?」
「街の熱気にビビってただけさ。特に、アニキの迫力は凄いからね」
「フン……それで、兄ちゃん。名前は」
「愛染……」
苗字を告げてから、ようやく脳が回り始める。
まったくもって何が起きているのかはわからないが、今まで耳に入ってきた名前らしい単語、ジムとフレディは、異国の名だった。
さっき一瞬見えた景色も、どこかヨーロッパ的だったし、僕は部屋に入った瞬間、どこか遠い異国に来てしまったと考えるべきだと思う。
この状況、怪しまれている僕が、日本語のフルネームを告げたら、せっかくのフレディ何某の援護射撃が、無に帰してしまわないだろうか。
幸い、僕の苗字は、そのままカタカナに直しても不自然じゃない。
「アイゼン、です」
「そうか。早くそれを言いやがれ、全く」
果たして、僕の名前を聞いたジム氏は、その大きな手を離し、テーブルの方へ向かっていってしまった。
「なんだよジムー。許しちまうのかよー」
「あぁ?事情がわかったんならそれでいいんだよ」
「ちぇ、ケンカだと思ったのによ」
「んなことより酒だ。酒!」
緊張から解放されて、大きく息を吐くと、後ろから僕を援護してくれていたフレディ何某が話しかけてきた。
「アイゼン、俺らも行こう」
「え、あ」
「ホラ話がバレないように、早く!」
金属製の籠手で背中を叩かれ、僕は彼に誘われるまま奥のテーブルへと歩いていく。
一体全体、ここはどこなんだろうか──。
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