仮名「龍と鎧と風」

りあ

プロローグ

 夏の夜は、蝉の声がよく聞こえる。

 点り始めた街灯の下を、僕は一人、歩いていた。

 ジー、ジー、ジー、という鳴き声に紛れて、どこかの家で、小さな子どもの笑い声が響く。

 駅近くのスーパーを出て住宅街に入り、十数分。この坂を登れば、マンションはすぐそこだ。

 一週間分の食料の詰まったエコバッグを持ち直して、僕は立ち止まりかけた足をもう一度動かし始めた。


 先生の呼び出しさえなければ、少なくとも日が出ている間にここを通っているはずだった。

 なんの部活にも入っていなければ、放課後どこかに遊びに行くこともない僕にとって、暗くなったこの道を歩くのは、初めてのことだった。



愛染あいぜん、ちょっといいか」


 いつも通りホームルームが終わってから、すぐに荷物をまとめて帰ろうとした僕に、担任が声をかけてきたのは、もう三時間も前のことだ。


「大丈夫ですけど」


 月曜日は帰り道に買い出しをすると決めていたため、本音を言えば明日にしてほしかったが、つまらないことで逆らうほど、僕はこの教師のことが嫌いでもなかった。


 空き教室に連れられて、一つの机に向かい合って座るよう、促される。

 なんとなく、昼休みに同じ机で弁当を食べているクラスメイトたちを思い出したが、すぐにやめた。


「一人暮らし、問題ないか?」


「ええ、まあ」


 担任は少し視線を彷徨わせたあと、そう切り出した。

 特に成績や普段の生活で問題を起こした記憶がない僕にとって、その話題を振られたことは、予想の範疇だった。


「親父さんは、変わらず忙しいままか」


「そう聞いてます」


「そうか」


 今から三か月前、この高校に入学してすぐに、僕は目の前の若い男性教師と、父の三人で面談を行った。

 何度も高校生の一人暮らしの危険性や、家族との時間の重要性を説く教師に、どこ吹く風だった父の様子は記憶に新しい。

 何を言われても「うちの方針」「自分は忙しい」の一点張りだった父は今、日本にいないらしい。どこの国にいるのかも、知らないが。


「あー、なにか困ったことがあったら、すぐ先生に言ってくれよ」


「はい。ありがとうございます」


 沈黙。開けられた窓から、野球部の走り込みの掛け声と、吹奏楽部の音出しが聞こえてくる。

 僕はじっと、担任の目を見つめたまま、続きを待った。


「……なあ、愛染」


「なんですか」


「部活とか、入らないのか?」


「そうですね、家事と課題だけで、精一杯なので」


「そ、うか。すまん。でもな、おまえ、教室でも一人のことが多いだろ?」


「まあ、はい」


「先生としても、いろいろ特殊な環境のおまえが、ずっと一人でいるってのは心配なんだよ」


「それは、すみません」


「いや、謝らなくて良いんだ。謝らなくて良いんだがな……」


 もう一度、空き教室に沈黙が流れる。

 僕は休み時間、授業の予習や復習をしていることが多い。周りのクラスメイトが友人たちと談笑する中、黙々と、一人で。

 そんな僕に話しかけてくる人間も少し前まではいたが、無愛想な返しをしてしまったからだろう、最近は遠巻きに見られることの方が多い。


 別に、友達が欲しくないわけじゃない。いや、正確に言えば、欲しいわけでもないのだが。

 家に帰ってからの時間を、慣れない家事に費やさなければいけない僕にとって、休み時間は絶対に活用しなければならない、貴重な勉強時間なのだ。

 それに僕は、まだ家のことをして、勉強をしたうえで、誰かと語り合ったり、遊んだりする時間を作ることができないくらいには、不器用だった。


「夏休みなら、時間的余裕もできるだろう。少しくらい、高校生らしいというか、青春っぽいことしておいた方が、後々得だぞ。ほら、小中学の友達とでもいいから」


「得、っていうのは」


「おまえらくらいの時期に熱中したもんはな、一生ものの趣味になったり、一生の付き合いになったりするんだよ。先生だって、高校時代の友達とは、今も呑みに行くことが多い」


「なるほど」


「クラス全員、学年全員と仲良くなれとは言わんさ。一人でも、二人でも、挨拶を交わしたり、雑談したりできるやつがいたら、悩みとかも多少、楽になるから」


 僕が生返事をするだけなのにも構わず、先生は友達がいることのメリットや、部活動で経験できることを訥々と話した。

 この人なりに、僕のことを気遣ってくれていることはよくわかる。まだ教師人生も浅いだろうに、面倒な生徒を抱えてしまったものだと、他人事のように同情もする。


 だけど、それだけだった。


 きっと、明日も僕は誰とも挨拶をしないし、僕が一人暮らしに慣れる頃には、だいたい仲の良いグループも決まって、クラスの中での僕の扱いというものも定まってしまう。

 多少無理をして進学校、それも一人暮らしを特例とはいえ認めてくれるくらいの、自由な高校を選んだ代償に、小中学の友達とは物理的な距離が離れすぎてしまった。心の距離も、もう同じくらいだろう。


 畢竟、僕の高校生活はこれから先も、一人をベースに続いていくのだ。


 そんな、ぼんやりとした諦観に浸りながら、曖昧な肯定を返し続けたせいで、僕は担任とともに生徒会の見学に行くことになってしまった。

 運命的な出会いやら、人生を変える発見やらもなく、ただ時間を取られるだけの見学によってもたらされたのは、帰宅時間の遅延だけだったことは、言うまでもない。



 坂の上に立つマンションは、高校生が一人暮らしをするには、過剰なほどしっかりした造りだ。

 必然家賃も相応に高いが、僕の生活に無頓着な父は、不動産屋が最初に紹介したというだけで、この物件で契約してしまった。

 真新しいエレベーターの行き先を自分の部屋の階に設定し、隣人と会うこともなく、煌々とした明かりの灯る通路を歩いていく。


 生活する上での不満こそ特にないが、僕はこの、三ヶ月と少しの付き合いになる住まいを、未だ好きになれずにいる。

 扉を開けても、誰も迎え入れてくれる人はいない。

 喜びも、悲しみも、怒りも、悩みも、無機質な白の壁に溶けていくだけ。


 それでも、空虚な「ただいま」を、口に含ませて。

 鍵を開けて。ドアノブを握って。


 そして僕は、その扉の向こうで、異世界に出会った。

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