幸せだなぁ
この間、女の子が生まれた。 身長は50センチ、体重は三キロ。 いつも近所のスーパーでお米を買う時よりもはるかに重い三キロだった。
私は昔から、専業主婦になりたかった。 もちろん、子供が好きで四六時中お世話をしながら過ごしたいという思いもあったが、学生の頃は友達に「合法的にニートになれるから」とよく茶化していた。 昔はその程度の考えだった。学生時代なんてものは何を思っても自由で、何をしても自由。 将来には何にも関係ない真っ白のキャンバスに、好き勝手に色を塗りたくる時代だと思っていた。
学生時代にそうやって思考を巡らすときの材料は、とても範囲が狭い。家族、友達、学校、バイト先。その程度のことだ。たった四つの事項を何度も何度も頭の中で反芻し、こねくり回し、人生観なるものを作っていく。 そうやって生まれたものは、大抵学生間で茶化すためのもので、まともに家族には話せないものだ。 当然、私も親に「私は将来専業主婦になります」なんて言えるはずもなかったし。
そうして私は別段貧しくも裕福でもない家庭だったので、周りに合わせて普通の大学に進学し、普通の企業に普通に就職した。 今年でもう27になるが、この年になって分かる。普通が一番だ。 普通に生きていたら、なんだかんだ静かな土地に住み、静かで優しい旦那に恵まれ、結果的に今は専業主婦。夢が叶ってしまった。 学生時代に口癖だったどうせどうにかなるという思考が現実のものになっていた。
五歳になる長男を幼稚園に送り出し、同時にわざわざ起きてきてミルクをねだり泣きわめく長女をなだめる朝。 昼はドラマを見ながらたまにウンチを漏らす長女の世話をし、それを膝に乗せたまま洗濯ものを片っ端から片付けていく。そんな午前。
今日、長男は珍しくごねた。 バスに乗り込む前にちらちらとこちらの様子を伺ってきて、どうしたのと尋ねると、今日は行きたくない、と。
男の子は母親が好き、女の子は父親が好き。 人間というものは潜在的にそうできていると昔どこかで聞いた覚えがあるが、それはあながち間違っていないような気がする。私を見つめるその瞳はとても健気というか、愛くるしいというか。
語彙力は足りないが、どうにも言葉に表しにくい感情が芽生える。 そのまっすぐな瞳に即負けして、「じゃあ帰ろっか」と言いそうになったが、今回は背中を軽く押して見送ってみた。 頑張って、なんて言葉では足りない何かが、あの子にあるのかもしれない。 五歳児なりに、いろいろと悩むことがあるのだろう。 幼稚園での友達関係とか、まったく関係ないセンチな気分とかがあるのかもしれない。 あの子はなかなか自分の気持ちを言い出せないところがあるから、幼稚園を休みたいなんて、よっぽど勇気を振り絞ったのだろう。
これを機に口をきいてくれなくなったらどうしよう、なんて考えていると、今度は長女が泣きだした。 嬉しいことに以前から危なっかしくトテトテと歩き回っていたが、ついに転んで手をついてしまったらしい。 大きい頭がぶるんと前に倒れた時たまたま両手が塞がっていて、咄嗟に支えることができなかった。手をついてから数秒間が空き、自分が躓いたたことを理解した瞬間こぼれだす涙。 ぷにぷにのほっぺたを伝う涙をぬぐう時、必要以上に指を押し付けてしまうのは私が意地悪なんだろうか。
今日の午前は、二人とも痛みを知るタイプの成長をする日なのかもしれない。 長男だけが気がかりだ、早く迎えの時間がこればいいのに。 そんなことを思いながら、専業主婦の特権である昼寝という仕事に取り組み始めた。
長男を迎えに行き、夕飯のお買い物。 帰ってきたら速やかに夕飯の準備を済まし、みんなでお散歩。 二人の小動物と手をつなぎながら、小さな川の周りを一周ぐるっと歩く午後。
長男を迎えに行くと、バスの窓の向こうには笑顔の長男が見えた。 隣にはいつも一緒のあの子、そしてあまり見ない顔も一緒だ。 相変わらずバスの窓に映る園児たちはみんな同じぶかぶかの帽子をかぶり、同じ服装をして、しかもその状態に何の疑問も抱かず、みんな笑っている。 目が良くて本当に良かった、と思う瞬間だ。
長男はバスを降りるなり、わき目もふらず私に飛びついてくる。 突然の出来事に胸がきゅんとした。 それ以外の表現方法はなかった。胸が、きゅんとした。 今までの人生では、中学の時にパソコンルームで同級生と目が合い、そこまで興味の無かった同級生を意識し始めた時と同じ感覚だ。 なんと人生二回目。
家に着くと、長男はいつものように服を脱ぎ散らかす。あっちで靴下を脱いでいると思いきや、こちらにはパンツが落ちている。 脱ぎ散らかさないでよー、と言ってはみるが、園から帰ってきた直後はやはり疲れているらしく、聞く耳を持たない。 これはまぁいつものことだ。
買い物に行く際の運転中、そして買い物中。 長男はずっと喋りっぱなしだったが、新しい友達ができたことしか喋っていたなかった。 端的に言うと、遊びの時間に一人でじっとしていたところ声をかけてくれたらしく、その後お弁当を一緒に食べて仲良くなったそうだ。 そしてもう一つ大きな話題は、プール。 明後日からは楽しみにしていたプールが始まるらしく、家にはすでに私収監プールセットが、ワクワクしながら一緒に幼稚園に行くのを待っている。
買い物かごに子供を乗せたままレジに向かい、会計の後は手早く香薫のウインナーやら、卵やら、雪印の牛乳やらを詰め込み、再び車を走らせる。長女はチャイルドシートでぐっすり、長男も少し目を離したすきに眠っていた。 他人の運転している車で眠ることほど気持ちいいものはない。 この子たちとは関係ないが、ふとその心地よさを思い出した。
そして、私たちはもう一度靴を履く。今度は車のカギも持たず、みんな手ぶらで。 長男はやおっぱり男の子で、すぐ木の枝を拾う。 私と二人なら全然構わないが、今はもう一人、同じ目線の長女がいる。 となるとやっぱり棒を振り回すと危ない気がするので、捨てさせざるを得ないのかもしれない。 棒を無邪気に振り回している姿もまだ見ていたかったけれど、仕方ない。
折り返し地点の橋を渡ったところで、向かいから二人の学生が歩いてくる。 ギリギリ夏の日差しには及ばない夕日、少しだけ吹く風。 学生たちは汗をかいているが、大人の私は汗をかくこともない。あの子たちも何かしら夢があるのだろうか? ……いや、そもそもこの子たちの夢もまだ知らないな。
限界まで手を上に伸ばし、私の両手につかまる二つの手。 温度も、大きさも、何もかもが違う。 これから君たちは、私に何を見せてくれるのかな。 今しばらくは、どんな苦しみも楽しさが上回ってしまう私。 そんな私の口から洩れた、幸せだなぁ、という言葉。 学生たちに聞こえちゃったかな。 変だと思われるかな。
まあいいか。
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