1.新入社員歓迎ツアー-1
「う、うっぷ」
大公家令嬢、ベルナ・グイドニスは右手で口を押え、湧き上がる吐き気を堪えた。サファイア色に輝くはずだった髪も、冷や汗によりまるで海草のように彼女の首に張り付いている。
馬車の底にある軸が僅かに歪んでいるのか、振動が激しく、この数時間容赦なく彼女の体力を奪ってきた。
嫁入り前の貴族令嬢たる者、公衆の前でゲロを吐くなど論外。鋼の意志でベルナは己の胃に命令を下し続ける。
おんぼろ馬車が石畳路を揺れながら走っていく。これが国家の核たるグイドニス大公家が出した公務車と誰が信じられるだろうか。
やがて馬車は減速し、悪名高きかの城塞都市の関門外に停車した。
「ご苦労」
よろよろと下車したベルナはファサァっと今朝しっかりと巻いた縦ロールのサイドテールをなびかせ、御者に仰々しく礼を言った。
「ぷ。『ご苦労』だって。あんな貧乏くさい馬車なのにいまだ貴族気取りかよ」
「笑えるよな。この国の真の貴族はもう別にあるっての」
道ゆく民達のひそひそとした陰口がベルナの耳に流れ込むが、気にすることもない。慣れたモノである。
真の貴族は体面でなく、礼節、責務と尊厳によって成り立つのだ。
突如、ベルナの頭上から暖かな光が注ぐ。まだ少し回転していた視界が正常へと戻り、眩暈と吐き気が引いていく。
「ありがとうございました。どなたかは存じ……」
振り向きざまに礼を申し上げるも、ベルナの言葉は途中で途切れる。
そこにはとても美しい女性が立っていた。
顔の右半分を白い仮面で隠しているが、それが女性の異質な美貌を損なうことはなく、むしろ神秘感を足すことでそれを更に際立たせた。気品はともかく、顔だけは高水準な貴族の方々を数多く見て来たベルナでさえも、そのオーラに思考を奪われた程だ。
「お安い御用でございます。痛くご気分を悪くなさっている模様でしたので、勝手ながら軽く治癒魔法を」
「あ、ああ……助かりました」
一振りの剣の様なビシッとした佇まいといい、柔和な表情といい、修道女に似た服装といい。女が身にまとう要素の何もかもがこの街とは似合わず、それが逆に馴染んでいるとも言えた。
「ギルドマスターが命によりお迎えに上がりました、グレゴリア・グラリスと申します。どうぞよしなに」
どうやら、新しい職場からの案内人のようだ。
「わざわざありがとうございます。冒険者管理局より発遣された監察員、ベルナ・グイドニスと……申します」
ベルナは修道女の腰あたりに注目していた。
上手く折りたたまれており、長いスカートと半ば一体と化しているが、よく見たらそこには二対の白い翼が左右に生えていた。
「《
「あら……私の事を、事前に知って頂いたのですね」
とぼけた顔をして、天人はスカートの両端をつねり完璧な貴族式の礼をした。お辞儀の動作と共に、シャンパン色の長髪が天人の両肩から流砂のように軽やかに流れ落ちる。
謙虚な言葉とは裏腹に、先まで慎ましく隠されていた翼は猛然と広められ、金属の様な鋭利な反射光を煌めかせる四枚の羽が音もなく大気を震わし、ベルナを威嚇する。
「あなたは……有名人ですので」
「光栄でございます」
悪い意味で、だ。ベルナは心の中で吐き捨てる。
◎
《
門の内側は、同じ
道端で乱雑に置かれている、建材だったかもしれない木片や鉄筋。
不揃いなサイズの瓦礫の間に蹲っている瘦せ細った子供達。
日に面している家屋群の殆どの壁には目を背けたくなるような卑猥な落書きや、語学に心得のあるベルナにさえも判別できないような色んな言語で書かれる歪んだ文字。
これが、
「ひゃっ……!」
急に首の後ろに何やらひんやりとした液体が上から落ちてきて、驚かされたベルナは思わず乙女めいた悲鳴を上げてしまう。
反射的に頭を上に向くと、目に入る一番高い壁から正体を知りたくもない謎の肉塊が一列にしてぶら下がっていた。ベルナの首に垂れてきたのは、肉汁か何かだろう。
肉塊の正体が人間ではないことをベルナは切に願ったが、明らかに入れ墨が彫られている皮膚を不意に目に入れてしまった彼女は考えるのをやめた。
朝七時の風景にしては殺伐し過ぎていたその光景は恐らく、ここの何でもない日常であろう。
「一つ、お聞きしたい事がございます」
天人の質問は、後ろ首を必死に擦っていたベルナを現実へと引き戻した。
「え、ええ。どうぞ」
「グイドニス様は、監察員としてこのファデラビムに派遣される事の意味を把握した上で、その職務を了承したと見受けられます」
「そうなります」
「自殺願望ですか?」
これ以上ないほどの剛速直球であった。
ベルナは生唾を飲み込み、心構えを整える。
確かに、関門をくぐった後まだ十分と経っていないが、肉汁の件でもうベルナの膀胱は大ダメージを受けている。
数十年を掛けて各国の凶悪犯、捨て子、戦争難民や差別される種族が集い、悪逆という名の比類なき自由を享受する背徳の街。「治安が悪い」という概念を既に超越しており、普段なら、ベルナの様な「お貴族様」がここへ来るのは自殺とほぼじゃなく完全に同義である。
それでも。
「私が来る理由は一つ。貴ギルド《
毅然とそう答えるベルナに少し感心したのか、天人の冒険者は目を細め、微笑みを湛えた。
「この国の法律と規則に首を垂れる事に、無意味さは感じませんと?」
「領民の税収で育った正統なる貴族である以上、有事の際に民のため身命を投げ出すのが私の義務。その途中で何かを変えられたかどうかは、考慮する要件には入りません」
この国の法は、この国の王は……健在だ。それを、示す。
周りがどうであろうと、ベルナは最後までノブレス・オブリージュを貫き通すつもりだ。
「なるほど。ふふ。私が先生……ギルドマスターに案内役を任された理由が、少し理解できた気がします」
「お聞かせ願います」
「私達は、思考のコアの部分に少し似通った部分がございます。自らが善と認識した物事へ殉じる覚悟、と言いましょうか」
「誉め言葉として受け取ります」
しばらく、両者の間に沈黙が訪れた。
グレゴリア・グラリスに対する冒険者管理局の評価の一節を、ベルナは思い出す。
「
ベルナとは平和的に言葉を交わしてくれているが、それは彼女の飼い主がそうしろと命じただけだろう。
ちらりと《
そんな《
数々の要注意人物を傘下に収め、破竹の勢いでギルドのレベルを上げ続ける新鋭ギルドの創設者。伝説的な人物となりつつある、あの何処からともなく現れた冒険者の全体像は、未だ霧の中。
気にならないと言えば噓になる。ベルナとて純然たる好奇心があるのだ。
わざわざファデラビムという無法地帯を本拠地として据える点だけ見ると、その本性は限りなく黒に近いグレーであると思われる。だが、組織の長として極めて有能という事だけは否定の仕様がない。
危険人物達を自分の手足のように使いこなす才と度量がないと、ここまで迅速に組織の規模と名声を高める事は不可能である。国に対しても、《
「そろそろ目に入る頃です」
「え?あ……」
ベルナはその建物の威容に言葉を探しあぐねた。
灰色がメインテーマのこの街にあるまじき純白のギルドハウスは、これまでベルナが見たどのギルドの本拠地にも負けない荘厳さがあった。
五階建ての大きなギルドハウスは、壁の材質からして莫大な価値が窺い知れる。ファデラビムという混沌の地で、このような建物を持ち得る事実が意味する事は一つ。
畏怖だ。
この街は、背徳と犯罪の坩堝は、《
「先生……コホン。ギルドマスターはロビーの右側、突き当りに位置するギルドマスター室でお待ちしております。こちらへ」
「ええ」
下手するとファデラビムの城門の二倍はある大きさのギルドハウスの入り口を通り、暖色系の照明で彩られているロビーに入る。
貴族の豪邸にも決して劣らない内装を見て、ベルナは溜息を漏らす。
犯罪は儲かる。当たり前のことだ。今更嘆いても仕方がない。仕事に集中すべきだ。
《
「これからの短い間……同僚としてお願いいたしますね」
特定の三文字に、《
使命があるのだ。ここでくじける訳にはいかない。
深呼吸し、ベルナは口で息と共に弱い心をも吐き捨てる。
両の頬をパンパンと張り、意志を固くし……
かの悪名高き冒険者、ギルフィーナ・レオン・ルミエールの待ち受ける部屋のドアをノックした。
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