もうこの世にはいない老人への手紙

陸条

もうこの世にはいない老人への手紙





 能宗先生、ご無沙汰しています。

 私がこうして先生に向けて手紙を書く理由なんて先生にとっても私にとっても分からないかと思います。先生の授業なんて誰も真面目に聞いていなかったのに、今になってふとした瞬間に先生のことが思い出されて懐かしかったためで、それ以上でもそれ以下でもありません。私たちの住んでいた坂の多い岸間の、そう問題の多い高校ではなかったけれども問題児ではあったらしい私の高校生活において、先生のことは特別の存在でもなかったように思いますが、なんとはなしに思い出されることがあり、手紙を書こうと思い立ちました。

 先生は国語の教師でいらっしゃいましたね。初めてお会いしたときにずいぶんとおじいちゃんがやってきたな、と思ったのを覚えています。すでにそのとき定年を迎えられて再雇用で教壇に立っていらっしゃったそうですから、先生の教育にかける熱意を今になると感じる次第ではありますが、そのとき不届者であった私なんかからすれば、ふん、この年寄りめ、家で隠居でもしてろ、と失礼なことを思ったわけです。

 教壇で先生はぼそぼそと震える声で話され、教科書をめくるその指も乾ききった指先ではページを掴まえることができないので、よく指を舐めてらっしゃった。

 私の通っていた高校は私を除いて優秀な生徒しかいなかったので、ほとんど諦観を示しながら先生の授業に臨んでいたように思います。教科書の陰で別の授業の教科書や参考書を開きながら、先生の独白を聞き流していた、と。

 けれども、私はそんな失礼な真似はほとんどしなかった。たまに午後一の授業のとき、退屈のあまり眠ってしまうことはあったとしても、先生の授業を聞くことはそれなりに楽しい時間でした。

 実を言うと、高校にいた時分、誰にも言わなかったことですが、私は文学を志していました。だから、というわけでもありませんが、私は先生の話す小説家のイメージに、陳腐な言い回しかもしれませんがときめきを感じていたのです。

 先生は授業の合間に、よく雑談をなさいましたね。いくつか覚えているものがありますが、その後本を読んでいく中で先生の仰っていたこととまったく同じことが書かれていることに気づくと、ああ、あのとき能宗先生の仰っていたことはここにあったのだ、と驚かれされることひとしきりでした。

 先生は作家たるもの、という話をよくされておりました。夏目漱石の『こころ』は高校教科書にも採用されており、先生の授業でも取り扱ったことがありますね。この手紙と同じく、手紙体で物語が進む「下」の部分を授業で取り扱いましたね。教科書の後ろの方に、カラー印刷でなく、延々とモノクロ印刷で字だけが続く一連のページ群に、受験用の国語しか望んでいなかった私たちの「小説」観からすると鬱陶しくてたまらないといった有り体で臨むことになりましたが、先生はうきうきとした様子で漱石の『こころ』を一文読んでは、かの文豪の神髄に心を打たれたかのように嘆息されていたことを思い出します。悲しくも遺書の一部ではある『こころ』の「下」では、たしか下宿先で先生とKとがお嬢さんを巡って鞘当てするような、そして先生がその三角関係に苦悩している、そんな場面だったような覚えがあります。

 私たちのおよそ九割の生徒がそうでしょうが、その後の人生において夏目漱石の『こころ』のそれ以外の部分を読んだ生徒は皆無であることから、私たちの認識において『こころ』とは異様に長い手紙が延々と続く、恋の鞘当ての物語なのだ、という思い込みがあります。かくいう私も、その後、なぜだか漱石の前期三部作は読んだのですが、『こころ』だけは高校時代の先生の授業の思い出を汚したくないためなのか、一度も手に取らないまま、その全容を知ることなく今まで生きてしまいました。

 先生の作家たるものシリーズにはまだいくつか話があり、次に印象に残っているものとしては、作家の引き出しについてのお話が記憶に残っています。

 先生は作家たるもの、常に良い言葉を紡ぎ出す必要があるから、と、小説家というものはだいたい皆、読んでいる本の中にこれは、という一文を見つけると、それをさっとカードに書き写し、俳句の季語のように分類して、それぞれあいうえお順に並んだ引き出しにしまっていつでも閲覧できるようにしているものだ、と仰っていました。そのとき、体育の授業の後、残暑でもあり、体育祭間際のこともあって生徒たちの熱がこもっている教室でした。汗の臭いと制汗剤の匂いが混じる教室は、クーラーの轟々とした音が響いていて、先生のぼそぼそとした話し声なんてそもそも興味もないし、あったとしてもほとんど聞き取れない中、国語の成績が悪かった私は成績順に並べられた席順上、先生の真ん前に陣取っていたため、偶然そのお話にありつくことができたのでした。

 ふん、と心の中で鼻で笑ったのを覚えています。そんな必要はない、と当時の私は思ったのでした。真に——と当時の私は何にでも「真」という言葉をつけてそれらしさを担保することばかりに腐心していました——真に必要な一文であれば、一度読みさえすればきちんと消化吸収できているのだ、と。しかしながら、当時の私は実に身体性に乏しい感想を抱いたものでした。消化吸収と当時の私は思ったまではあながち見当外れというわけでもなかったのですが、そこにあるはずの排泄というフローを忘却していたのです。あえて「真」という言葉をリフレインするならば、真に消化吸収を考えるのであれば、各消化器官における栄養素の吸収率を加味し、そこからこぼれ落ちてしまうものこそを考えなければならないのだ、と言い直すことができると思います。

 当時の私の記憶力は人格形成の発展途上期でもあり、また、読んだ本の少なさもあり、だいたいのことを覚えたつもりではいました。もちろん、当時の私は成績があまりよくはありませんでしたから、それと引き替えに得たかりそめの記憶なのでしょう。しかし、大人になって当時読んだ本のことを思い出そうにも、何も思い出せやしないのです。先生の仰っていたことは的確な助言でした。後年、私は太宰治の「ア、秋」という短編小説を読んでいるときに、先生の助言通りのことを実行する詩人が登場し、驚嘆したのを今でもありありと覚えています。

 先生は私を含む不真面目な生徒たちに向かって、受験国語だけにこだわらない、さまざまな文学の楽しみ方についてご教授いただいたかと思います。受験国語においては、畢竟、小説の読みは選択肢に収斂し、いかに本文との矛盾がない答えを掴み取るように強制されます。しかし、小説を読む方法においては、そもそも読まない方法もある、ということを先生は教えてくれましたね。私たちの住む場所に縁のある志賀直哉の『暗夜行路』を延々と貶す先生のご高説には小説を読む技術だけでなく、読みながら読まないという技術を教えられたように思います。

 時任という名字がそもそもいけないんだ、という話から始まって、先生は授業のおよそ二十分を名字批判に費やしましたね。時に任せることなんて人間誰しもあることを、わざわざ作家の意図として設定することに無理があるという、教室内の誰もよく分かっていないことに文句を仰っていたように思います。

 その日は、土曜授業の日でした。

 私たちの学校では、普段五十分の授業が土曜日だけ七十分に拡大されて、いつもとは少し違った角度から「探求」を深めていく授業として位置づけられていたと思います。毎週あったわけではありませんが、月に二回ほどあるその授業は形式的には生徒の自主性を重んじての自由参加でしたが、内実は成績遅延者における見せしめのような意味合いを持っていたように思います。というのも、保護者に向けた説明会の中でプリントが配られ、土曜授業の構想を教頭が語った後、学年主任が校内偏差値が一定未満の生徒は必ず出席させるよう、保護者からも強く促してください、という発言があったからです。

 もちろん先生が学年主任、たしか英語の藤田だったと思いますが、藤田先生の思惑にどこまで賛同していたのかは私は知り得ないですが、先生はのっけから私たちを楽しませようと、志賀直哉批判に繰り出したのだと今になって考えると、思う次第です。

 土曜日にわざわざ学校に通う必要があるのか、ということについては学習時間の低下とも関連づけられ、いわゆるゆとり世代という言葉を生んだ一連の事態とも深く関わりがあるのだとは思うのですが、そういった社会情勢については先生の方がむしろ当事者であるわけですので、ここでは深く触れません。しかし、一つだけ真実としていえるのは、少なくとも私たち生徒側においてこの土曜授業のモチベーションが高くあろうはずがない、ということでした。

 小学校ならいざ知らず、高校生にもなって休日に学校に行きたいだなんて考える生徒は、せいぜい部活をやっている生徒くらいでしょう。不届者であった私は、部活になど参加する意志はむろんありませんでしたから、家で寝ていたり小説を書いていたり自涜していたりしたかったのです。

 先生は私たちの不埒な考えなどまったく無視したまま、志賀直哉を続けましたね。時任の批判——それは私たちが今まさに授業を受けている場所の空間性を無視し、あくまで旅情に近いような叙情性の領域でしか「時に任せる」という意味を備えていない、という批判を仰っていたように思います。ですが、その批判の妥当性は脇に置いたとして(心苦しい限りですが、先生の金言の多くは理解という日の目を見ることはなかったのです)、時空間という言葉にもあるように、時間には空間的な広がりがあり、当然逆もまたしかりであるということを先生は仰っていたように思います。そして先にも触れた夏目漱石の『こころ』にも話が広がり、当初新聞小説の形式を企図されたものの、結果として連載には至らなかったという話をしてくれましたね。最終的に暗夜行路と名指されることになったその小説について、例えば太宰治からはどこに暗夜があるのか、という批判がされることになりますが、そのとき私は知りませんでした。

 先生の話が白熱するにつれて静まりかえる教室の中、私は一番前の席で先生の話を聞きながら自作の小説の筋書きをノートに書いていました。その頃の私は文学を志している、と先ほど書きましたが、まさにその通りでして授業を聞くかたわらに、ある言葉が喚起するイメージを元に小説としての広がりを持たせ、一つの掌編小説として結実させる、といったことを繰り返していました。幸いにして題材はたくさんありました。漢和辞典、国語辞典、英和辞典、和英辞典は入学当初のオリエンテーションでどこかの業者と癒着しているのだと思い込んでしまうくらいの分量を買わされ、あげくに高校に置き勉することが許されず、毎日坂の上の高校まで自転車で駆けながらその重たい辞書群を持ってまいりましたが、他の生徒にとってこの無用な行為は、しかしながら私にとっては授業中に文言を調べるふりをして、言葉から言葉へ、延々と旅をするための絶好のツールでした。私は暗夜を調べ行路を調べ、志を調べ哉を調べました。今でも自転車を漕ぐ足がだるくなり、前に進めなくなるという夢を見ますが、おそらくこの高校時代の謎めいた風習によるトラウマが原因だと思っています。

 授業が終わると、部活がある生徒は残って持参した昼飯を食べ始め、部活に入っていない生徒たちはそそくさと下校することになります。先生は語り終えた満足感からか、やや手入れを怠りがちな白いものが混じった無精髭の残った口元を緩めて、機嫌良く教室から出ていきました。

 固唾を呑んでその様子を見守っていた私たちは一種の当惑に駆られ、先生がいなくなるとすぐに先生の授業への文句を言い交わしました。私たちは先生の仰った批判を少しも理解できなかったので、その居心地の悪さを安易な言語化によって覆い隠そうとしたのです。

 その翌々週、同じく国語の土曜授業がありました。

 私はその時間、市内を学生服のまま自転車でぐるぐると回っていました。学校の友人に教えてもらった喫茶店に入った私は、本棚に収められた漫画本を読みふけり、午前中の時間を過ごしました。土曜授業は反強制的な自主出席を求められるものでしたが、先生によっては出欠を取らないこともあり、先生はその取らない方の先生でした。例えば先ほど名前を出した藤田先生は必ず出欠を取るため、すぐに欠席がばれ、自宅に電話がかかり、お宅の息子さんは成績不良なのに土曜日に授業に出なくても大丈夫なんですか、と漠然とした将来の不安を煽られる脅迫をされ、結果、私は母親に詰問されることになるのです。

 あえて私は言いたい。

 これこそが『暗夜行路』だったのだ、と。それを読むことは単にテクストを目で追うだけでなく、志賀直哉が生きた空間を追体験することもまた、一つの文学的実践なのだ、と。時任謙作の自堕落さを空間的に追体験したのです。

 放漫とした時間を喫茶店で過ごすこと数時間、背伸びして頼んだサイフォン式コーヒーは家で飲むインスタントのそれと質的な面で何が異なるのかいささかも理解できないまま、アルバイトが禁止の私にとっては大金に等しい八百円を支払い、家に帰ろうと高校の近くの八百屋を通ろうとしたところ、思いがけず先生と出くわしました。先生の方はお気づきになられなかったとは思いますが……。

 率直に言って、驚いたことをここに告白します。私の中で、あるいはその他大勢の生徒たちの中で、先生と生活というものが有機的に結びついていなかったのです。坂の下、ちょうど八幡さんに向かう坂があるその通りに、八百屋があったかと思います。サボりのローテーションとして、かつて通った道を自転車で走り直すということをしておりましたが、そこも例外ではありませんでした。その八百屋は幼い時分、よく祖母に連れられて訪れた場所だったのです。

 おそらく学校の方で土曜授業をなさって、その帰り道だったのだと思います。失礼ながら先生と同じく年季の入った白の軽自動車を運転なさっていた先生は、さび付いて焦げ茶色になっている、無機質に駐車場とだけ記された看板の下に車を停められ、学校と同じようにのそのそと出てこられました。八百屋でキャベツときゅうり、それにトマトを買っていたと記憶しています。土曜授業をサボった負い目から、自転車に乗ったままの私は物陰からその様子を見ておりました。傍目から見ると、怪しげな高校生だったと思います。

 先生は店主と二、三の言葉を交わし、そのまま代金を払い、礼を言って八百屋を後にしました。私の存在に気づかないものかひやひやしましたが、それは杞憂に終わりました。ふたたび軽自動車に乗った先生は、エンジンをかけた後、その場から走り去っていきました。

 その様子を見送っていた私に、不意にあるイメージが浮かびました。それは先生と同じくらい年を取った奥様が、ご自宅の縁側で日向ぼっこをしていて、先ほど買われたきゅうりとトマトを囓っている、というそんな牧歌的なものです。先生の奥様にお会いしたことはありませんでしたが、イメージの中の奥様の髪は真っ白で、しかし微笑みを絶やさない、そんな方でした。大変失礼な描写、どうかお許しいただきますよう申し添えておきます。

 さて、これまで先生の生徒たちに対する指導、そして文学に対する思いについて、縷々、取り留めなく書き連ねてまいりました。先生をお慕いする気持ちを、高校卒業後、何年にもわたって胸に抱き続けていた私ではありますが、一方で私にはどうしても許せないことがありました。

 それは英語教師であり学年主任の藤田先生です。能宗先生とは異なり、五十歳を少し過ぎたくらいでしょうか。眼鏡をかけておりましたが、その奥に潜む野心の光は隠しようがありませんでした。

 いささか話は脱線しますが、私たちの学校はいわゆる進学校として地域に名を馳せており、その地域における教育の質を向上させている先進校として県下に轟くものでした。いや、轟くとは言い過ぎだったかもしれません。しかしながら教育へのまなざし、そして力の入れ具合については周辺校は足下にも及ばない、そんな学校だったように記憶しています。そして、それを客観的に証明するための指標、それは大学進学率に他なりません。それも有名大学、旧帝大、そして有名私大への進学率や進学数が指標として設定されているのでしょう。どこの進学校もやっていることではありますが、生徒の中に序列意識をつけさせ、私のような落ちこぼれは吹きだまりのようなクラスにあてがわれ、授業のレベルも決して最優秀生徒とは相容れないといった、そんな階級社会となっておりました。

 一度だけ、私は受け持ちの先生がインフルエンザに罹った関係で、最優秀生徒とともに授業を受けたことがあります。どうせ分からないだろうと思って先生が嫌みたらしく出してくる例題を前に、私のような落ちこぼれは肩身を狭くすること以外にやりようのない、それは屈辱的な授業ではありましたが、その先生が藤田先生でした。

 また、何の因果か、藤田先生はワンクールだけ落ちこぼれクラスの授業を請け負ったことがあります。最優秀のクラスでは見せたことのないやる気のなさそうな様子で、通り一遍の説明と威圧的な態度に、私たちの学習意欲はただでさえ低いのにもかかわらず、ほとんどゼロに等しくなったものでした。

 ワンクールの締めとして、冬休みの課題が出されたことを覚えています。ディケンズの『クリスマス・キャロル』でした。

 当時も今もですが、私は英語がすこぶる苦手で、なぜかと言えばその文法的な構造——例えばSVCとかSVOとかああいうものです——がどうしても頭にすとんと落ちてこず、特に高校生の時分においてはさっぱり理解できませんでした。それはもちろん藤田先生のおざなりな説明が主因だったと言えなくもないですし、そもそも頭の出来が取りも直さず悪いからだ、とも言えます。

 自宅で私は絶望していました。

 辞書を引いて分からない単語を調べることはできます。しかし言葉と言葉の有機的なつながり、そしてそこから生まれるはずのイメージがまったく頭に浮かばないのです。もちろん日本語訳を読みました。そのためストーリーは理解していますし、これをひっくり返したお話である『素晴らしき哉、人生』は家で何度も観ていたこともあって、分からないことはなかったのです。

 しかし、問題はストーリーの理解ではありませんでした。当然です。能宗先生の受け持つ国語とは異なり、英語の授業の課題として出されたのですから、英文法を試す問題、あるセンテンスを英語で要約する問題、登場人物の心情を英語で説明する問題などが印刷されたプリントが配られていたわけです。

 冬休みの最終日、私はスクルージの改心に一縷の望みをかけていました——とセンチメンタルなことを祈っていたのです。クリスマスを経て、私たちのスクルージが課題を終えられなかった私を許す寛大な心を持ち合わせやしないか、と。

 私はそれを願って、課題とは別に、単に日本語で書けばいい感想文に以下のように感想を記しました。この教材は高校の初等学生が読むには難易度が高く、適さないため、教材選定にあたって熟慮を願う、と。

 私は二重の保険をかけたのです。一つはスクルージの改心、一つは難易度の高さゆえの不適格な課題との訴え。改心が起これば、訴えは笑って受け流されると思いましたし、訴えが認められれば、改心が起こらなくとも私の正当性は担保できる、と。

 しかし、私の目論見はいずれも外れました。冬休みを終え、課題提出した翌日、私は藤田先生に呼び出されたのです。おずおずと私は教員室に足を運びました。あまり足を運ぶことが少ないその教員室には、冬休み明けというに忙しそうに働く先生たちの姿が見えました。そのため、教員室に入った私の姿に気づいた者はおりませんでした。私はそのとき、亡霊となっていたのです。

 この亡霊を呼び出した張本人は、めざとく私の存在に気づき、自席まで来るように私を手招きしました。このときほど足が重たかったことはありません。当然、行かないわけにもいかず、心ばかりは牛歩で私は藤田先生の元に向かいました。

 先生は私を丸椅子に座らせると、山のように積まれたプリントの一番上にあった私の課題提出プリントを取り出しました。そして先生はため息交じりにこう言うのです。

 お前は愚かだなあ、と。

 一瞬、私は何を言われたのか理解が及びませんでした。唐突だったあまり、それが日本語であるかも認識できず、英語で何か言われたのだと思ったほどです。

 言語の咀嚼が及ぶにつれ、私は喩えようのない屈辱を藤田先生から与えられたのだということに気づきました。恥ずかしさと悔しさで私は顔が火照っていくのが分かりました。どうしてこんなことを言われなければならないのか、どうして教員室で、たとえ亡霊たる私の存在に誰も気を配っていなかったとしても、みんながいるところでその台詞を言うのか、と。

 私が黙っていると、先生は硬い表情を一転して崩し、にやにやとした笑みを浮かべ、この感想文だよ、と言いました。投げ出されるように私の前に置かれたプリントには、汚い字で冬休み最終日に書いた私の感想文が記されています。意図が掴めず、私は先生を仰ぎ見ました。

 先生はプリントの山を示しました。それは提出された冬休みの課題でした。山の一番上にあった某のプリントを私に見せてくれました。書いている内容は覚えてはいませんでしたが、私と違って、しっかりした感想、そして英文での回答が書かれており、一分の隙もありません。続けて別の某のプリントを置きました。多少の濃淡があったとしても、似たようなものです。もう何枚か、先生は生徒たちが提出した課題を見せてくれました。どれも似たようなものです。

 私が何も言わないでいると、先生は呆れたようにふんと鼻で笑い、別に再提出しろとは言わない、とだけ言いました。私は何が何だか分からないまま、教員室から出て行っていいと言われ、退室しました。お前は愚かだ、という言葉がリフレインし、その動揺からいささかも抜け出せない接見でした。

 能宗先生、これはどういうことだったのでしょう。大人になった今となっては、おおよそのことは分かります。藤田先生は、私に自発的な何かを促したかったのだ、と思います。けれども、それを愚かという言葉で収斂させてしまって良かったのか。私にはそうとは思えません。優良な進学校における不良生徒、それも態度の面でなく学力の面でそうだった私にとり、その愚かさは指摘されなくとも自明のことでした。

 愚かさとは何なのか。

 これが私にとって一時期のテーマだったことは否めません。愚かさの肯定をするため、私は愚行を繰り返していたようにも思います。大学進学はては就職までの道のりをレールに託して語られることが多かったかと思いますが、このレールからの逸脱を愚かさと呼んだのでしょうか。はたまた、レールのうちに留まりつつ、その最適化を果たさない非効率を愚かさと呼ぶのでしょうか。私の引き出しに、それを説明するためのカードはありません。先生は、それをお持ちでしょうか。

 藤田先生は、そのワンクール授業が終わってから後は、学年主任以上の関わりを持つことはありませんでした。そのため、その愚かさとの出会いはいわば高校生活においてたった一度きりのものでしたが、私に与えた影響は絶大なものでありました。

 その後の私は、というと、見事に大学受験に失敗しました。

 かねてより学校からはいささかも期待されていなかったため、進路相談はものの数分で終わり、学校の体面を汚さない程度にどんなランクのところでもいいので進学してくれればいいという形ではありましたが、私の愚かさがそれを許さなかったのかもしれません。しかし、私は最適化というレールを外れるという意味での愚かさを選びました。現役合格というステータスを捨て、浪人という道を選んだのです。

 最後のチャンスとして、国公立大学の後期日程で受験した大学は、ひとりで遠方に受験しに行き、少しばかりの小旅行といった趣さえ持つものでしたが、そこら中を水路が走り、温かい春を感じさせる陽気の中、私は宿泊したホテルの中で持参したパソコンを前にひたすら小説を書いていました。なぜ、私がそうしていたのか。これも一つの愚かさの実践なのかもしれません。

 夢破れた私は、いかなる学習意欲も放擲し、ひたすら自分の殻に閉じこもった生活を続けました。能宗先生、その頃の私はもうすでにあなたのことなど忘れ去っており、先生を思い出すこと、いや先生の授業の内容すら思い出すことはなく、ただひたすらに悶々とした日々を送っていたように思います。

 翌春、私は学習塾に通うようになり、そこから体勢を立て直すことになるのですが、結果としてそのシステマティックな学習スタイルに順応した私は、めきめきと学力をつけることになったのでした。暗黒の、と今になって思いますが——高校生活とは打って変わり、私は勉強することが楽しくて仕方なくなりました。それに加え、私には勉強の自由を覚えるようにもなりました。

 川端康成を読み、横光利一を読み、大江健三郎を読み、小島信夫を読み、古井由吉を読み、村上龍を読み、村上春樹を読みました。どれも受験国語では出てこないような作家群であるようにも思います。勉強するスペース欲しさに市内の図書館に行き、文学全集を見つけて芥川を読み、鴎外を読みました。私が何のために小説を読むのか、それはそこに小説があるからだということを体現するように、国語の成績向上にはまったく関連なく、小説を読みふけりました。

 その頃、塾の講師に能宗先生、あなたのように逸脱に躊躇のない三浦先生という方が私の前に現れました。三浦先生は受験をテクニックと捉え、学力とは切り離して考えるべきだということを信条として持ち、塾講師として生徒の学力向上を果たしつつ、小説の批判的な読み方についてレクチャーを施してくれました。

 三浦先生は小林秀雄を介在し、近代日本文学における批評をそのおおむねにおいて印象批評に過ぎないと腐しつつ、小林批評のポイントを的確にまとめ、「故郷を失った文学」をベースに読解していきました。この評論を選択したのは、偶然、教材に取り入れられていたから、ということになりますが、そこには先生の恣意があるような気がしてなりません。

 明治維新を経て、時にその馴致の度合いについて批判的にも顧みられてきた西欧化するこの国において、一方で故郷喪失体験を行いつつ、その根無し草性においていわばインターナショナルの走りとも思える故郷の撹拌について小林秀雄は述べているのだ、と三浦先生は述べながら、そのテキストを介し、何が書かれていないか、ということについてのレクチャーを始めました。

 ここには私が先日「機械」を読んだばかりであった横光利一への批判が込められているのだ、と三浦先生は述べ、四人称として自分を見る眼を提唱した横光の一種の出自の消去について、後年『紋章』において自身の達成として見なすことになる特異的な「私」の立ち位置における故郷喪失の射程を持っている、といった話をされていました。

 うろ覚えながら今になって三浦先生の議論をここに書き連ねてみましたが、その妥当性がどの程度あるのか、それは能宗先生と同様、正直なところ分かりかねる次第です。

 けれども、そのとき不意に私は卒業式を終えてラーメン屋で友人とラーメンをすすりながら、今卒業してきたばかりのこの高校なんて二度と思い返すか、と断言してやまなかった高校生活の中の能宗先生の、老人臭い行きつ戻りつの話を思い出したのです。

 塾の中で、三浦先生のテクニカルな側面については人気がありましたが、先述したようないわば毒のある部分について辟易する生徒もかなりおりました。事実、国語の試験対策におけるテクニカルな解説が主として始められた前半部分と、三浦先生の趣味的な部分(余談、として話し始められた)とでは聴衆の集中力の相違が空気として明らかに出ていました。

 私は三浦先生の余談を聞きながら、同時に能宗先生の本編でありながら余談でしかなかった授業を反芻していました。

 土曜授業の中での志賀直哉批判。そこに暗夜はなかったが、行路はあったわけで、その道筋がここに繋がったのです——これは私だけかもしれませんが。

 学校の建物と、ビルの一室とでは見ている風景も異なり、また空気も異なっています。あの汗臭く、クーラーの効いた学校での午後の授業の光景。体操服の臭い。汗を意識しまいと思いつつ、詰め込まれたカリキュラムの中で息が詰まって臭いすら分からなくなっていたあの高校生活。グラウンドの端にある給水器の周りに休みのたびにたむろして、授業開始ぎりぎりまで馬鹿話を行った日々。今はただ目的だけが前景化され、成果がペイできるかどうかを結果が出るその日まで待機し続けている現在の風景。この相違が私たちの殺伐としたものの有機性と無機性の間にあるたゆたっていました。

 三浦先生の雑談は続きます。

 その日、先生はなぜだか上機嫌で、早々とテクニカルな説明を終え、余談が続いたのでした。先生はおもむろに文庫本を取り出して私たちに見せました。それはあまり学校の授業や塾の講義では見慣れないものでしたが、私たちは壇上の先生の手を注視することになったのです。

 坂口安吾の『堕落論』の文庫が掲げられていました。先生は私たちにその文庫本を見せた後、すぐに鞄にしまい込んでしまい、やや躊躇いがあった後に、坂口安吾の「教祖の文学」について話し始めたのです。

 安吾の小林批判の肝要は、と先生は言いました。一種の人間性の否定にある、と先生は言いました。生きている人間というものは何をしでかすか分かったものではないし、その何をしでかすか分からないという偶然性のようなものに賭け、何事かを為すことが芸術になるといった安吾の考え方があり、それに対し小林秀雄はいわば死人に対する末期の眼を持つだけだ、ということである、と。

 その後、先生は当時の私には能宗先生の話よりもさらにさっぱりと何を言っているかすら分からない言葉を続けました。不完全な記憶の想起はかえって混乱を招くだけなのかもしれません。しかしながら、続けたいと思います。

 小林は志賀直哉を高く評価していたが、「城の崎にて」に顕著なようにその詩的な文体を頂点にした、いわば近代日本における国民文学の達成と軌を一にしていた。しかしながら、安吾のように戦後の地点からその国民文学の成立と崩壊を目の当たりにしてきた作家からしてみれば、想像の共同体が崩壊し、剥き出しの地獄、そして堕落の中に「人間」を見出すより他はなく、その意味で何をしでかすか分からない生きている人間にシンパシーを感じているのだろう。生を超越したところに眼差しを投げかける小林は、安吾からすれば現実世界を鳥瞰した教祖として見えたに違いない。

 故郷喪失と小林は言うが、その故郷喪失とは何を意味するのだろう、と先生は思索途中の言葉を私たちに投げかけました。私は何ら関連のないアナロジーとして、住めば都という言葉を思い出し、その後、先生は気を取り直して通常通りのテクニカルな話に戻っていきました。

 この逸脱の中に、私は愚かさのヒントのようなものを感じたことに先生はお気づきだと思います。表層的にしか理解できなかった三浦先生の話でしたが、どれだけ過去を放擲したと思っても拭いきれない汚名が、私の足を引きずりました。しかし、私はこの愚かさの肯定を、安吾の「堕落論」に求めたようにも思うのです。「人間は生き、人間は堕ちる」と「堕落論」の中に書かれています。私はその日の帰り道、本屋で『堕落論』を購入し、読みふけったのでした。

 能宗先生、私は塾時代を無事に切り抜けることに成功したように思います。ついに友人と呼べるような存在には恵まれませんでしたが、志望する大学に合格し、故郷を失うことになったのです。

 大学に入ってからの私は、この愚かさから解放されたわけではなく、相変わらずその程度の深浅は別としても愚行を繰り返して参りました。

 そういえば一度だけ、同窓会にも顔を出しました。特に会いたい友人はおりませんでしたが、不意に懐かしさが込み上げてきて、思いがけず高校時代のことを思い出し、友人たちとともに旧交を温めつつ、高校時代の先生たちについての評言を行ったりもしました。

 一次会は招待された当時のクラスメンバーが全員一同に集まっていましたが、二次会からは有志で各々の店に行くことになりました。私は当時特に仲が良かった数人と一緒に二次会の店に行くことになりました。駅前に居酒屋は数えるほどしかありませんが、アーケードの方に行くとこぢんまりとした店がいくつかあり、私たちはそこに向かったのです。

 二次会でも先生たちの話は続いていました。私たちは全員、成績も良くなく、学校では落ちこぼれに分類されていたからでしょう。長年の鬱憤を晴らすように、私たちの先生への暴言はヒートアップしていきました。

 批判の主な矛先は藤田先生でした。

 私に限らず、他の生徒からも似たような評価を下される傾向にあった藤田先生は、その物真似から始まり、人間性、教師としての適性、想像される性癖、いるかいないかも分からない妻や子供との関係性、子供時代の周囲の人間との関わりといった人生のあらゆる側面を分解されつくし、その細かなパーツ一つ一つに私たちの評価という名の暴言にさらされることになったのでした。

 欠席裁判の罪状は尽きることなく続き、飲酒量もどんどん増えていくに従って、やがて鉄板と思われた藤田先生ネタにも飽きてきた私たちは、ぽつりぽつりと自分たちの今置かれた状況、就職活動への漠たる不安、恋人の存在有無といった自身の周辺について語り合っていきました。

 満腹と酩酊の進行、そして夜も更けてきた頃、私たちはもう話すネタが尽きてきたのか、散発的に話題が放り込まれて線香花火のように小さく爆ぜ、その燃焼の後、すぐにぽつりとその小さな火球を消失することになりました。

 能宗先生、残念ながらといった書きぶりが正しいのか、藤田先生の二の舞にならなかったという意味で喜ぶべきことに、と書くべきなのか判断に迷うところですが、そういった線香花火的な話題の一つとして、先生の話題の口の端に上りました。

 能宗、辞めたんだって。

 というのが話題の中心でした。能宗って誰だっけという反応を示す者もいれば、そりゃそうでしょ、という反応、あるいは、まだ辞めてなかったの、という反応を示す者もおりました。

 私は、と言うと、久しく聞いていなかったその名前に少し驚きつつも、その名前とともに三浦先生まで思い出されて、酔った頭の中で連想が広がっていきました。私は話のネタに、と気を利かせ、八百屋での邂逅について、いささか盛った話をしました。

 曰く、土曜授業の日、サボっていたのだけれど、八百屋のあたりを通り過ぎたら能宗に出くわした。けれども、先生、そのときもうボケていたからなのか、俺のこと、全然分かってなくてそのまま通り過ぎたんだよね、と。

 エピソードの羅列は私たちの記憶を喚起し、遠い昔のことのように思われる高校生活を思い出させていきます。話題は、やはり先生の志賀直哉批判の回を中心とした余談になりました。

 文系の生徒で占められていた私たちのクラスでしたが、今回二次会に集まったメンバーの中で文学部に進んだのは私だけで、そのために文学に親和性の高い者がほとんどおりませんでした。そうしてみると、先生の概説した『こころ』のその後の展開を、というよりもその前段の展開を知る者はその中には誰もいなかったわけです。

 もちろん文学部に進学した人間だけが文学に関わりを持つ特権を有するわけではありませんでしたが、さりとて、私たちは研究に従事するよりも例えば海水浴を重視する人間の集いでした。したがって、先生の神髄の皮相だけを理解し、一を見て十を理解した私たちはその志賀直哉批判を中心に、記憶を再構築していきました。

 すでに老境に差し掛かり、満足な発声を行うことのできなかった先生のご発言の数々を再構築すべく、当時の断片的な聞き取りを再構成し、即席の講義録を作成することになったのです。

 志賀直哉の発声も危うくなるほどに酔っ払っていた私たち面々は、あだ名をつけてかの文豪を呼ぶことにし、これを連呼しながら『暗夜行路』という小説のタイトルを思い出すのにもう一杯分の酒を必要としたのでした。

 ようやく該当の小説名を思い出しはしたのですが、誰もその小説を読んだことがなかったため、まず空想のあらすじが作られることになったのです。時任、という特徴的な名字を思い出すことに苦労した私たちは、主人公の名前を忘失したまま話の筋を考えねばなりませんでした。私たちが今まさに飲んでいるこの土地、ここが舞台なのだとしてせいぜい坂道が多いくらいしか取り柄のないこの空間において、一体いかなる物語を構築することができるのか。

 私たちの酩酊は錯綜したストーリーをいくつも紡ぎ出し、時折下卑た方向に行っては戻り——稀有な人間もいたものですが——志賀直哉が戦後フランス語を公用語とすべきだと述べていたことに対する慧眼を褒めそやす者もいれば、不届者だと激昂する人間もおり、議論は混沌としておりました。

 いくつもの星々が私たちの頭上を通過し、その様子をただ月だけが微笑んで眺めているところ、私たちは店主の迷惑そうな顔とともに追い出されることになりました。お勘定を済ませ、めいめいこの後どうするかという顔を突き合わせては、ため息をつきました。久しぶりの再会に対し、時間があまりにも短すぎるからです。そこで仲間のうち、一人が歩いて十数分ほど先にある自宅に来ないか、と言いました。タクシーで行こうという案も出たのですが、夜も遅く、見渡す道路にそもそも自動車の交通がありません。私たちは公衆トイレで小用を済ませた後、友人の家に向けて歩いて向かうことに決めました。

 駅前から海岸線を通って、私たちは移動していきました。街灯はほの暗く、そのうち誰かがこれこそが『暗夜行路』ではなかったか、と言いました。

 能宗は、と友人が続けます。あのよく分からん小説に暗夜がどこにあるのか、と言っていたはずだ、と言い始めると、めいめいがそうだそうだと声をあげました。

 途中、コンビニに立ち寄り、おでんを買った私たちははんぺんやこんにゃくや牛すじやらを食べつつ、今こここそが暗夜なのだ、と叫びました。目の前にある島と本土とを隔てる水道の波は私たち酔っ払いの声を吸収し、不気味な夜の白波の中に打ち砕いていきます。その底には魚たちが泳ぎ周り、私たちの声の藻屑を啄んでは吐き、啄んでは吐いているに違いありません。仲間のうちひとりは限界が来たのか、思わず海に向かって中身をぶちまける暴挙に出ましたが、暗黒の海は黙って許してくれたのでした。

 能宗は言っていたはずだ、と、口を拭いながら自動販売機で飲み物を買った友人が言います。あの小説には暗夜はない、と。しかし、俺はどうだ、と友人は言いました。こんなどうしようもない連中(私たちのことです)としょうもない高校生時代の話に花を咲かせ、未来に向けた希望一つない。就職活動は厳しく、やりたいこともなく、楽に生きたいはずなのに世間は厳しい目で俺たちを眺める。そして、そんな俺たちは現実逃避のために過去である高校生活の話を咲かせている。つまりだ、と友人は胸を張ります。能宗が言いたかったのは、俺たちのこの体たらくに対する批判なんだ。

 だが、あいつも辞めたよなあ。年金も減るっていうし、あいつも一つの暗夜行路を生きていると言えないか。

 別の友人がそう言います。

 確かにそうだ、と友人が応酬しました。年金生活者と給与生活者の不安は似通っている。いずれも何らかの形で収入を得なければならず、そしてそれは何らかの条件を元にして得られる権利であるから、生活の大部分を占める割に、俺たちに与えるはずの金を出す主体は別の者に明け渡してしまっている。

 だんだんとろれつが回らなくなっていった友人が言いたかったのは、おそらくこういうことなのだと思いますが、今となってはその真偽は分かりません。あるいは、私がこう思っていただけなのかもしれません。

 私たちの暗夜行路は、そのまま友人宅に辿り着くまで続きました。十数分の道のりは途中の休憩やら武勇伝語りやら小用やらでその都度中断され、先ほどまでの揚々とした気分はいささかもなく、むしろ皆、言葉にこそしませんでしたが、帰りたいという雰囲気が醸し出されていました。

 なかんずく友人のうち、海と中身を共有した者などは今にも倒れてしまいそうな青白い顔をしております。別の友人がめざとくそれを見つけ、帰るように説得したものの、今ここで彼を放置してしまうのも危険が伴うため、結局タクシーを呼ぶことにし、私たちは友人を帰すためのタクシーを待つ間、暗夜の中に取り残されることになったのでした。

 彼をタクシーに乗せた後、私たちの行軍は再開しました。友人の家に着いたとき、すでに深夜二時は回っていたでしょうか。家は静まり返り、さすがの私たちも顰蹙を恐れて会話を慎むようになっていました。その頃には口数も乏しく、もはや一刻も早く眠りたいという欲望との戦いを行っていました。友人の部屋になだれ込んだ後、私たちは今日の出来事を振り返るためにぽつぽつと会話をしていましたが、やがては一人、また一人と眠り始め、朝を迎えることになったのです。

 数々の失敗の果てに人はそこから何か教訓めいた法則性を帰納的に見つけていき、人生に渡りをつけていくことになるのだと思うのですが、私たちはカフカの一断片のように、ある物事を決して忘れることができず、そのためにこうすればよいということをいつまで経ってもこなすことができないのだと思います。

 カフカは泳ぐことに対し、そのように述べていた記憶があります。曰く、人は泳ぐことができない、なぜなら泳げなかったことを忘れることができず、その記憶のために今泳ぐ能力があったとしても、かつて泳げなかった記憶を残しているがために泳げないのだ、と。

 ゼノンのパラドックスのような話ですが、ここでも私たちの失敗も似たようなものでしょう。その後、幾度となく訪れる酩酊の翌朝、二日酔いに悩まされることになる私たちにとっては。

 このように酩酊と覚醒の往復を幾度となく行った私はその後、就職することになります。しがないメーカーの営業職です。就職難の時代でしたが、数十社の面接とお断りの末にその会社に入社することになりました。やりがいを感じないことはありませんが、能宗先生から教わったものは何一つ日々の業務の中では生かされていません。学校教育というものはそういうものなのかもしれません、と考えること自体が、大人になったということなんでしょうか。私の頭からは志賀直哉も夏目漱石も消え失せ、PDCAサイクルだとかSWOT分析だとか、いくぶん経済的な要素との親和性が高まってきました。

 私は今の仕事を否定するつもりはありません。きちんと給与をもらっており、そのために会社から与えられた課題を解決していくことに、ちょっとした面白味を感じ始めたのも事実なのです。

 そして恋人もできました。

 まったくルーツの異なる者同士がふとしたことをきっかけにして結びつきを深めていく過程は、私にとって新鮮なものでした。私と彼女はまったく共通項はなく、私たちを結びつける糸はなかったのですが、休憩中、偶然私が芥川龍之介の文庫本を開き、「六の宮の姫君」を読んでいると、彼女が話しかけてきたのでした。

 ここには『今昔物語集』との関連性や近代文学における独創性のあり方などに発展するような高尚なものはありません。私は「六の宮の姫君」を読みながら、小林秀雄を評した山城むつみの『小林批評のクリティカル・ポイント』における議論を思い出していましたが、彼女は私に対して何を読んでいるのかと聞き、芥川龍之介だと答えると、ふうんと興味なさげに言いました。

 職場の同僚であった私たちが、仕事以外の用向きで話したのは、これが初めてでした。どうやら彼女は私に対して何らかの興味を抱いているようでした。けれども、きっかけが見つからず、食堂で本を読んでいた私を見つけて、隣の席に座って話のきっかけとして芥川を使っただけのようでした。

 羅生門、読んだ?

 彼女は続けました。

 読んだ、と私は答えます。

 黒澤明の映画は見たか、と聞かれたので私はそれならば「藪の中」について聞くべきじゃないか、と答えました。彼女にはうまく意図が伝わなかったようでしたが、特に私もそれを正す必要を感じなかったので、文庫本を閉じ、彼女を見ました。彼女も私を見ました。

 視線の重なりの後、私たちは互いに話し合う機会が増えた、と書けば何だかロマンティックな香りを醸し出すこともできようかと思いますが、私と彼女はゆっくりと互いを知り、始めは友人になり、その後恋人になっていきました。

 能宗先生、私にとってはイメージの中にしかいない先生の奥様とは、どのように出会われたのでしょうか。先生の文学的なイメージからすると、おそらくですが、先ほどの「六の宮の姫君」にかこつけて敷衍していくと、きっと『今昔物語集』の話をされたのでしょうね。奥様は当然にそれをご存じであって、堀辰雄の卒業論文の中でも歴史小説の中で最高位に属するものだ、という触れ方をされている、といった話をしたのでしょう。

 しかし、それに対して先生は原典でもある『今昔物語集』における「六宮姫君夫出家物語」との類似を指摘し、ぴったり重なるように書かれている箇所も当然あるのだから、現代的な感覚だと盗作に過ぎないのではないか、と返されたのかもしれません。

 お二人は議論の白熱に伴い、だんだんと距離が近づいていき、最終的には恋仲になった、といったことだったのかもしれません。不遜な想像で先生と奥様の出会いを汚そうとしたわけではありませんが、想像上の先生と奥様は、そんな会話をされたのではないか、と思ってしまう自分がいるのもまた、事実なのでした。

 もはや時間軸においても高校生活とは離れてしまい、その距離の間隔とともに先生と私との間にある接点も、元々そう濃くもないものであるがゆえに、ほとんどなくなってきてしまっています。教師という仕事における宿命なのでしょうか、送り出した生徒のそれからについて、教師は学生時代に与えた影響こそあれ、関わりは薄くなって行かざるをえない。もちろん目の前に次々と新しい生徒が現れる、ということもありますが、こうして手紙を書きながら、私と先生の間に横たわる広く、深い時間という川の流れの凄まじさに呆然としてしまいます。

 時間を超越したように、私の頭の中にある先生のイメージは、かつて私たちの前に現れたときと同様、老人のイメージを保持し続けていますが、先生はあれからさらに年を召され、時によって洗われてしまったものだと推察します。

 最後になりますが、始めに書き始めたときはまさかこんなに長々しくなるものだと思ってもみませんでした。ですが、この長々しい手紙は、言わば先生へのオマージュです。先生から頂いた数々のアフォリズムや引用。私自身、この手紙を書きながら、かつての軌跡を辿っていくと、ところどころ先生から頂いたものの影響を感じないことはないです。

 これはしかし、積極的というよりは消極的という感じもしますが、それでもこうして何年も経って先生の授業を詳らかに思い出すことができるのも、一つの卓越した手腕だったのだと言い切ることができるのでしょう。今、先生がどこにいらっしゃって何をされているのか、私自身はまったく存じ上げないのですが、こうして先生に宛てて手紙を書くことで、先生と私との間を結びつける糸があったのだ、ということを私自身が再確認したかったのです。

 だから、これは決して出されることのない手紙なのです。宛所尋ね当たらずで返ってくる、しかし誰かには差し出された手紙。

 能宗先生、末筆になりますが、数々の無礼失礼をお詫びするとともに、先生にありあまる感謝を捧げます。 

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もうこの世にはいない老人への手紙 陸条 @joe_kuga

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