第3話 キムワイプでも拭き取れない心のもやもや
何か気になることがあるとき、岡崎はあえて仕事に没頭する癖がある。このところ岡崎が有給休暇も取らずに毎日職場に朝から夜までいるのもやはり気になることがあるからだった。新たにキムワイプを発注して陳列したのも岡崎のアイデアだった。新しい商品を並べて活気ある売場を作る。攻めの姿勢が大事だ。
それでもちょっとした空き時間にふと心に表れるこれはなんだろう、このもやもやする気持ち。
あれから大平に会う度に聞かされるのは、ブッコローのことだった。一緒に競馬場に行ったとか、食事に行ったとか。いちいち大平は岡崎に報告してくれた。そんなこと私に報告しなくてもいいのに。私、あんな無神経な鳥のこと、どうだっていいのに。
そんなことを考えているその時、
「ザキさん、大変!」
「どうしたの?」
「オカモッティが100個入荷してるの。」
「え?オカモッティが?100個も?」
オカモッティとは、オカモチ型の収納ケースである。見た目のインパクトと持ち運べる機能性がおもしろくて試しにひとつ仕入れて、売り場に置いてみたが、売れたことはなかった。それがなぜ?100個も?
「メーカーに確認したら、岡崎さんから注文受けたって。発注書もあるみたい。」
岡崎は急いで発注データを調べた。「ほんとだ、私、確かに発注を出してる、オカモッティを、100個。そうだ、ジェットストリームを100個発注するはずだったんだ。それと間違えちゃったんだ。どうしてこんなミスをしたんだろう。」
「とにかく取引は成立しているから品物は置いていくって運送屋さんが言っていて、店の入り口に積まれっちゃったよ。」
岡崎は店の入り口に走って行った。そして積まれているオカモッティの数の多さを見てめまいがした。「これ、どうしよう。」
オカモッティ騒ぎのうわさはすぐに社内中に広がった。とうとうその日の午後に、岡崎は松信社長から呼び出されてしまった。
「岡崎です。失礼します。お呼びですか。」
初めて入る社長室は広くて何だか落ち着かなかった。入り口に立っている岡崎に松信社長は声をかける。
「そんなところに立ってないで、中に入って、そこに座ってください。」
「今回のことは本当にすみませんでした。」
「まあ、とりあえず売り場に置けないオカモッティは社長室の空いているところに積んでおいてくれればいいから。」
松信は意外に優しく大量のオカモッティの一時保管場所を提供してくれた。
「だけど、岡崎さん、最近不注意でのミスが増えているという話を聞いているよ。」
「すみません。」
「提案だけど、ちょっと休憩というか文房具売場から離れてはどうだろうか。」
「私、クビですか?」
「いや、そういうわけではなくて、プロジェクトをお願いしたくてね。岡崎さん、テレビに出た経験があるし、有隣堂のYouTubeを立ち上げてほしいんだ。」
「YouTubeですか。」
「これからの時代、必ず動画が必要になると思うんだよ。」
「だけど、私、テレビタレントじゃありませんし、YouTubeもそんなに見たことないので、よく分かりません。」
「そう言わないで。誤発注の損害を埋め合わせるのにぴったりな仕事なんだけどなあ。」
「だけど・・・。」
「とにかく、明日から今の職場に出社しなくていいから。岡崎さんは会議室でYouTubeの企画を作って。」
「は・・・い・・・。」
岡崎は職場に戻った。気づけば夜になっていた。職場にいるのは岡崎だけになっていた。長年親しんだこのフロアから離れ、明日には別の職場に移らなくてはいけないのだ。悲しいとはこういう感情のことをいうのだろう。これもすべてこのところ岡崎を支配している心のもやもやのせいだ。岡崎は入荷したばかりのキムワイプを手に取った。「キムワイプで心のもやもやを拭き取れればいいのに。」気づけば岡崎の頬を涙が流れ落ちていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます