第9話 妻のお願い
妻から養子を迎えたい(里親でも構わない、と言っていたかもしれないが、余りにも話が唐突過ぎて細かい記憶は吹っ飛んでしまった)、と突然告白されたのは夕食の最中だった。
「あのさぁ。」
「何?」
「昨日、うちの近所で段ボール箱に入れられた男の子が警察に保護された…ってニュース知ってる?」
「うん。百歩譲って連れ子や交際相手の子どもに虐待なら…ってそれも絶対に駄目なんだけど、まぁこれまでにも似たような話があったよなぁ、って思うじゃん?でも、実の両親による犯行、ってニュースで言ってたね。近所の人が逮捕前もあの子が度々外に一人で居た…ってインタビューに答えてたし。両親も逃亡とかしないでアッサリ逮捕された…って事は、あの男の子には悪いけど子どもが邪魔だったのかなぁ?だって、2歳児が一人で外遊び…なんて僕らが子どもの頃なら『あの子、放置子だよね〜』ってまぁ陰口叩かれる位で済んだけど、今って虐待は勿論そういうネグレクト?だって完全にアウトなんでしょ?とりあえず男の子の健康状態に問題はない、って言ってたし、親もしばらくは刑務所だろうから、あの子もこれからは施設でちゃんと育てて貰えるだけ良かったよね。」
僕達夫婦に子どもがいないせいか、この時の僕は正直、よその子が捨てられたニュースにさほど興味はなかった。
妻との仲はそれなりに良好だが(そう思っているのは僕だけかもしれないが…)子どもを授からないことを不思議には思うが、お互いそこを深掘りするつもりもなく、気付けば結婚から7年が過ぎていた。それでも夫婦仲がギクシャクすることもなく、お互いに仕事を持ち、経済的にも時間的にも余裕のある今の暮らしにはそこそこ満足している。
特に、僕にとっては初恋の人がそのままお嫁さん(死語か?)になってくれて、毎日一緒に暮らせることはこの上ない幸せだ。だから、妻が自分の趣味を活かした商売をしたい、と言い出した時も反対しなかったし、今でも仕事を優先して家事が疎かになったときは僕が進んで家事をするし、仕事と言いつつ小遣い程度の利益しか出ていない事について口出しするつもりも全くない。
「それより、今年の夏休みだけどさ…」
僕が旅行の計画について話そうとするのを遮り、妻は言った。
「私、あの子を引き取りたいと思うの。勿論、あなたが賛成してくれれば、の話だけど。」
妻の発した言葉を僕は脳内で反芻してみたが、その意味を理解するまでに数分を要したような気がする。
確かに僕等の方があの子の両親よりに比べれば、まともな子育ては出来るとは思うが、これだけは実際に経験していないから断言は出来ない。
それに、子どもが欲しいなら僕等の年齢的にまだまだ不妊治療を受ける甲斐はあるはずだ。百歩譲って他所の子を受け入れるにしても、わざわざそんな訳アリな子にしなくても、「虐待で命を落とす子どもを二度と生み出さない」という政策の下、内密出産や育児に向かない親の元から保護された子ども達が乳児院や児童養護施設には相当数いるはずだ。
「…どうして、その子を引き取りたいの?」
僕が尋ねると、妻はこう答えた。
「それがさぁ、実は私、たまたま落とし物をすぐそこの交番に届けに行ったら、
保護されたばかりのあの男の子が居たの。それで…目と目が合っちゃった、ていうか?あの子のことがどうしても忘れられないんだよねー。あ、勿論犬猫じゃないんだから仮にあの子を引き取ったとして、ちゃんと育てるための時間や人手が確保できるか、とか仮に私が仕事をセーブすることになったら、このマンションのローン返済や、老後資金の貯蓄にどの位影響するか…とかもちゃんとシミュレーションした上で言ってるからね。よかったらPCでプレゼン資料作ったの、見る?」
…うちの妻はいつもこうだ。何を決めるのにも特に深い理由はない。だが、一度やると決めたら頭は良いから試算や下準備には抜かりがなく、絶対と言っていいほど成功する。趣味で始めた店だって、彼女の能力の高さは勿論、口コミやSNSの力も利用して今ではそこそこ名が知れている。
あの言いようだと、理詰めのプレゼンテーションで僕を論破できるだけのデータはもう揃っているのだろう。下手したら、もう役所に手続きに行ったんじゃないか…?
だが、今回の相手は人様(虐待する親をこんな風に呼ぶのは不本意だが)の子どもだ。妻のシミュレーション通りに事が進むとは限らないし、一人の人間の人生が懸かっているのだから、僕だってそんな簡単には同意しかねる。
「あの子を放っておけない、という君の気持ちは分かったよ。でも、僕達がいい親になれる保障はないし…だって、実際に子育てしたことないんだから。」
最後の一言が、何故だか自分自身に突き刺さった。無意識のうちに、僕は子どもがいないことに負の感情を抱いていたのだろうか。
ところが、妻はあっけらかんとした様子で答えた。
「え?誰も私達だけで育てるなんて一言も言ってないじゃない。そりゃ、私達なんか子育てゼロ年生なんだから、ちゃんとプロの力を借りなきゃ。」
「ベビーシッターでも雇うの?」
「ううん、勿論シッターさんは最初に調べたんだけどね、毎日となるとシッターさんを確保するのが厳しくて…でも、住み込みで来てくれる良いサービスがあったのよ!ほら、このマンションでもたまに猫が二足歩行で買い物袋提げてたりベビーカー押してるの見かけるでしょう?あれ、『お手伝い猫』って言うんだけどあれなら住み込みでも来てくれるんだって!私もあなたも急に出張や残業が決まることがあるじゃない?住み込みだとその辺の心配も要らないし。何なら、あの猫さん達はちゃんと専門のトレーニングを受けて試験にも合格してんだし、私達よりも育児スキルは高そうよ。部屋もまだ1つ空いてるし、そこに住んでもらったら丁度いいわ。」
「…」
一瞬、妻は頭がおかしくなったのかと思った。僕だってメディア等で日本の労働人口減少を食い止める切り札として「お手伝いペット」なるものが誕生した事位はとうに知っている。…だけどさ、僕は正直ああいうサービスを利用している人を見て「犬猫なんかに子育てしてもらうってどうなの?我が子を動物に預ける…ってどういう神経してるの?」とあまり良い印象を抱かなかった。
「うん、僕もそういう猫は見た事あるよ。でも、やっぱり動物にお願いするっていうのは…」
僕がここまで口にした瞬間、妻の目付きが変わった。
「あなたって意外と古臭い考えだったのね。政府や大手企業だって全面的に普及を後押ししてるし、動物と関わることは子どもの情緒や脳の発達にもメリットが大きい…って実証されているのに。それでもああいうのが嫌なの?」
僕はヤバいと焦った。このままでは大好きな妻に嫌われてしまう!そんな事になったら、僕はもう生きてゆけない…
「いやいや、動物に安心して家事や育児の手伝いをお願い出来るなんて、良い世の中になったよね!って言いたかったんだよ。」
「やっぱりあなたもそう思う?」
妻の機嫌はすぐに直った。頭が良い割に、この辺は単純なのが救いだ。
「じゃあ早速、明日お手伝い猫の会社に問い合わせてみるわ。もちろん役場にも行ってくるわね。そうそう、次の休みにあの男の子が保護されている施設にあなたも一緒に行ってみない?まぁ、職員さんと一緒に柱の陰からそっと覗くだけなんだけどね…もし、ご破算になった時に子どもを無駄に傷つけてしまうから、審査や受け入れた態勢が十分整うまでは面会的なものは出来ないんだって。」
「わかった。予定空けとくからまた時間とか教えてね。」
「もちのろんよ。やっぱりあなたみたいに思考が柔軟な人と結婚して正解だったわ!」
僕は、味もよく分からないまま夕食を食べ終えた。今日の妻との会話は、仕事のトラブルで徹夜した時の3倍は疲れるものだった。
まあ、なるようになるだろう-僕は頭の中でいろいろ考えている内に眠りについた。
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