第5話 目と目が合った
「あ、キーケースか何か落ちてるわ…」
仕事から帰宅するバスを降りると、歩道に落とし物があった。
「勝手に中身を確認するのも気が引けるし、交番に届けておくか。」
どうせ夫もまだ帰宅していないだろうから、私の帰りが少々遅くなったところで何の支障もない。
結婚してもうじき7年。子供はいないが、夫との仲はそれなりに良好だと思う。自然と授かるものならそれはそれで幸せだろうが、医療の力を借りてまで子供を欲しいとも思わず、気付けば結構な年月が流れていた。敢えて尋ねたことは無いが、恐らく夫も似たような考えだろう。
いわゆるDINKS(まだ死語じゃないよね?)だが、幸いにも夫の「妻の食い扶持ぐらい稼ぐのが男の甲斐性」というやや古風な考えのおかげで、私は生計を立てることを優先せずに、特技のハンドメイドを活かした小さな手芸店を営むことも出来ている。
幸いにも口コミやSNSのお陰で、自分を小綺麗に保つために必要な小遣い程は稼げており、歳の割には見た目も悪くないと(あくまでも自己評価だが)自負している。
「すみません。」
交番の引き戸を開けると、えらく愛想の良い若い警察官が奥から駆け出してきた。
「あ、児童相談所の方ですか?思ったより早く来て下さったんですね!助かります。」
…児童相談所?まあ、虐待とか警察にも色々相談が来るのだろうか。
「…いえ、私は落とし物を届けに来ただけですが。」
と伝えようとしたのを遮るかのような大声で、
「こんにちは!どうかされましたか?」
とベテランとみられる別の警察官まで奥の部屋から顔を出した。こちらも感じの良さそうな警察官だが、笑顔が引きつっているように見えた。
恐らく、さっきの若い警察官の「児童相談所の…」という話は、聞かれては不味いものだったようだ。
まあ、私もわざわざ詮索する程暇ではない。何も聞こえなかったかのように、自分の用件のみ伝えた。
「すずしろ団地中央のバス停を降りた所に、落とし物がありましたので…」
「あ、ありがとうございます。お手数ですが拾得された際の状況などお聞かせ願えますか?」
若い警察官はよほど上司が怖いのか、まだ焦っている様子だが、淡々と事務処理は進んだ。
「それでは、宜しくお願いします。」
交番を去ろうとした時、この場所には似つかわない
「だれー?」
という子どもの声が聞こえた。思わず振り向くと、2歳かもう少し小さいのだろうか、口の周りにご飯粒を付けた男の子が立っていた。
「こらこら、向こうでテレビ見ような…あはは、すみませんねぇ。」
ベテラン警察官が苦笑いで再び出てきた。恐らく、児童相談所を呼んだのはこの子が原因だろう。
「おばちゃん、ご用事が終わったから帰るね。バイバイ。」
いつから自分の事を抵抗なく「おばちゃん」と言えるようになったのだろう。悲しい気もするが、私を表す一人称にふさわしいのは明らかに「お姉さん」よりも「おばちゃん」だ。
男の子は、じっと私を見つめる。勿論初対面だが、私も何となく彼から目を離せなかった。
何かしら理由ありの子なんだろう。(居るのかは知らないが)母親を思い出して泣かれても厄介だし、関わらないのが賢明だ−私の思考は冷静だったが、なぜか彼に惹かれるものがあり、目線を逸らせなかった。
その時、引き戸が開く音がした。
「お待たせしました。ご連絡頂いたお子さんは…」
スーツ姿の男性だ。名札をチラッと見た所、児童相談所の職員らしい。
私は会釈をして無言で交番を出た。後ろを振り向くと、もうあの子の姿は見えなかった。
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