命の恩人は奇妙な少年
追われていてもパニックにならないのは、熱を持つ頬の痛みが強すぎるから。
雲の切れ目から明るい満月が出て、目の前が行き止まりだと分かってしまった。
慎がここに辿り着く。私は殴られた頬の痛みをこらえるため歯を食いしばった。血の味。慎がゆっくりと私に近づく。
「慎、私をどうするの」
「何もしないよ」
嘘だ。慎はにたりと笑った。
「真紀ちゃんがまた俺と付き合ってくれるなら」
「それはできない」
間髪を入れずに返した私を慎は不思議そうに見た。
「この状況を分かってないのか」
慎がうすら笑いすら浮かべた。
「お前みたいなクズと一緒にいたら、いずれ私もまともじゃなくなる!」
声が震えていなければ、格好良かったのに。でも、これでも頑張ったのだ。人をお前呼ばわりするのも、クズと罵るのも、生まれて初めてだった。
「そうか。だったら死ね!」
慎は懐からナイフを出した。
満月が再び隠れ、何も見えなくなった。私はこのまま暗闇の中で死んでいくのか。
慎の気配がすぐそこに。殴る音がした。
それなのに私に一切の痛みが無い。
「何すんだ、てめぇ!」
慎? どうした? さらに、どさっと人が倒れた音。
急に眩しい。スマホのライト?
「こいつ、そのうち起きるよ。逃げよう」
強い逆光で顔が全く見えないが、大人の声ではない。スマホの持ち主が私に手を伸ばす。
その人に手を取られて街灯が多い大通りまで出てきた。
「警察に電話できる?」
鞄ごと慎の家に置いてきたことに気が付いた。
「携帯、あいつの、家に」
恐怖のあまりたどたどしく喋った私に、彼は淡々と告げた。
「じゃあ警察署に行こう。ここから歩いて行ける」
彼は再び私の手を引いて歩き出した。
「慎は、いつ目覚める?」
私の声はどうしても震えてしまう。
「多分まだ大丈夫。それに」
彼が振り向いた。街灯の光に照らされた顔はまだ幼い。身長は私より少し大きく、百六十センチほどに見える。慎は確か百七十くらいだったはずだ。
「あいつくらいなら、また逃げられる。俺がいれば」
少年の顔に怯えの色が一切ない。はったりではなさそうだ。どうしてこの少年は慎から私を助けることができた?
警察署で被害届を受理してもらった。慎に警告をしてくれるそうだが、十分に気を付けて欲しいとのこと。
「ねえ、あなたお名前は?」
多少は落ち着くと、恩人の名をまだ聞いていなかったことに気が付いた。
「田島勇也」
「勇也君、ありがとう」
ようやく伝えることができた。
「いいよ、別に」
そう言った勇也は大欠伸をした。
「明日も学校でしょ。もう帰らないとね」
「明日は土曜日」
「でも、親御さんは心配してないの?」
勇也の体が一瞬固まったように見えた。
「親は、大丈夫」
気になる。
「駄目だよ、ちゃんと連絡しないと。私から連絡すれば、親も『遅くまで』って怒らないんじゃない?」
私は警察官に頼み、電話を借りた。
電話に出たのは父親だった。見知らぬ女からの電話を不審がる彼に、勇也の名前を出した。
「あいつが何かご迷惑でもかけましたか」
苦々しい声色だった。
「いえ、助けてもらって」
「何をお望みですか。金銭の支払いくらいしかできませんが」
なんだ? この父親は。
「あの! 私!」
私は大きな声で父親の言葉を遮った。
「勇也くんに助けてもらったので、お礼を言いたくて」
「それだけですか」
それだけって。
「勇也に伝えてください。私に迷惑をかけるなと。でも、それさえしなければ、何をしてもいいから自由にしていろ、と」
私は適当に挨拶をして切り上げた。
「俺の父親は」
受話器を置いた私の背中に勇也が声をかける。
「俺のこと好きじゃない。義理の父親だから」
「ごめんね」
「いいよ」
勇也は淡々としている。
「その代わり、自由だから」
夜道を歩くのは正直物凄く怖いが、それでも家に帰らなければならない。意を決して速足で歩きだした。
「勇也君、なんで付いてくるの」
何食わぬ顔で同行してくる勇也が不思議だった。勇也は少し顔を上げて私を見た。
「だって、家に帰る間に殺されるかも」
勇也があまりにさらりと『殺される』という言葉を放ったから、背筋が冷えた。
「大丈夫だよ! 警察にも話したし」
私はわざと明るい声を出したのだ。しかしその声を聞いた勇也は眉を寄せ、きつい眼差しを向けてきた。
「あいつはまた来るよ」
「なんで、そんなことが、分かるの」
たどたどしい口調になってしまった私を気にする素振りも見せず、勇也は低い声で続ける。
「似てる。……前に俺が見た殺人犯に」
思わず私は足を止めてしまった。勇也も一緒に立ち止まった。
「でも大丈夫」
勇也は私に向き合った。
「名前はなんて言うの」
「……中田真紀」
なぜ、名前を聞いてくるのか謎だったが、私に答えさせてしまう強い瞳だった。
「中田さんのことは俺が守る」
驚いて声も出ない。
「もう大丈夫だよ、ほら、ここが家だから」
中田さんのことは俺が守る。その言葉に気圧されて、何を言ったらいいのか分からなかった。勇也も黙っていたので、私たちは無言で歩き続けた。何の考えもまとまらないまま、三十分も経ち、家に着いてしまった。
「お邪魔します」
「なんで! ちょっと待ってよ。私はこれでも大人の女の人で、君は男の子なんだから、あまり家に入るのは、ちょっと」
「俺は大人の男じゃないからセーフ。鍵開けて」
勇也は顔色一つ変えない。私は困ったが、鍵を開けなければ私自身も家に入れない。そこまで考えた私はその場に崩れ落ちた。
「どうしたの?」
これにはさすがに勇也も眉を上げた。私は震える声をようやく絞り出した。
「鍵も、慎の家だ……」
勇也も顔色を変えた。
「全部置いて来たの? どうして」
両手で私の肩を掴み、至近距離から覗き込んでくる。
昨晩は鍵や携帯などが入った小さな鞄だけを持って慎の家へ行った。慎と口論になり、慎が手をあげたので逃げ回るうちにあの場所へ辿り着き、殴られているところへ勇也がやって来た。
慎との口論の理由は、無理やり性交を迫られたから、だが、中学生相手だからそこは省いた。我ながら、混乱しながらも配慮ができたことはよくやったと思う。
「最低な奴だな。やろうとして断られたら殴るなんて」
……分かってしまったようだ。中学生でもそれくらい分かるのか……。
「とりあえず鍵屋さんと大家さんに頼んで鍵を替えてもらおう」
勇也は冷静だった。
家に入れるようになって喜んだのも束の間だった。何事も無いように勇也が上がり込んできた。
「シャワー借りるね」
「え?」
驚いて振り返るとすでにシャワーの音が聞こえてきた。
「噓でしょ……」
私は肩を落とした。
こいつはただのアホなのだろうか。しかし、体を張って助けてもらったのだ。馬鹿にはできない。
「何か食べたいものある? 作ってあげるよ」
「魚肉ソーセージ」
「作れないな」
「いいよ」
さすがに諦めたみたいだ。
勇也はクッションを枕にして横になった。
「え、泊まるの」
返事は無かった。そっと様子を見ると、この一瞬で寝たらしい。勇也が起きなければまあ安心だと判断した私もベッドで眠ることにした。
「おはようございます」
勇也は私を激しく揺さぶって起こした後、一枚の紙を差し出した。
『警察にチクったら殺す』
「玄関の郵便受けに入ってた。中田さん、殺されるよ」
確かに慎の字だった。
「家も知られてるんだ?」
確かに、慎は私の家に何度か遊びに来たことがある。私は頷いた。彼は首を傾げて少し考え事をして、人が多いところに行こうと提案をした。
ファミリーレストランに入った。勇也はハンバーグを食べたがっていたが、お金を持っていないらしく、私もおいしいものを食べる気分でもなかったので、百円のフライドポテトを二人でちびちびと食べていた。
勇也はあまりポテトに手を付けず、水ばかり飲んでいる。ポテトがあまり好きではないのだろうか。
「中田さん、もっと食べなよ」
勇也は私の方へ皿を向けた。
「ありがとう」
私のことを気遣ってくれていたのか。この子は少し変わっているが、優しい子なのかもしれない。
「最後の晩餐かもしれないから」
ポテトがまずくなるようなことは言わないで欲しかった。ポテトを噛んでいると、勇也が真面目な顔を向けた。
「中田さん、俺と一緒に逃げよう」
口に含んでいたのがポテトで良かった。水だったら吹き出していたかもしれない。勇也は大まじめだ。
「俺のガチの秘密基地に来て」
「ガチって何!」
ついに爆発した。
「なんなの? 秘密基地ってなんだよ! ガチって何? きみ、怖いよ!」
「あいつの家には行ったくせに」
勇也は痛いところを的確に突いてきた。
「だって、一応、恋人……だったんだから」
私の声がみるみる小さくなっていった。
「趣味悪い」
勇也が私を軽く睨んだ。この子、子供の癖に睨むと怖い。
「ひ、秘密基地だって趣味悪いし」
私も負けじと勇也を見つめ返した。すると、勇也は少しむっとした。
「子供の遊びの秘密基地じゃなくて、ホームレスのおじちゃん達と一緒に作ったガチの秘密基地だ」
「ホームレス?」
「ホームレスだからって見下しちゃ駄目。人には事情がある」
「いや、大事なところはそこじゃないよ!」
「……中田さん」
私の言葉など気にもせず、勇也は神妙な面持ちだ。
「あいつに知られている家と、どっちがいい?」
もうどうにでもなれと腹を括った。
その『家』は河原にあった。ホームレスの『住宅街』の中で小さいながらも堂々と佇んでいた。
「待ってて、今片付けるから」
この家自体がゴミにしか見えないのだが。
いいよ、と促され中へ入る。座れば大人二人分くらい入ることが出来るのだから驚きだ。
「なーに? エロ本でも隠したのかな?」
面白半分に意地悪を言ってみた。
「俺、エロ本は置かない主義だから」
勇也は誇らしげに言った。……そんなどや顔されてもねぇ。
勇也が釣って来た魚を焼いて晩ご飯にした。お腹を壊さないかと聞くと、抵抗力という単語が帰ってきて、こいつには何を言っても無駄だと悟った。
「おやすみなさい」
勇也はそう言ってごろりと横になったので、私はため息を吐いた。
「……一緒に寝るんだね」
勇也は顔をあげた。
「本当は俺が外で寝てあげたいけど、夜は寒いから。風邪でもひいて闘えなくなったらあいつに負ける。そしたら二人とも」
「わかった。おやすみ」
今、『闘う』と言ったが、勇也はどう闘うのだろう。そういえば、昨日助けてもらった時も勇也は慎と闘ったのだろうか。
目が覚めると、段ボールと河の匂いがした。もうこの際、貴重な経験をしたということにしておこう。
勇也はいない。
段ボールから一歩外へ出ると、勇也が何かをして動いていた。邪魔にならないように遠くから観察すると、宙を蹴っているようだった。もし、普通に蹴っているだけだったら、やっぱりこいつは変な奴だと改めて思う。しかし、彼の動きは『変な奴』を超えていた。
片足を上げ、地に着けることなく十回程連続で蹴っているのだが、息も姿勢も乱れない。衣擦れの音だけが響く。続いて、殴る練習をしているみたいだったが、それも凄まじい速さだった。
「あ、起きた。腹は大丈夫?」
「君、凄いね。そんなに速く蹴れるんだ」
これなら年上である慎を何とかできたことも不思議ではない。突然褒められた勇也は目を逸らした。
「大したこと、ない」
「これで慎を退けたんだね」
「あいつが弱かったからできたんだよ」
「だけどさ、あいつのほうが体が大きいよ。力で負けない?」
「大丈夫」
勇也が私に右腕を差し出した。
「手首を掴んで引っ張ってみて」
グーに握られた勇也の手首を掴む。
すると握られていた勇也の手がパーに開かれた。とたんに手首を掴みにくくなる。さらに、勇也が私に一歩距離を詰めてきて、掴まれた右手首を彼の胸の真ん中に置いた。というより、右手首を支点にして体のほうを前進させた感じだった。そして勇也は半身になる。
勇也が肩を前に入れながら肘を上げると、するりと簡単に、私の手から勇也の手首が外れた。
「力は関係ない」
確かに勇也は力を一切入れていなかった。
「これはなに?」
「少林寺拳法」
もっと聞きたいことがたくさんあったのに。
「朝ご飯捕って来る」
勇也はさっと駆けていってしまった。
勇也が血に濡れた手で魚を三匹持ってやって来た。もちろん、魚の血だ。
てっきり勇也が二匹食べるのかと思っていたが、律儀に半分こにしてくれた。丁寧に『いただきます』をいう勇也を見て、昨日も『いいただきます』ときちんと言っていたことを思い出した。
「いいのかな。こんなに呑気にしてて」
汚れた手を洗う勇也を眺めながら私は一抹の不安を感じた。
「あいつはここにいることを知らない。そういえば、あいつの名前は?」
「伊藤慎」
「へえ」
イトウシン、とまるで自分の敵の名前を吐き捨てるかのように、勇也は繰り返した。本当に、勇也は何故ここまでしてくれるのだろうか。
すると、一人の五十代くらいのおじさんがこちらへやって来た。
「おい、勇也くん、中田さん。もうすぐ雨が降るらしいから、どこか雨宿りできるところへ行ったほうがいいぞ」
親切に教えてくれた。多少ごまかされているが、勇也から簡単に事情を聞いたホームレスの中の一人である山本さんだそうだ。
「これ、少ないけど」
その上山本さんが私たちに一万円札を渡した。慌てて断ろうとしたのだが、
「窮地に追い込まれている人を放って置くわけにはいかないよ」
にこにこと微笑む山本さんの好意を無下には出来なかった。
「山本さん、いい人だね。いいのかな、生活苦しそうなのに」
「山本さんは金持ちだよ」
「は?」
「趣味の魚釣りを時間ぎりぎりまでやるために、土日だけあそこで寝てる」
勇也はあの環境にいたせいで、こんな変わった子になったのだろうか。
日用品と服を一遍に買うため、私たちは大型のショッピングモールにやって来た。日曜日の昼過ぎ。人が多い。
「あ、真紀!」
安い店を探して歩いていると、大学で同じ学部の由香に会った。
「由香! 久しぶり」
「久しぶり? 一昨日大学で会ったじゃん!」
長い時間が経ったように錯覚していた。殴られたのが金曜の夜、家を出たのが土曜、そして今が日曜の午前。私に起こったことを知っているのは私自身と勇也、そして慎だけだ。
「あ、そうだ真紀。伊藤君と喧嘩でもしたの?」
「え?」
慎の名を聞いて凍り付いた。慎も私と由香と同じ学部のため、彼女も慎と面識がある。
「な、何もないよ! それじゃ!」
私は慌てて逃げ出した。慎とのことを知られたくない。心配もかけたくなかった。
たくさんの買い物を終えると時刻はもう夕方で、人もまばらになって来た。僅かに余ったお金を私は勇也に渡した。勇也は嬉しそうにゲームセンターのエリアに行きたいと言った。
「これいいなぁ」
私はクレーンゲームの猫のぬいぐるみを見つけた。
「取れば?」
「これ苦手でさ」
「じゃあ取ってあげる」
勇也はクレーンゲームにお金を入れた。
勇也がクレーンゲームに夢中になっているのを横で見ていたが、子供が泣きじゃくる声に気が付いた。
隣のキャンディゲームのすぐ近くで五歳くらいの男の子が悲しそうに泣いていた。
「どうしたの?」
声をかけたが、ゲームセンターは騒がしいので大声で泣いている男の子に声が届かない。
「ちょっとこっちに来てくれる?」
私は、男の子と話せるようにするため、その子の手を引きゲームセンターから離れた。
「どうしたの?」
辺りが少し静かになったところで、私はしゃがんで男の子に問いかけた。
「おとうさん、いなくなっちゃった」
迷子センターへ連れて行った方が良さそうだ。勇也に声をかけなければ。
「ちょっと待ってて。今、友達に声を掛けてくる」
踵を返そうとしたが、男の子が私の服の裾を強く掴んで放そうとしない。
「おねえちゃん、いかないで」
困ったな。勇也とはぐれるわけにはいかないのに。だけど、近くにあった案内表示によると、迷子センターはここから屋内駐車場を通り抜ければ五分もかからない。その上、慎は私がここに居ることを知らない。
「仕方ないな」
私は男の子の手を引いた。
おねえちゃん、ありがとう。どうもありがとうございました。男の子と迎えに来た父親に礼を言われ、ほっこりとした気分で屋内駐車場を駆ける。男の子と一緒に父親を待っていたせいで、十分程経っている。早く勇也の元へ戻らないと。
一台の黒い軽自動車が目の前で急に止まった。足がすくんでしまう。
「真紀ちゃん」
にっこりと笑った慎はナイフを隠そうともしない。
「偶然だね」
慎の足音がこつこつと駐車場に反響する。その音に負けないくらい私の心音はうるさかった。駐車場のどこかから悲鳴が聞こえる。慎がナイフを向けて距離を詰めてくる瞬間、私は勇也を思い出した。やり方も知らないが、慎の腹を目がけて、脚を思い切り前に出した。当たった。
が、その程度だ。何の打撃にもならない。腕より脚の方が長いだけだ。慎の顔から笑みが完全に消えた。
火に油を注いだだけだろう。だけどどうせ殺されるなら抵抗くらいしたほうが、あの世で気分がいいはずだ。私は慎から目を離さないようにした。慎がナイフを振り回した。避けられずに、私の肩に血の直線が出来た。痛いだけでなく、熱を感じた。意識が肩に持っていかれた私の動きは鈍くなり、後ろへ後ろへ逃げるうちに壁に追い詰められた。慎が私に手を伸ばす。首を掴まれた。慎の肩越しに、走っている誰かと目が合った。誰かは慌てて走り去った。
「なあ、なんでお前はいつも俺に逆らってきた。今までそんな女はいなかった!」
「私が……逆らってきた?」
「来いと言ってもすぐ来ない。誘いにも乗らない。携帯も見せてくれなかった!」
私は言い返したかったが、まず何から言い返していいか分からず、すぐに言葉を出すことが出来なかった。
「そんなに俺のことが嫌いか。俺はこんなに真紀ちゃんのことが好きなのに」
慎が私と唇を合わせた。気持ち悪い。胃の中の物を吐く方がましだ。
「じゃあね」
慎がナイフを振りかぶる。
「待て!」
駐車場に声が反響した。勇也だ!
「またお前か! お前は真紀ちゃんの何なんだ!」
「俺は、中田さんを守る」
勇也は息を大きく吸い込み、こちらへ全力で慎が勇也を警戒してナイフを構えなおす。
慎がナイフを振り下ろしたが、勇也は後ろに下がらず、横に一歩だけずれて躱した。そして慎がナイフを振り上げようとする隙をつき、空いたわき腹を勇也の脚が蹴り込んだ。
慎がわき腹を押え、一歩勇也から距離を取る。勇也は決して慎の真正面に入らないようにしながら近づいていく。
大きくナイフを振り回しては隙を突かれると、慎も思ったのだろう。小さな動きで勇也を待ち伏せるようになる。それでも勇也はひるまない。今度は勇也から向かっていく。
勇也が慎の真正面から走っていく。まっすぐ首を狙ってくる慎のナイフをしゃがんで避けたかと思うと、右足で地を蹴ってジャンプした。左足で慎の胴を蹴り、さらに右足を上げて慎の顎を下から蹴る。まるで二段飛んだみたいだった。
慎が倒れる。
「中田さん、大丈夫?」
勇也がこっちに走ってくる。
慎が起き上がる。
「勇也くん! 後ろ!」
倒れたフリだったのか、このクソ野郎!
私の言葉にすぐに察した勇也だったが、慎が速かった。後ろから勇也の背を目掛けて振り上げたナイフ。血が滴っている。
勇也が慎に振り向くと、慎が勇也の右手首をがっちりと掴んだ。
あれを外せるか。私にやったときのように!
勇也が私にやったときのように、手を開き、慎から距離をとるどころか半歩近づく。
「頑張れ!」
どうか逃げて。私のために犠牲にならないで!
驚く慎の手から勇也の右手が。
外れない。
まさか、背の痛みで思うように動けないのか!
こうなったら、私が助けに行くしかない。どうせ一度は死んだようなものだ!
だけど、慎が宙に浮いた。
途中まで、私にやっていたのと同じ動きだったのに、途中から変わった。掴まれていた右手首を外さないまま、左手を添えて、そこを支点にしてぐるりと慎を投げ飛ばしてしまったのだ。
分かったことは、慎は勇也を掴んでいた手首に大きな痛みを感じているらしいということ。全身を地に打ち付けられてしばらく動けないということ。
「勇也くん!」
勇也は顔色が悪いのに、私のもとに走ってきた。
私は勇也を抱きしめた。服が血で汚れたが、どうでもいい。
「無事?」
「当たり前だよ。勇也くんが守ってくれたから」
慎は身柄を拘束され、私は手当てと事情聴取を受けた。
「田島勇也くんか」
事情聴取のあと、警察官がよく知っているように頷いた。
「勇也くんをご存じなんですか」
「かつてこの町にあった道場の息子さんだよ。まるで父親のようなことを」
「え?」
警察官はしまったというような顔をしたが、すぐに、まあいいかという顔をした。
「ほら、数年前に大きなニュースになっただろ?」
たった今、思い出した。
ストーカーから逃れようとした女性を庇って亡くなった、武道の高段者。
勇也は奇妙な子ではなかった。死んだ本当の父の真似をしていただけだったんだ。
背中の怪我を病院で診てもらった勇也は、さっきの警察官にもう二度とやるなと散々怒られたみたいだ。
「あれも少林寺拳法なんだね」
「少林寺拳法は護身の拳なんだよ。強烈な痛みを与えて戦意を失わせるんだ。あれは真紀さんにもすぐできるようになる」
本当かなあ。
「いつか俺が道場を再開させる。色んな人に教えるよ」
「じゃあそのときは私にも教えて欲しいな」
「いいよ」
先の長い約束をした。
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