四角い空

 私の居場所は三階の窓際。窓の下に広がるのは中庭。蝶が花壇の花を飛び交う。鳥がよく手入れされている木々を飛び交う。


 噂だけど、中庭が見える病室にいる子供には先が無いって。噂だけど。


「麻衣子ちゃん、お母さんだよ」


お母さんはいつもとびきりの笑顔をくれる。手を引かれてくる小さな弟はおもちゃを持っている。

 お母さんが先生と話している間、弟と二人になる。特に話さずに、弟は窓の外を見ている。持ってきたおもちゃはベッドの上にぶん投げたまま。

 壊れかけてるおもちゃだな。


「お姉ちゃん、あれ」


弟が窓の外を指差すけど、あまり中庭を見たくない。見たら終わりが近づきそう。だって、終わりが近い子に寄り添う中庭だよ。深入りしたら帰って来れないよ。


「中庭に何かあるの?」

「人がいる」

「庭仕事の人じゃないの?」

「違うよ。お姉ちゃんみたいに入院してる人」


がしゃん、とおもちゃがベッドから落ちて壊れた。落としたのは私。こんな乱暴な私なんて初めてだ。

 弟が泣き出した。

 だって、お姉ちゃんみたいに入院してる人って言うから。私の存在そのものが『入院してる人』って言われた気がしたから。


 弟を宥めるお母さんは決して私を責めない。弟が私を指さしても。

 なんだか、それが答えな気がしている。中庭に面してる私。


 空は切り取られた四角。四方をコンクリートの病院で囲まれている。蝶が美しく羽ばたき、鳥が歌う、綺麗な造られた庭園。


『私みたいに』入院している人は中庭で何をしているのだろう。弟が帰って病室からいなくなってから、窓を開けて見下ろす。


 広い中庭の中で、壁の近くに立っている。変なの。壁に向けて何かをしている。やっぱり変なの。壁に向けて何かを投げている?

 深入りしちゃいけないよと、思うけど。気になり過ぎて。

 階段を一段一段足を踏み外さないように気を付ける。そして、やっと一階に辿り着いた。

 中庭への扉をそっと押して、中庭の噂に気づかれないように忍び込む。


 私と同じ年くらいの人だった。男の子。

 手につけてるものは、テレビで見たことのあるグラブ。茶色だ。もう片方の手に持っているのは白いボール。

 野球?

 どうしてこんなところで。

 彼がボールを壁に優しく投げる。優しく跳ね返るボールをグラブで取る。

 その繰り返しは蝶の羽ばたきみたいに一定のリズムで、長く続いた。

 チチチ……と鳥の鳴く声の中にボールが壁に当たるトントンという音が混ざる。

 四角い空の下に生き物がいる。

 私はそっと観察したかった。


「一緒にやろう!」


観察しているだけで、よかったんだけどな。


「いいよ、やらないよ」

「えー?」


四角い中庭に響き渡るんじゃないかというほど、彼の不満の声は大きい。


「なんでー? やろうよー!」


押しと圧が強い。この静かな中庭とは全然違う人みたい。


「分かった」


押されてしまって、やりたくないという気持ちがどこかに行って、頷いた。


 キャッチボール。

 ボールが弧を描くたびに蝶がひらひらと向こうへいく。なんだか、静かな世界の中を掻き分けているみたい。

 彼のボールを受け損ねてぽとりと落ちる。

 慌てて拾ったら、不思議な気がした。

 彼が投げるとあんなに元気なボールが、落ちていると死んでいるみたい。


「早くー!」


彼が急かす。せっかちだなあ。

 へたくそな私が投げても、ボールはそれなりに生きた。


「また明日な!」

「明日もやるの?」

「どうせ俺たち明日もここにいるだろう!」


この人、明日もここにいることを全く気にしていない。なんて強いんだろう。


「分かった」


明日も明後日もいる。断る理由はないように思えた。


 四角い空の下、白球が行ったり来たり。



 それから十年。


 広々とした青空の下、白球がマウンドからバッターボックスへ、そして外野へ。外野から内野へ。


「サンキュー麻衣子!」

「このくらい平気だよ!」


野球部員たちが私が入れたドリンクをごくごく飲み干した。


 開けた空の下にいる。


 四角い空の下でキャッチボールした彼は、今はどこの空の下にいるかな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る