桜の木

増田朋美

桜の木

その日も寒い日だった。花冷えというのにふさわしい、寒い日だった。そんなわけで、なかなか外へ出る人はなく、みんな家の中でのんびりとしている人が多かったけど、それでも中には変わったものがいても仕方ないという話もある。まあ、要するに一言で言えば、どんなに寒いから外出をしないようにと言っても、どうしても出てしまう人が居るということである。

「ほら、もう一度食べてくれ。頼むから。頼むから食べてくれよ。食べないと体力なくなって、非常に困るんだよ!」

と、杉ちゃんが一生懸命水穂さんにご飯を食べさせようとしているのであるが、水穂さんはどうしても、ご飯を食べようとしてくれないのであった。ご飯を口にしてくれたとしても、水穂さんは、咳き込んで吐き出してしまうのだった。吐き出したときは、それと一緒に、赤くて生臭い液体が同時に出てしまうのである。それで着ている着物を汚したり、畳を汚したりしてしまう。水穂さんにご飯を食べさせるのは、その悪循環であった。医者はちゃんとご飯を食べさせるようにと指示を出すのかもしれないが、偉い人というのは、指示だけ出しておくだけで、実際に食べさせる行為はしないので指示ができるのである。そうでなければ、ご飯を沢山食べさせて体力をつけてくれなんて指示は出さないはずである。

今回も、水穂さんは、ご飯を口にしても、咳き込んで吐き出してしまった。

「もうこうなると、なんの問題かよくわからなくなってくるな。アレルギーと言うか、病気の症状なのか、それとも、ご飯を飲み込めないところがあるのかな。」

と、杉ちゃんは、腕組みをして言った。本人に話を聞くと、食べる気がしないとしか言わないので、杉ちゃんもほとほと困り果ててしまうのだった。

「拒食症にしては、ダイエットをしようという意思が見られないし、どういうふうに、解決させればいいか、わからなくなっちまうねえ。」

と、杉ちゃんは、大きなため息をついて、お匙をサイドテーブルの上においた。それと同時に玄関先から、こんにちはという声がした。一体誰だろうと思ったら、吉原駅の駅員の制服を着ている、今西由紀子であることは間違いなかった。由紀子は、水穂さんが咳き込んで居るのを目撃し、急いで水穂さんの側に駆け寄って、水穂さんの背中を擦って中身を吐き出しやすくしてあげて、水穂さん、大丈夫?苦しい?などと声掛けして上げるのだった。

「やれれ。由紀子さんが来てくれるのはありがたいんだけどねえ。水穂さんがもうちょっと、本人が食べようという気になってもらわないと、なんとかしようと思っても、どうにもならないよ。」

杉ちゃんがおいたお匙を、由紀子は、すぐに取った。そして、水穂さんの口元に向かって、無理やりお匙を押し込んだ。それでも、水穂さんは中身を飲み込んでくれなかった。今まで以上にひどく咳き込んでしまって、更にひどいことになってしまった。由紀子は、水穂さんの背中を擦ってやったが、なかなか止まらなかった。

「なんていうことをしてくれたな。今まで以上に偉いことになっちまったじゃないか。もちろん、食べさせたいという気持ちはわかるけどさあ。」

杉ちゃんがでかい声で言うと、こんにちはという女性の声がして、ガタンガタンガタンドスーンという音がした。誰が来たのかと思ったら、体重が女性でありながら3桁もある、榊原市子が水穂さんを訪ねてきたのだ。製鉄所の建物は、鶯張りになっているため、廊下を体重の重い人が通ると、ガタンガタンドスーンとけたたましい音がなるのである。

「ああ、水穂さん。すぐにおくすり飲みましょうか。」

市子は、枕元においてあった、水のみを取って、水穂さんに中身を飲ませた。水穂さんは、咳き込んで苦しそうだったけど、なんとか飲み込んでくれた。薬を飲んで数分後、咳き込むのはやっと止まってくれたのであるが、水穂さんは、布団に倒れるように眠ってしまった。薬には、眠気を催す成分があるのだろう。

「これでは、いつまで立ってもご飯が食べられないなあ。どうしたら、ご飯食べてくれるんだろうかな。」

杉ちゃんは、水穂さんの口元を濡れ布巾で拭きながら言った。ああ、それなら私がと言って、市子が杉ちゃんから拝借し、水穂さんの口元を、丁寧に拭いてくれた。市子は、こういうものに対して、あまり気にならないようで、匂いも色の派手さも気にせず、平気でなんとかしてしまうのである。

「本当だわ、ご飯を食べてないのが、誰が見てもわかるわよ。こんなにげっそりと痩せていたら、ご飯どころか、立って歩くことさえできないわよ。」

市子は、当たり前のように言った。

「そうだねえ。まあ、しょうがないなあ。頑張って食べてもらうように、こいつに呼びかけるしか無いだろうね。」

杉ちゃんがそう言うと、

「私なら、病院に連れて行くわ。それしか無いじゃない!医者に見てもらわないと、素人の私たちには、どうにもならないわよ!」

由紀子は、杉ちゃんに言った。

「ああ、まあそうだけど、同和問題ってのは、いつまでもつきまとってくる問題だと思うからねえ。病院に行ったって、ここでは見られないとか、患者さんで一杯だとか言われて、断られるのが落ち。いろんな病院たらい回しにしておきながら、そのうちにどうぞってことも十分ありえる。だから、大きな病院に連れて行くとか、偉い医者に見せるとか、そういう事は、絶対にさせておけない。それに、医者に見せることができたとしても、ここまで進行したやつは、日本では見たことないとか、明治時代からタイムスリップしたとか、そういうひどいこと平気で言われて帰らされるのが当たり前みたいなところがあるから、まあ無理だねえ。」

由紀子が言っても、杉ちゃんはでかい声でそういうのだった。

「そうかも知れないけど、なんとかしてくれる病院だってあるのではないでしょうか?こんなに、私達が困っていることを話せば。」

由紀子は、急いで言った。

「いやあ、まず無いでしょう。とにかくね、無理なものは無理で、それはもうしょうがないことだから、諦めろ。そういうことも必要なことでもあるんだよ。無理なものは無理だから。偉いやつなんて、自分のことばっかり考えて、患者のことなんか考えてくれるやつは何処にもいないよ。」

杉ちゃんはそういったのであるが、由紀子は納得できないという顔であった。

「さて、僕、こんな事してはいられないよなあ。早く、着物を縫ってしまわないと。一応僕も、着物を縫う職人として、プライドはあるからね。」

杉ちゃんは、車椅子を動かして、四畳半を出ていってしまった。あと残っているのは、水穂さんがスヤスヤ眠っている音である。

「なんだか、可哀想ね。水穂さん、病院にも行けないなんて。」

市子は、できるだけ優しくそういった。

「可哀想どころか、本当は、病院って人の命を救うところでもあるのだから、人種差別なんかしちゃいけないところなのに。どうして、水穂さんだけが、何も医療にありつけないんだろう。」

由紀子は、水穂さんをじっと見つめた。市子は、彼女がそういう顔つきで水穂さんを見ているのを見て、なにか大事なことを彼女は持っているような気がした。

「由紀子さん。」

市子は、その大きな体で、由紀子に言った。

「もし、可能であるのなら、手を組みましょう、由紀子さん。」

「手を組む?」

由紀子がオウム返しに答えると、

「ええそうよ、由紀子さん。一人では実現できないことであっても、二人でやれば実現できるかもしれないわ。」

市子は、いきなりそういうことをいい出した。

「二人でやれば実現できる?でも、杉ちゃんの言う通りなんだろうなって、思うこともあるわ。いくら、あたしたちが感情的になって訴えても、逆に医療機関を脅かしても、水穂さんを見てくれる人はだれもいないわよ。それは今までのことでもう知ってるわ。私だって、本当はわかってるの。水穂さん、もう助かる見込み無いって。」

由紀子がそう言うと、

「それ、本気で言っているわけでは無いのでしょう?」

と市子が言った。

「あたしにはちゃんと分かるわよ。本当は、お医者さんに見てもらって、楽になってもらいたいって、思っているのが、由紀子さんの気持ちだよね。それは由紀子さんがいくら隠したって見え見えよ。女だもの。そのくらい、私はできるわ。」

「でもどうしたらいいの。他に、もう方法は無いわよ。だって、総合病院にしても、個人のクリニックにしても、見てもらえる事はできなかったわよ。」

市子は、大きな体に小さな目で由紀子を、にこやかに見つめてそういった。

「それは、一人で見てもらいに行ったからよ。それなら、二人で行けばまた変わるかもしれない。その気になれば、私が、なんとかして見せる。一緒に連れていきましょう、由紀子さん。とにかくね、水穂さんは、これ以上容態を悪くしてはいけないのよ。それに、この施設内で、水穂さんのことを必要としている利用者さんもいっぱいいる。そのためにも、見てもらわなくちゃいけないのよ。だから、見てもらいに行きましょう。大丈夫、今度は由紀子さんだけじゃない。私も一緒だから。一人でだめでも、二人でならできることだってたくさんあるわ。」

市子は、眠っている水穂さんをその大きな背中に背負った。確かに体重が3桁ある市子の背中に乗ると、水穂さんはとても小さく見えるのであった。由紀子は、車を出そうかといったが、いえ、歩いて行けば大丈夫と市子は言った。どうやら、心当たりがある、病院があるのだろうか?市子は、製鉄所の玄関を出て、道路を歩き始めた。由紀子も彼女に着いていった。しばらく道路を歩いて、住宅地の中を歩いた。皆同和問題なんて悩むことなく、幸せに暮らして行ける人だろうと思われる高級住宅地だった。

「ここよ。」

市子は、ある小さな建物の前で止まった。普通の家を少し大きくしたような建物で、玄関に木の看板を吊り下げていた。そこには、内科、心療内科、秋庭医院と描いてある。由紀子も、なんとなく秋庭医院の事は聞いたことがあった。確か、評判が良い、心療内科で有名だったが、急に評判を落としてしまったとか、聞いたような。でも、由紀子が聞いたことのある秋庭医院は、もう少し立派な建物で、もっと近代的な建物だったような。このような普通の家と変わらないような建物ではなかったような気がする。

「ここは一体?」

由紀子が聞くと、

「ええ、あの有名な秋庭医院のお姉さん。ちなみに、妹もお医者さんで、今横割の秋庭医院の院長。その秋庭医院の身内だから、ちゃんと見てくれるはずよ。」

と、市子は全く動じないように言った。

「それでは、早く見てもらいましょう。水穂さんが冷えてしまうと行けない。」

市子はすぐに玄関のドアを叩いて、

「すみません。お願いします。どうしても、見てもらいたい患者さんが居るので、ぜひ、お願いしたいです。」

と言った。ハイという声がして、がちゃんとドアが開いて、一人の女性が、二人の前に現れる。

「あの、この人なんですけど、急に倒れてしまったんです。何日も前から、ご飯を食べないみたいで。何日も、咳き込んで血を出す発作が止まらなくて。せめて、薬だけでももらえませんか?」

市子は、水穂さんの顔を見せて、要件を言った。

「ま、まあ、こんなにげっそりと痩せてしまって、、、。」

秋庭先生は、水穂さんを変な顔で見た。

「今どき、ここまで衰弱してしまっている人、居るのかしら?」

確かに誰でも、いいそうなセリフだった。

「そうかも知れないけど、あたしたちにとってこの人は大事な人なんです。だから、いくらげっそりと痩せてしまっていようが、衰弱がどうのとか、そんな事、誰に言われようが平気です。もし、先生が見てくださらないって言うんだったら、先生の事、あたし、世間にばらしていいでしょうか?」

市子に言われて、秋庭先生は、変な顔をした。

「先生の事、、、。」

「ええ。あたしは知ってますよ。この前うちの相撲部屋に来て、私の部屋の後輩である里山りえさんの診察をしていましたよね?」

市子は、秋庭先生にそういうことをいい始めた。

「里山さんは、うちの部屋では確かにまだ十両でしたけど、大事な力士でした。そんな彼女が、あんなふうな怖い病気だったなんて、私も、信じられません。相撲部屋では、きちんと生活していましたし、たしかに、繊細な子でしたけど、本当に先生は、ちゃんと彼女を見てくれたのでしょうか?」

「里山、、、そういう力士が、市子さんの相撲部屋にいたのか。」

由紀子は、小さな声でそういった。

「本当に、彼女は相撲部屋の生活に馴染めないことへが、裏目に出たのでしょうか?あたしたちは、彼女を一生懸命フォローしたつもりです。あたしたちも、親方も、皆で彼女のことを一生懸命助けたつもりです。それなのに、先生は、里山さんのことを、精神疾患だというおつもりですか?」

市子は、話を続けた。

「せっかく彼女は、一生懸命やって、十両まで昇進できたんです。これからは、頑張って幕内に上がるんだって、気合を入れてました。それなのに、精神疾患で次の場所は休場なんて、ちょっとあんまりですよ。同僚というか、同部屋の弟子として、彼女、里山さんが可哀想です。水穂さんを見てくれなかったら、私、里山を休場に導いた医者だと、公表してしまいたいくらいですわ。」

そんな事があったなんて、由紀子はこれっぽっちも知らなかった。最近、女相撲というか、女子相撲は、男性の相撲と同じくらい人気のあるスポーツになっているが、それと同時に、こういうトラブルも発生してしまうのだろう。

「そういうことだったら、彼女の事や、相撲部屋のこと、私、新聞社に訴えてもいいです。私達、相撲部屋の責任ではありません。先生が無理やり、相撲部屋は、今の時代にあってないとかいって、彼女を病気にしてしまっただけです。水穂さんを見てくれるんだったら、私、訴えを取り下げます。でも、見てくれなかったら、私は、秋庭医院の医者が、里山を休場に追い込んだと、訴えることにします。」

「そうなのね。そうなの。確かに、それではね。じゃあとりあえずはいってちょうだい。」

と、秋庭先生は、市子を建物内に入れた。そして、水穂さんを、診察室に連れ込んで、とりあえず、診察台の上に寝てもらった。水穂さんはここでようやく目を覚まして、

「ご、ごめんなさい、すぐ帰ります。」

と言ったのであるが、

「いえ、大丈夫です。あたしが、ここで見てくれることは、保証します。」

市子は、水穂さんをにこやかな顔で見た。その間に、秋庭先生は、水穂さんの着物を脱がせて、水穂さんの体を聴診した。水穂さんは、胸の肋骨が、一本一本見えるほど痩せていた。両腕もほとんど肉が着いておらず、正しく、羸痩、木の枝のような状態であった。

「本当に、随分衰弱しきってるじゃないの。これは一体どういう事?これでは何日も、食事をしていないような状態じゃないの。」

「はい、していません!」

市子は、思わず断定的に言った。

「それでも大事な人だから、見ていただきたいんです!こちらの由紀子さんだって、彼のことを大事に思っているはずです!あたし、こうやって、体重が3桁もあるから、頭が悪いように見えますが、ちゃんと考えてるんですよ。だって、一人の人間を動かすことだって、大変じゃないですか。でも、水穂さんが、すでに二人の人間を動かすことができるわけですから、それはすごいことじゃないでしょうかね?」

「そうかも知れないけどね、あなた達、来てくれるのがもうちょっと早かったら良かったのに。ここまで衰弱しきって、ここまで肺が壊滅的にやられてるんじゃ、もう手の施しようが無いわよ。きっと、何をしたって、彼が立ち直ることは無いでしょうね。それでも、あなた達は、こうしてこの人を見てくれ見てくれって、ずっと言うのかしら?」

秋庭先生は、呆れた顔で言った。

「呆れても構いません。先生がいくらそう言っても、水穂さんは、大事な人です。せめて薬だけでも出してください。咳止めとか、そういう単純なものでいい。それだけでいいですから、お願いします!」

由紀子は呆れた顔をしている秋庭先生の顔を見て、一生懸命自分の気持ちを訴えた。秋庭先生は、どうしてこの人を連れてきたのかわからないという顔で、二人を眺めていたが、

「それでは、咳止めだけ出しておきましょうか。じゃあ、隣の薬局で、薬もらっていって。それから、もうそうなってしまったことは仕方ないけど、

彼を、できるだけ安静にさせて、なるべく外へは出さないでね。」

と医者らしく言って、処方箋を書きなぐるように書いた。由紀子は、それを見てやっと力が抜けた。

「それでは、失礼いたしますが、また、なにか体調が悪くなったらまた来ますから。また、相撲部屋でなにかトラブルがあったら、また、先生にお願いしようと思います。それでは、お願いします。」

市子はできるだけ来る前と同じような態度を取っていたが、大した脅しにもならなかったなと考えているようであった。やはりこの作戦は失敗だったのだろう。

「それでは先生、ありがとうございました。」

と、市子は水穂さんをまた背中に背負った。信じられないほど軽い人であった。でも、その大きな体の市子が、なんだか小さくなってしまったような気がした由紀子は、

「先生、ありがとうございました。あたしたちは、これからも水穂さんのことを大事に思って行きます。いくら手の施しようがないとか、そういう事言われようが、私達は、水穂さんが大事な人ですから。」

と、秋庭先生に言い残して、診察室を出ていった。

由紀子と市子は処方箋を隣の薬局に提出して、薬をもらって製鉄所に帰った。近くの家に桜の木が一本植えられていた。桜の木は、きれいに花をつけていた。もう春本番なんだなと思わせる花の付け方だった。市子は、気が付かないようだったが、由紀子は、桜が自分たちを祝福してくれるような気がした。



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桜の木 増田朋美 @masubuchi4996

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