第18話 あれはきっとマシュマロなのよ
「……シュア、リシュア!」
叫び声にも似た誰かの呼びかけに、わたくしは目を覚ました。
誰かに顔を覗き込まれているが、焦点が合わない。何度かパチパチとまばたきをしていると、徐々に視線の先の輪郭がはっきりしてきた。
「ランティス様……」
わたくしの顔を覗き込んでいたのは、ランティス様だった。とても不安そうな表情で見つめてくる。……顔が近いわ。
あらら? わたくし何をしていたのだっけ?
そう思いつつ身体を起こそうとする。
ん? わたくし眠っていたの?
わたくしはいつの間にか倒れていたのだ。わたくしの身体をランティス様が支えてくれていた。
「ランティス様、わたくし……」
「急に倒れたんだよ。身体はなんともないかい?」
急に倒れた? わたくし、一体何を……。
ランティス様の発言にびっくりしながらも、徐々に記憶が蘇ってくる。
えっと、確か、突然鐘の音が鳴り響いて、そうだわ! 未来に飛んだのよ。それから、それから……。
「リシュア? 大丈夫?」
顔を覗き込んでくるランティス様。ぼんやりとしながらも記憶をたどっていたわたくしは、美麗なランティス様の顔で一気に思い出した。
『愛しているよ。リシュア』
わたくしの体温が一気に上がった。
「ひゃあああぁぁぁぁあ!!!」
トンッ。
わたくしは思わずランティス様を突き飛ばしてしまった。
ただ、わたくしがランティス様を突き飛ばしても、ランティス様が尻もちをつくことはなく、わたくしの身体を支えていた手が離れただけだった。
ランティス様から離れたい。一刻も早く、距離を取りたい。
床の上を這いずるように動く。はたから見れば、なんとも奇妙な光景だろう。貴族令嬢がしてはいけない姿である。わかっているが余裕がない。というか、足腰が立たなかった。
わたくしは這いずりながらも、頭の中では同じ光景が何度も何度も繰り返されていた。
近づいてくるランティス様のきれいな顔。色気のある熱い眼差し。ランティス様の鼻がわたくしの鼻にあたる。温かいもので口が塞がれる。
あああああ!!!
唇にあたった温かいものは何?! え? マシュマロ? 温めたマシュマロがあたったの? どこからマシュマロ出てきたの?! ポケット? ポケットからかな???
わたくしはまさに大混乱状態であった。
マシュマロなわけない。目は閉じていたし、初めての経験だったから正確にはわからないが、あれは……キスよ。
わたくしはランティス様とキスをしてしまったのだ!
恥ずかしすぎて、ランティス様の顔が見れないわ!!
少しづつ床を這いずっていたわたくしだが、気力が持たなくなりうずくまった。
思い出してほしくないのに、ずっとキスの場面が脳内で再生され続ける。わたくしは頭をかかえた。
すると、困ったような声が頭上から聞こえてきた。
「廊下の床を這いずるご令嬢って初めて見たわ。めちゃくちゃ怖いな」
そうでしょうね。
その声に、わたくしはゆっくりと頭を上げた。目線の先には困った表情のヴィノ様が立っていた。
「奇声をあげるご令嬢なら見たことあるんだけど」
そうなんだ。
そう言いつつ、ヴィノ様は片膝をついて手を差し伸べてくれる。
「とりあえず、立てそう?」
「あ、申し訳ございません。……ありがとうございます」
ヴィノ様の顔を見て少し冷静さを取り戻せたわたくしは、ありがたくヴィノ様の手を取った。
すると、ヴィノ様は複雑そうな表情になる。
「俺に対しては大丈夫なのね?」
「へっ?」
「いや、殿下の番であるお嬢さんの手を取るって、後から絶対、殿下に恨まれるから嫌なんだけどさ」
ヴィノ様はそう言うと、ランティス様の方へ振り向いた。わたくしもつられてランティス様を見やる。
ランティス様は片膝をついたまま固まっていた。腕も、何かを抱えていたような形のまま、指一つ動かない。表情は口がポカンと開いたままで、どこか呆然としていた。
「殿下が放心状態なのよ。お嬢さんが奇声あげて突き飛ばしたから」
「え? え!?」
そうだわ! わたくし、ランティス様を突き飛ばしてしまったわ!
いくら混乱していたからと言って、隣国の皇族を突き飛ばしたなんて、誰であっても許されない。
自分の行いを思い出したわたくしは、頬が急激に冷める感覚を味わった。
ヴィノ様から手を離し座り直すと、わたくしは床に手と額をあてた。そしてランティス様に対して謝った。
「申し訳ございません!!!」
身体が震える。わたくしは不敬罪で処罰されてしまうのかしら。家族まで巻き込まれてしまったらどうしよう。
ビクビクしながらも沙汰を待つ。わたくしは頭を下げているから、ランティス様の表情がわからない。怒っているかも知れない。
「リシュア。顔を上げて」
すると、なんとも優しい声音が響いた。
わたくしは恐る恐る顔を上げる。視線の先には、心配そうな表情のランティス様が片膝をついたまま、わたくしの様子を伺っていた。
ランティス様は距離を一定に保ってくれていた。そのおかげで、わたくしは冷静さを失わずに済んだ。
「身体はなんともないんだね?」
「は、はい。なんともございません」
わたくしの言葉を聞いて、ホッと息をつくランティス様。怒っているようには見えなかった。
ランティス様のその姿に、わたくしは申し訳なくなった。
「ランティス様。先程は大変失礼致しました。どのようにお詫びすればいいでしょうか?」
わたくしの言葉を聞いたランティス様はキョトンとする。それからすこし悲しそうな笑みを浮かべた。
「君が無事なら構わない。謝らなくていいし、詫びもいらないよ。ただ」
ランティス様がわたくしの目を見る。わたくしも言葉の続きを聞き漏らすまいと、ランティス様を見つめ返した。
「近づいてもいいかな?」
わたくしは一瞬、はい、と返事をしそうになった。しかし、またもやキスの場面が脳内で繰り広げられて、わたくしの顔から火が噴き出した。
わたくしはオロオロと視線を外す。ランティス様の視線を遮るように、顔の正面に両手を掲げた。
「そ、れは、ダメです。お待ち下さい」
時間が欲しい。とりあえずこの記憶をコントロールするまで待って欲しい。
そう思って懇願したが返事がない。そろっとランティス様を盗み見ると、ランティス様は顔面蒼白になっていた。
「ランティス様!?」
「近づいちゃダメなの? 一生? 僕は何か嫌われることをしたかな?」
「いやややや、違います! 少しお時間をいただきたいだけなのです!」
ショックを受け過ぎではないかしら!? そもそも、ランティス様が、キ、キスなんてするからでしょう!?
そう思ってハッとした。
ランティス様が黒い服を着ていなかったのだ。カーキ色のストレートパンツに、白いVネックのシャツを合わせただけのラフなスタイルだった。
わたくしは慌てて自分の服を見た。
わたくしも黒い服を身に着けてはおらず、黄色のシフォンワンピースを着ていた。
そういえば、あの真っ白い神官の人が見当たらない。でも、未来では会わなかったヴィノ様はいる。
わたくしは現代に帰ってきたのね!? いや、正確には過去なんだけど……、ややこしいわね。
そうだった。わたくしはなぜかいきなり未来に飛んだのだ。未来のランティス様たちはなんと言っていたかしら?
そこまで考えて、ようやくボロボロの馬車を思い出した。わたくしの身体は一瞬にして寒気が走る。
「大変! どうしましょう!!」
わたくしは気づけば立ち上がっていた。
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