第2話 鐘の音


 ゴーン……ゴーン……。


 メロディナ様に押されたわたくしは、奇妙な感覚に包まれていた。


 遠くで鐘の音が鳴り始めたのだ。


 あらあ? この建物に鐘なんてありましたっけ?


 そんなことをのんきに考えていたら、グラード様たちが目に飛び込んできた。

 グラード様の顔が徐々に驚きの表情へ変化していく。そのグラード様の手前、肩を抱かれたメロディナ様は、気色の悪い歪んだ笑顔になっていくのが見えた。


 ――なにかしら。遅く感じるわ。


 落ちる速度が遅い。そう感じたわたくしは、階段の手すりに掴まれば助かるのではと考えた。だが、腕や身体が思うように動かない。


 ゴーン、ゴーン。


 嫌だわ。鐘の音が大きくなって、ちょっとうるさい。もう少し軽やかな音だったら良かったのに。


 そんなどうでもいいことを考えていた時、わたくしを呼ぶ声が下の方から聞こえた。



「リシュア!!!」



 叫ぶように呼ぶのは誰だろうか。振り向きたかったが身体が言うことを聞いてくれない。わたくしは瞳だけを動かした。


 基本的に人間しか住んでいないベイスンレイス王国においてその方は異質だった。髪の色こそ王国では馴染みのある金髪だが、これは染めているのだと誰かから聞いた。

 少し癖のあるその髪はハーフアップにまとめられていて、シカのような角が控えめに2本生えている。首筋には魚のような鱗が、まるで皮膚がひび割れをおこしているかのようにささくれ立っていた。

 

 人の姿をしてはいるが、獣の性質を持っている。獣人族と呼ばれる種族の人。

 隣国レインフォレスト帝国の第3皇子。


 その方は、階下に広がるダンスホールにいた。驚いた様子で駆けてきてわたくしの方へ手を伸ばしている。何をそんなに焦って……。


 ――ああ。わたくしが落ちていっているからですわね。


 受け止めてくれるつもりなのか。ありがたいけど信じられない。だってわたくしはこの方に嫌われているから。


 そうですよね?


 ランティス・テオ・レインフォレスト殿下。



 ゴーン! ゴーン!! ゴォーン!!!


 騒々しい鐘が耳元で鳴り響き、わたくしは手で耳を覆った。


「うるさいですわ! 誰か鐘の音をとめてちょうだい!」


 わたくしは思わず声を荒げた。鐘が迫ってきているみたいで怖いし、余裕がなかった。


 今は階段から落ちているはずなのだ。わたくしは次に来るであろう衝撃に備えるために、ギュッと身体を丸めて瞳を閉じたのだが――。


 ん? 何も……来ないわ。まだ落ちている途中なのかしら。

 ん? 頬に風が当たる感じはするけれどずいぶん優しい肌触りね。なんだか外で寝転んでいるみたい。


 いくら待ってみても身体への衝撃がやって来ない。浮遊感も……ない。それどころか、背中が床についている感覚がする。


 これは床なのか。とてもゴツゴツするけれど。ダンスホールってこんなにゴツゴツしていていいものなの。寝転んだことがないから何が正解かわからない。


 わたくしは恐る恐るまぶたを上げてみた。


 すると、目の前には大きくて立派なクスノキがドーンと立っていた。


「え?」


 見間違い? だが、いくらまばたきをしてみても、目元をこすってみても景色は変わらない。

 わたくしは起き上がり、辺りをゆっくり見渡してみた。


 そこに広がっていたのは、きれいに手入れされた芝生に、一本のクスノキが鎮座している広々とした庭園だった。後ろを振り返れば、レンガ造りの2階建ての建物がひっそりと建っている。この景色にわたくしは見覚えがあった。


「わたくしの……家?」


 そうだ。ここは間違いなく、わたくしの家だ。本館ではなく離れだけれど。

 わたくしは、離れの庭園にあるクスノキの根元に座っていたのだ。


 何がなんだかわからない。近くには誰もおらず、わたくしは一人キョロキョロと辺りを見回した。

 太陽はさんさんと降り注ぎ、草花は穏やかに風に揺れていた。遠くで鳥がピチピチ鳴いている。とても静かだ。


 パーティーは? わたくしは会場にいたはず。

 夢だった? そんなまさか。

 記憶が飛んでいるのだろうか? 飛んでいるにしてもおかしくないか。


 パーティー会場はトルナスク家のものだし、わたくしの家からは距離がある。馬車に乗って向かった記憶もちゃんとある。そもそも、パーティーは夕方から始まったはずだ。こんなに日が高いわけがない。


 よくわからないけれど、ずっとここに居る訳にもいかない。思考は混乱したままだったが、わたくしは立ち上がろうとして、芝生に手をついた。


 ストン。


「あ、あら?」


 一度立ち上がってはみたものの、すぐに尻を付いて座ってしまった。ケガでもしたのだろうか。そう思いながら、両の手のひらを見てみる。


 芝生が付いた手のひらは、小刻みにカタカタと震えていた。


 その瞬間、先程の出来事がわたくしの脳裏にありありと蘇った。


 初恋の人であり、婚約者でもあるグラード様からの婚約破棄。

 やってもいないいじめ。

 大勢が見ている前で疑われ、責められて。


 突き落とされて殺されそうに――。


 心臓が唐突にバクバクと早鐘を打ち出す。手のひらだけではなく、体全体が震えだした。

 夢じゃない。あれは、夢ではない。


 グラード様は信じてくれなかった。話さえ聞いてもらえなかった。犯人だと決めつけられた。悲しい。ひどい。それから彼女。男爵令嬢のあの子。


 ニタっと笑いながら、助けるふりをして、わたくしを押した。汗が吹き出して寒気が止まらない。


 もしかしなくとも、わたくしは殺された?


 涙が溢れてくる。息も乱れて、苦しくなってきた。


「はぁっ、はっ、はぁっ」


 息が上手くできない。苦しい。悲しい。わからない。どうして。怖い。なぜ。何がどうなっているの。苦しい、くるしい、いき、が。


「はっ……、はぁっはっはぁっ」


 その時、背中に温かいものが触れた。それが誰かの手だと、感触からわかった。


 その方は、わたくしの左隣りに跪いた。ガタガタと震えるわたくしの両手を、その方はもう片方の手で優しく握ってくれた。


「息を吐いて」


 少し高い声だけど、これは男の方かしら。穏やかで落ち着いた声だ。えっと、息を吐く。息を吐くってどうしていたっけ?!


「ゆっくりでいいよ。口からね。はぁー……」


 わたくしは混乱していたがその方が実演してくれる。その動きに合わせながら、口から息を吐いた。


「次は鼻から息を吸って。すぅー……」


 鼻から息を吸う。スーッ。


 その方は、わたくしの背中に添えた手で、トントンと優しく背中を叩きはじめる。一定のリズムを刻むその方の手に合わせながら、わたくしは言われるがまま、吐いて吸ってを繰り返した。


 「上手だよ。いい子だね」


 いい子だね、は、どうなのかしら。わたくし17歳になるのだけど。ああ、でも楽になってきた。手も温かくて心地いいわ。


 息が整ってきたことに安心感を覚える。身体に力が入るようになったのか、わたくしは無意識に手を握り返していた。


「もう、大丈夫そうだね。良かった」

「あ、ありがとうございます」


 その言葉にぼんやりとしていたわたくしは我に返る。お礼を述べつつ顔を上げた。


 14、5歳ぐらいだろうか。黄金色の瞳に黒くつややかな髪が特徴の上品な顔立ち。もう少し成長したらとんでもない美丈夫になりそうな少年がわたくしを見下ろしていた。


 なんだかこの子、ランティス殿下によく似ている。可愛らしい角も生えているし。ご兄弟の方だろうか?


 不躾にもまじまじと拝見していたが、この子も負けず劣らずわたくしを見てくる。

 お互いにそのまま見つめ合っていたのだが、根負けしたのはわたくしの方だった。


 わたくしは目線をそらし立ち上がろうとするが、足はまだ震えていた。


「立てないの?」

「え、ええ。なんだか力が入らなくて」

「震えているね。寒い?」

「寒くは……ないのですが」


 震えの原因はなんとなく見当がついている。色々あるが一番の原因は、階段から突き落とされたという体験が、わたくしの身体を震えさせているのだろう。

 だが、説明ができない。周囲に階段なんて無いし、どう説明したら良いのだろう? 


 思い出したらまた苦しくなりそうで、下を向き口をつぐむ。すると肩を掴まれ抱き寄せられた。


「え?!」

「失礼」


 そう言われた瞬間、身体がフワッと浮いたのだ。


「ここに居ては身体が冷えてしまうから。僕が運ぶよ」


 お、おお、お姫様だっこ?! え?!


「待って、待ってください!」

「ああ、ジッとしていて。いい子だから」


 また「いい子」って言ったわね?! あなた、わたくしより年下でしょう?!

 

 いや、そんな年下の子に横抱きをさせているなんて、わたくしもみっともないのではないだろうか。 


 重たいですよね?! 重たくないんです?? いくら若いからって駄目ですわ! 腰を、腰は大事になさって??!


 少年は、何でもないようにわたくしを抱き上げてスタスタと離れに向かう。実はわたくし軽いのではと、自身の体重に疑いの目を向けていたところ、風に揺れるわたくしの服が目に入った。あらら? 服装が違う?


 わたくしは自分の服を凝視した。これは昔持っていたワンピースではないだろうか? わたくしは確か、黄色のドレスを着ていたはずだ。 


 金髪金眼のグラード様に合わせて作らせた特注のあのドレス。

 グラード様が贈ってくださらなかったから自分で注文したあのドレス。


 足元も黒い靴になっている。白のハイヒールだったのに。

 なにかおかしい。そういえば身体も少し小さい気がする。わたくし気付くの遅くない?


 色んな意味で戸惑うわたくしを横抱きにした彼は、離れのエントランスへ到着した。

 そこでわたくしは衝撃を受け、思わず声を上げたのだ。


「待って!」

「? どうしたの?」


 エントランスには姿見鏡が置いてあるのだが、そこに映っていた自分の姿は――。



 明らかに幼かったのだ。




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