CHAPTER XIX

 第十三別室室長兼特別教育官、というのが、今の私の肩書きらしい。第十三別室は一応、中央管制課の一部署とされているが、しかし実際には、統合管理局の直轄組織と言った方が正しいだろう。

 管理区画の組織体系は、統合管理局を最上位として、その下に中央管制課、科学開発課、資源課の三つの組織があり、そこからそれぞれ四つに、その下に………と、局、課、室、班、組の五つで構成されている。そのため、本来であれば第十三別室の下部組織があってしかるべきなのだが、構成人数の少なさや職務内容などから、第十三別室は現在、抱えている組織が無い状態だ。

 一〇三二三年、二月六日。私とエリスの拘束が正式に解かれてから、五日が経過した。二週間前のイコベヴィアとの交渉の末、ノイドとフロスロイドに人間的な感覚などを教える部署と役職が新たに作られ、私がそこの室長に任命されることになったが、人類守護という使命を誇りにしている彼ら彼女らからの反応は、予想を超えて冷たいものだった。

 第十三別室の発足に伴い、移動になった者は五人。中央管制課保護区画管理室治安管理班から母が、同じく植生管理班からエリスが、総合医療室人類遺伝子学班からヴィオラが、旧文明研究室記録班からグールグーが、そして科学開発課拡張技術整備室技術班からグファーが、それぞれ肩書き上は私の部下として送られてきた。

 当然、私とエリス、そして母の監視という面が強いのだろうが、旧文明の知識が豊富なグールグーと、生活必需品に関しての相談ができるグファーの二人には、この五日ですでにずいぶんと世話になっている。

 たとえば、ミクシードであるせいか他人よりも月経周期が遅い私だが、折悪しくというべきか二日前に始まってしまい、管理区画にはそういった用品が少ないため、グファーに色々と用意してもらったり。

 保護室生活ではほとんど得られなかった、管理区画の知識や旧文明のことなどを教えてもらったり、だ。

 この二人と違って、ヴィオラは総合医療室人類遺伝子学班に所属したままなので、第十三別室では客人という扱いをするべきなのかもしれないが、これはミクシードの私の健康面を常に把握できるように、という理由からの措置であるらしい。

「ミクシードの月経は、人間のものよりも重い、とは聞いていましたが………」

 第十三別室は、旧文明研究室から部屋を二つ、間借りしている。事務室兼演説場とも言うべき部屋と、私、母、エリスの三人の生活の場となる部屋である。倉庫として使用されていた部屋を整理して、この五日の間に、どうにか使えるまでにしたのだ。

 その、新しい自室の隅のベッドの上で、私はヴィオラに介抱してもらっていた。

 いわく、ミクシードの女の月経は、シーズとルナベルが互いに干渉してしまうために、非常に重くなるのだという。その影響で、全身のバイオナノマシンが異常活性を起こして、三十九度を超える発熱や、全身の痛みまで出てくる。初潮が来たのは十歳前のことだが、三か月半に一度のこの期間は、毎回死ぬのではないかと思うほどに辛い。

「キキリキ。これで良いか?」

「ええ、ありがとう」

 グファーが手に布で包んだ何かを持って、部屋に入ってくる。母はそれを受け取ると、ベッドの中の私の腹部にそれを当てて、「私がいるから大丈夫」と繰り返す。

 下腹部の痛みと、全身の痛みと、嘔吐感と発熱と、倦怠感と眠気が、血中に充満して、それらは体中を不必要に駆け回るのに、思考は全く纏まりなく、動いてすらもくれない。女の体というのは、これだから不便極まる。

 気を紛らわせようと、以前骨折をした時の痛みを思い出すが、あの程度では今の苦痛を和らげるには至らないのは承知の上だ。ならばと聖芽祭の後のことを脳内に浮かべてみるが、どうやらあれすらも、鎮痛作用としての効果を有していないらしい。

「………ジ、」

「メディ?」

「ジネヴラよりも、今の方が辛い………」

 母は、ジネヴラが私の左眼を切り裂いた場面どころか、傷すら見ていない。あの時の話はしたが、比較されても想像は難しいだろう。

「この調子じゃ、"人間先生"最初の授業は、見送りだな」

 問題はそれだ。イコベヴィアとの交換条件で第十三別室が作られたわけだが、その初めての仕事は、四日後の二月十日に予定されている。しかし、今の私の体調を考えれば、予定通りの決行は難しい………というより、不可能と言った方が良いだろう。

「お待たせ諸君。グールグーが戻ったぞ」

 扉を潜って、妙な話し方のノイドが現れる。その隣にはエリスがいるが、その表情はどことなく暗いものがあった。

「お帰りなさい。どうだった?」

「一応、過去に女性が保護室に収容されていた際の記録は残っていたんですけど、今はメデイアさんだけなので………。やっぱり、いつもの栄養食以外は、資源課に相談して食料を分けてもらって、自分達で作るしかないみたいです」

 フローラにいた頃であれば考えられないほどの対応だが、今の私は、ある意味でこのホワイト=シンクの中で最も特殊だと言えるのだ。味のないシチューと白湯だけで月経を乗り切れ、というのは、やはり彼らの存在意義にも反することなのだろう。

 ただ、無理にでも口に入れなければならない、とは理解していても、いつものことながら食欲が湧かない。

「許可は取ってきたから、必要なものがあるなら、ここでグールグーに聞かせてみせてくれ」

 人間のことは、キキリキが一番分かっているだろうから────と、グールグーがエリアルシートを開いて、母の言葉をメモする姿勢を取る。

「温かいスープと、鉄分を摂れるもの………かしら。昔はレバーとか、ほうれん草とかが良いって言われてたみたいだけど」

「食欲、ない」

「なくても食べなきゃ。普通の栄養食じゃ、もう辛いでしょ」

 全身が軋んで、皮膚の下で火事が起きて、視界が揺れて、胸のあたりに渦が巻いて、ベッドに沈み込んでいっている今の時点で、すでに十二分に辛い。今回は、いつにも増して酷い気がする。何か原因でもあるのだろうか。

 前回までの月経時と違う点と言えば、生活環境の大きな変化がある。食生活が変わり、それが現れているのかもしれない。もしくは、ジネヴラに大怪我を負わされて、体に負担をかけたからか。あるいは、ディア達と出会う前のが原因なのだろうか。

 聞けば、ミクシードの出産確率は非常に低く、着床後にシーズとルナベルが干渉し合い、テラステラがそれを疎外する命令を出すために体内で活発化し、胎内に宿った子供────まだ子供とも言えないようなを、シーズが体細胞として分解してしまうのだと言う。その結果として、妊娠初期には月経に似た症状が出るのだとか。たとえるのであれば、早期流産が最も近いだろう。

 状況を考えるとこれが原因にも思えるが、保護室にいた一月の間の検査では、妊娠しているとの結果は出ていなかった。知らされていなかっただけかもしれないが、私の立場や扱いを考えれば、その可能性は低い。ということは、やはり生活環境が変わったことが原因で、精神面に負担をかけたから、というのが正しいのだろう。

 神経が太く、排他的な利己主義者で、傲慢。私はそう自己分析をしていたのだが、案外常人の感性も持ち合わせているものなのだな、と自分への認識を改めつつ、止みそうにない痛みの中に溶けるように目を閉じた。


       ❅


 二月二十日。

 あの、この世のあらゆる苦痛と不幸を詰め込んで煮込んだかのような月経が終わり、ようやく私の、こちら側での最初の仕事じゅぎょうが行われることになった。

 この"人間先生"によるへの参加は任意で、月に三回、十の倍数の日────二月の三回目の授業だけは、通常二十八日に、うるう年であれば二十九日になるが────に、第十三別室に足を運びさえすれば良い。コロニー運営が疎かになることは許されないため、前日までに管理区画用エリアルシートに参加の意思を記して人員調整をする必要はあるが、参加人数が多過ぎるという事態にでもならない限りは、出入りは自由ということになった。とはいえ、管理区画での私────いや、私達は、快く思われていないのも事実だ。私達の目的のためには潜在的な協力者や理解者を増やす必要があるが、初めのうちは、せいぜいが数人程度の参加に留まるだろう。

 しかし、"人間先生"の授業を舞台にして"私"の思想にする、というのは、フローラで生神信仰を強制し、強要している者達と大きく変わらない。貴族達の派閥争いにも見られることだが、勢力拡大を図る際には、ある種の信仰心を利用するのが最も容易な方法であるとしても、全くもって度し難い話である。

 それにしても、エリスと出会う前に、フローラの中で演説をして回る、という計画を立てていたが、まさかこんな形で達成されるとは予想していなかった。いや、達成した、という表現は正しくないが。

「大丈夫。きっと上手くいきます」

 エリスは第十三別室で、母と共に雑務の処理をすることになっているが、彼女によると、今日の受講人数はわずか四人。授業は午前と午後の二度行う予定だが、午後の部だけで四人、である。

「ノイドが一人と、あとの三人はフロスロイドか。ノイドは男、フロスロイドは男一人に女が二人。先が思いやられるなぁ」

 その四人のうち、一人は医療班の班長だし、一人はエリスのかつての同室者である。私の話を聞きに来る、というよりは、私とエリスの様子を確認しに、という目的の方が大きいだろう。

「こういう場面で緊張しない性格だということは分かってるけど、冷静なものね。昨日は少し、思いつめたような表情をしていたけど」

 緊張していない、と言えば嘘になるが、そもそも、今まで生きてきた中でに該当していそうな記憶というのも、子供達に物語を聞かせていたことくらいしかない。全く未知とも言える状況を前にすれば、緊張も何もないものだ。とはいえ、母の言う"昨日のこと"というのは、イアソンが投獄されたという情報を指しているのだろうが。

 イアソンは現在、オニカ=ペタラを中心とした西三区で、かつて私の読み聞かせ教室に足を運んでいた者達や、それに少しでも興味を抱いている者を扇動しようとした、という罪で捕らえられ、尋問官による事情聴取を受けている………と、いうことになっている。

 予定よりも少し遅れての情報に、何か面倒事に巻き込まれたのではないかと肝を冷やしたが、考えてみれば、現状こそがその面倒事に違いない。

 テラステラによる位置情報の追跡というディスアドバンテージが存在している以上、イアソン達の逃亡生活は長くは続かない。ディア達の方は問題ないとしても、イアソンは私に最も近い人間なのだ。あの夜の交渉劇で神官達あいてがわよりも優位に立てたのはディアの先見性によるところが大きいが、私自身も脅威であると警戒されているのだから、事前にイアソンに指示を出していると予想されるのは当然のことだ。

 いつ終わるとも知れない逃亡生活、いつ捕えに来るかも分からない敵対者達。それらから逃げ切るのは困難で、安全な場所など存在しない。しかし、そこは"社交界の月精"のコネクションの出番というわけだ。

 逃げ切ることができないのであれば、自分から捕まりに行く方が危険は少なく済む。片手の指の数程度しかいない尋問官の中には、ディアの協力者がいるのだ。投獄という形で彼の庇護下に入り、そこから計画実行に必要な全てを行うというのが、今のイアソンにとっては最も安全な立場となるだろう。

 イアソンはあの夜、私の父にも全てを話したはずだ。しかし父が重大な事件を起こした、あるいは関わったという情報がない以上、二人の接触は、エリアルシートの復旧までのわずかな時間のうちに終わっていたということになる。予定通りに計画が進んでいるのであれば、イアソンは荷運び人である父とカフォーネ、カヴァリエレの仲介役として、牢の中にしているはずだ。しかし、父の現状が分からない以上、それは希望的観測に過ぎない。

 どちらにしても、フローラのことは、ディア達に任せる他に打てる手はない。私も私で、管理区画でしかできないことをするべきだろう。

 そう考えているうちに時刻は午後二時に近づき、第十三別室の扉が開いて、二人のフロスロイドが現れる。その者達は今日の受講者リストには乗っていない人物で、また、何があっても来ることはないだろうと思われた人物だった。

「午後一時五十分。もう少し執務室にいても良かったかもしれませんね」

「旧文明の"日本"という国では、十分前には現地に到着していることが望ましい、とされていたみたいですから。"日本"は作法の国だと記録されていますし、真似をしてみるのも良いかと思ったのですが」

「時間の無駄です。規定通りの時間に到着すれば、不必要に時間を浪費することもありません」

「ですが、これから"人間先生"の授業なのですから、こういったかつての人類の習慣なども、身に着けておいて損はないと思いますよ」

「それはいずれ、文明が復興してからでも遅くはないでしょう」

 白い二人のフロスロイド────イコベヴィアと、その三人の補佐のうちの一人であるロスが、扉の前に立ったまま、"現地には定められた時間の前に到着しているべきか否か"というテーマで議論を繰り広げている。

「作法の話をしたいなら、まずは中に入って、"こんにちは"の一言でも添えてみるっていうのはどう?」

 一月二十四日の一件以降、イコベヴィアに会うのは今回で二度目となるが、あれ以来、私は、彼女に対して敬語や敬称を使わなくなっていた。愛称で呼び合うほどの仲でもないが、私のイコベヴィアへの認識が、理解できない敵対者ではなく、理解すべき対立者に変わったからだ。それが理由かは分からないが、どうにも恭しく振る舞うことができなくなってしまった。

 彼女にとっての私は神の子孫で、私にとっての彼女は神の代行人で、いつかの日にホワイト=シンクを変えたい彼女と、今この瞬間にでもホワイト=シンクを変えたい私の間には、そういう形式的な、あるいは儀礼的なものは必要ないのではないか、と、そう感じたのだと思う。イコベヴィアもそれを咎めるつもりはないらしく、ある意味では対等な関係が築かれつつあった。

 しかし、意外な飛び入り参加者がいたものだ。確かに、"人間先生"の発案者は他でもないイコベヴィアだが、まさか、わざわざ時間を作ってまで、私の仕事振りを確認しに来たというわけでもないだろう。

「統合管理長自ら監視なんて、"神様"っていうのは、意外と暇なものなの?」

「"人間のことを教えてほしい"と頼んだのは私なのですから、自らの目で確かめるべきかと思ったまでです。迷惑でしたか?」

「そういう意味で言ったんじゃないよ。ただ驚いただけ」

 しかし、実際のところ、彼女がこの場にいるのは、あまり好ましいとは言えない。イコベヴィアに対して抱いている感情が変わったとしても、私達が対立的な立場にあることに変化はないのだ。

 もしもこの先、私の授業に必ずイコベヴィアが現れるのだとすれば、第十三別室として洗脳工作を行うよりも、それを足がかりとして、私個人で動くことも考えるべきかもしれない。もっとも、すでに第十三別室内に三人の監視がいる現状では、どちらにしても露骨な行動は避けるのが無難だろう。

「確か、今日の受講者は四人。フィオリとチコーニャ、ガットコーダ、それにクアクァでしたか。………予想よりも少ない人数ですね」

「まぁ、嫌われ者の話なんて、聞きたいと思う方が珍しいだろうからね」

「授業内容は決まっていますか?」

「君が報告書を読んでないわけがない。つまり、わざわざ今説明する必要もないってことだ」

 当然だが、私が行う授業の内容は、活動計画書という形で統合管理局へと提出している。とはいえ、これは形式上の問題をクリアするためのものであって、却下するようなことはまずない、というのがイコベヴィアの方針らしい。無論、ある程度の範囲内であれば、だが。

 そうしているうちに、受講者リストに載っている四人が現れる。

 白い髪の内側と先端が薄桃色になっている、女性型フロスロイドがフィオリ。

 鮮やかな赤い髪の、男性フロスロイドがチコーニャ。

 少しくすんだ、柔らかそうな赤毛をしている男性型フロスロイドがガットコーダ。

 ところどころに茶色が混ざった、灰色の髪をしている男性型ノイドがクアクァ。

 例に漏れず、四人とも整った容姿をしているが、中でも目を引くのは、エリスのかつてのルームメイトであったというフィオリだ。髪の内側のみを染めるというのを旧文明ではインナーカラーとか言ったらしいが、フローラでは見られない髪色で、物語に絵画でもついていたら、精霊などの容姿はこんなふうに描かれるのかもしれないな、という感想を抱かせる。

「………久し振り、エリス」

 表情を変えないままに、フィオリがエリスへと声をかける。エリスがバグであるとは言っても、元同室者の様子が気になるのは自然だ。やはり、彼女は私の授業が目的なのではなく、エリスが今どのような職務に就いていて、どのような生活を送っているのか、それを知りに来たということだろう。

 そんな、エリスとフィオリの若干距離のある会話を背後に、ガットコーダが私の手を握ったり、脈を取ったり、顔色を調べたり、瞳孔を見つめたりと、無遠慮に検診を始める。

「あの、医務長?今日は検診の日ではないはずですが………」

 この男も、やはり私の授業に興味は無いらしい。そう思い、溜め息交じりにされるがままになっていると、彼はしばらくしてから、「いや、今日も健康で何よりです」と胡散臭い笑みを浮かべた。

「昨日も医務室で、さんざん検査をしたじゃないですか。わざわざここまで来る必要も無いでしょう」

「いえ、あなたの話に興味があるのは事実ですよ。月経後の経過観察も兼ねてはいますがね」

「なら、ひとまず席に着いてもらえますか?もう二時を過ぎます」

 おっと失礼、と、ガットコーダが適当な席に腰を下ろすのを皮切りに、六人全員が着席する。彼らの視線は子供達のものとはまるで違って、しかし神官達のようでもなく、冷静に値踏みをしているかのような居心地の悪さと、若干の不快感を与えてくる。

 エリスと母が私の両隣に、ヴィオラ、グールグー、グファーが六人の背後の壁に背を向けて立ち、そしてちょうど、時刻は午後二時となった。

 一つ深呼吸をして、頭の中でもう一度、これからの一時間をシミュレーションする。

 この部屋に入って来た際の反応からして、最もこちらの陣営に取り込み易そうなのは、おそらくフィオリだろう。理由は単純だが、バグ個体であるエリスの体調を案じるような会話をしていたことと、これはただの印象に過ぎないが、どことなく純粋そうな雰囲気を感じたからだ。チコーニャとクアクァは友人同士らしいが、フィオリの付き添いといった様子で、この二人を初めにするのは難しいだろう。

 ガットコーダは常に笑みを浮かべているという点で、なかなかに手強そうではあるが、むしろ優先順位は高い。私の主治医という立場のフロスロイドを見方にすることができれば、後々助けになってくれるはずだ。

 やはり、問題はイコベヴィア………と言うより、その補佐であるロスだ。第十三別室の発案者であるイコベヴィアは、よほどのことがない限りは介入しない、と口にしている。無論、この場に来ているということは、"度が過ぎれば保護室での監禁生活に逆戻りするぞ"という牽制の意味合いもあるのだろうが、イコベヴィアはむしろ、単純に私の話を────というより、人間の話を聞きたがっているように見える。

 対してロスは、いやイコベヴィアの三人の補佐は、私に対する敵対心にも似た感情を、隠そうともしていない。私が"人間先生"の範疇を超えた行動や言動を取れば、即座に授業を中止してくるだろう。

 もっとも、その"人間先生の範疇外"というのが、どこからどこまでを指すのかは不明なのだが。

 胸の前で手を叩き、視線を集める。

「貴重なお時間を削って足を運んでくださったこと、まずは感謝いたします。第十三別室室長、メデイアと申します。────………早速ではございますが、時刻となりましたので、人間に関する授業、その第一回を始めさせていただきます」

「その前に一つ、質問をしても?」

 私の挨拶が終わって間を置かずに、フィオリが口を開く。

「あなたは保護区画内で、人類の種の保存に対して、致命的となりうる行動を取ったと聞いています。幸いそれは未然に防げたようですが、関係者に厳罰が下された今、彼らに対して心を痛めることはあるのでしょうか?」

 我々は人間と遜色ない知性と感情、そして理性を与えられており、あなたの行動には疑問を感じずにはいられません────と、フィオリが言う。これから人間のことを知ろうというのに、その場を取り仕切る者の人間性が疑わしいとなれば、当然の反応だ。

 未然に防げていれば、私は今ここにはいないのだが………という言葉を喉の奥に押し込めて、「もっともな意見です」と返す。ちょうど良いだ。予定していた内容とも無関係ではない。

 第一回目の授業は、人間が抱くべき罪悪感と、社会に反する者の必要性について、主観的に語ることにしよう。

「これは以前、エリスにも話したことですが………。行動とは常に、責任を果たすか、無責任を貫くかの選択を覚悟として迫るものである、とわたくしは考えています。無責任な目的を掲げて無責任に行動するのであれば、最後まで責任を放棄し続けなければならない、と。改心や謝罪や自責の念をあからさまな態度で出されても、周囲の者は納得しませんから。ここで言う覚悟とは、要するに、糾弾される覚悟という意味であると、頭に入れておいてください。

 あなた方………この場ではあえて人工知能と呼ばせていただきますが、その人工知能にも罪悪感はある、ということは、すでに存じております。何しろ、エリスは以前、わたくしに対して、"巻き込んでしまって申し訳ない"と暗い表情を見せましたから。彼女がエラーの出ているバグ個体だとしても、その根本は、あなた方と変わりはないでしょう。

 そこで一つ、旧文明での出来事を取り上げさせていただきます。

 我々が細々と生活しているこの地球という星は、太陽系第三惑星と呼ばれている通り、太陽の周りを回っています。────もっとも、わたくしはまだ、太陽というものを実際にこの目で見たことはなく、また理解しきれてもおらず、ただ知識として得た情報に過ぎないのですが。

 紀元前にはすでにあったとされるこの地動説ですが、これを巡る論争の中で、史実であるという根拠に乏しいとされながらも、長らく象徴的なエピソードとして語られてきた一文が存在します。十七世紀、ガリレオが二度目の異端審問の際に口にしたという、"それでも地球は動く"という言葉です。

 先述の通り、この言葉は後年の捏造であるという説が有力とされていましたが、それは今議論することではありません。わたくしが述べたいのは、当時異端者であった者達の、ある種社会を混乱させたな好奇心と行動によって、後の世の科学は大きく発展することになった、という事実です。それは皆が一様に同じ方向へと目を向けていては決して成しえない、言い換えれば、異端者達が長い時をかけて紡いだ偉業である、と言えるでしょう。

 以前、ホワイト=シンク統合管理長マリア・イコベヴィアは、わたくしに対して、理想郷ユートピアにも暗黒郷ディストピアにも、完全監視社会パノプティコンにも、救いはないのだと述べていました。また、時代を変えて文明を先へと進める天才というのは、社会的な地位と信頼を得た異常者のことである、とも。

 では、人の社会の形態とは、どうあるべきなのか?

 答えは"群れ"です。"群体"ではありません。

 質問をしましょう。"群れ"と"群体"の違いとは、何であると考えますか?」

 部屋の中を見回し、着席している六人だけでなく、第十三別室の者達からも、何かしらの回答が出ることを期待する。一瞬、視界に入ったイコベヴィアが、思わぬ場面で自身の言葉を引用されたことに苦笑をしている様が見えたが、それについて言いたいことがあるのであれば、それはこの授業が終わった後にしてもらいたい。今の私の目的は、ひとまずこの場にいる誰かをこちら側の陣営に引き込むこと、あるいはそのきっかけを作ることで、イコベヴィアの言葉を引用することの効果は高いはずなのだ。

 故に、イコベヴィアは今、発言を控えなければならない。この状況で私の質問に彼女が答えるということは、私の思想に少なからず賛同する意思を示したと捕らえられかねないからだ。

「────………無責任であることだ、と言いたいのでしょうか」

 少しの間を置いて、フィオリが答える。やはり、この女が最も引き込み易い人物という私の見立ては、間違っていない。立ち居振る舞いからして純粋な部類の性格をしているのだろう、と予想をしていたが、彼女のような純粋な者が他にもいるのだとすれば、案外、管理区画での勢力拡大も、そう難しいことではないかもしれない。

 不信感や嫌悪感を抱いている相手からの質問に答えられる真摯さというのは、説得され易いということでもある。真摯であるが故に、一度でも、わずかにでもそこに綻びが生じれば、瞬く間にその綻びは広がっていく。なぜなら、自身の抱く疑問や疑念に対しても、真正面から向き合ってしまうからだ。そして、人心を惑わす掌握術というのは、正にその綻びにこそ付け込むものである。

 フィオリの答えに、「正解としては不足が多いです」と返す。

「"群れ"と"群体"の違いとは、"絶対的な一つの意思によって動くか否か"です。"利己的な思想の有無"と言い換えても良いでしょう。無責任であるというのは、そこに付随する信念のようなもの────つまり、自身の主張に真摯である、という意味に捉えてください。

 わたくしにとって最も身近な"群体"であり、旧文明にてしばしば完璧な社会として見られていたという、蟻で喩えましょう。

 働き蟻の中には、怠惰なものたちが存在しています。他のものたちが働く中で、まともに仕事をこなさず、怠けているものたちです。

 しかし、社会コミュニティの労働者全員が常に一定の働きをするということは、疲労や不測の事態などで労働者が減った際に、代替が利かないという不安要素を孕むということでもあります。

 ではどうするのかと言うと、あらかじめそういった状況に備えて、補充要員となるものたちを確保しておけば良い。つまり、蟻の社会の怠けものというのは、社会によって"平時において怠ける"という役職を与えられたものたちである、ということです。そこにあるのが、社会を維持するための絶対的な一つの意思、ということになりますね。

 再度イコベヴィアの言葉を借りるのであれば、蟻の社会とは正に、完全監視社会パノプティコンであって、暗黒郷ディストピアとも、あるいは理想郷ユートピアであるとも言えるでしょう。

 故に、蟻の社会は、蟻の群体としてしか機能せず、群れと呼ぶには値しない。なぜなら、完璧な秩序による完璧な社会では、発展は望めないからです。そこには社会ぐんたいの維持という、唯一絶対の総意しか存在し得ないのですから。

 かつて異端と呼ばれた一部の者達によって、地動説が事実であるという新たな常識が生まれたように、社会よりも自身の好奇心と探求心を優先する利己的な思想によって、人の社会むれは前進します。人の社会むれというのは、輪を乱す者の存在がいて、初めて社会としての形態を獲得できるのです。

 個人の欲求を社会むれの秩序や幸福度よりも優先する利己的な思想が、時に社会を発展させていく。無責任であれ、というのは、そういう意味なのです。

 よって、初めの質問に対して、わたくしはこう答えます。人としての尊き利己主義でもって、自らの罪悪感に無責任であり続けたい、と。"群体"を構成する一部ではなく、"群れ"の中の一人として、、と。

 第十三別室は、正にその利己的な思想を、ノイドとフロスロイドに芽生えさせるためにこそ存在しなければなりません。いつか地上に出る日が来た時に、あなた方とわたくし達が、真の意味で共存できるように。極めて高い水準で人間性を与えられているあなた方が、真の意味で、人間的であれるように」


       ❅


 ああいう立ち回りは、私ではなくディアの役割だろう。

 そう頭の中で愚痴を零しながら、ベッドの上でヴィオラのマッサージを堪能する。頭の中も解してもらいたいくらいだが、そんなことを言って、本当に解剖でもされたら非常に困る。困るというか死んでしまう。

「壇上の凛々しさはどこに行ったのかしら。遊び疲れた子供みたいで可愛いけど。………疲れてるなら、お母さんと一緒に寝る?」

「いや、それはまた後で………」

 管理区画に来てからというもの、母の子煩悩振りが酷くなり続けているように感じるのは気のせいだろうか。いや、聖芽祭前後が特殊な状況だっただけで、元から親馬鹿と呼ばれる類の人ではあるのだが、最近はむしろ馬鹿親と言い表した方が適切にすら思えるほどだ。

「もう、なんていうか、こう、疲れたとしか言えない。私にああいうのは向かないと思うんだけどなぁ………」

「その割には、ずいぶんと饒舌だったように思いますが」

 頭の後ろからかけられたヴィオラの言葉に、「それはそれだよ」と適当に返す。

「あれはねぇ、うん、あれなんだよね。癖みたいな」

「癖?」

「そう、癖。私、昔からこんなだから、まともな話し相手って少なくてさ。結構人見知りするんだ。だから、大仰な話し方で演技をしてないと、足が竦んで息が詰まる。息が詰まると話せないから、話せる私に話してもらっているってわけ」

「………解離性同一性障害、というやつでしょうか」

 ヴィオラからの斜め上の診断に、声を上げて笑う。

「全然違うよ。ただ単純に、緊張しないように誤魔化してるだけ。そんなのに病名があったら、人の数だけ病気の数も増えて、医者とか心理学者とかが困るでしょ」

 もっとも、今の時代に心理学者はいないが。

 気の抜けた声を舌の上から転がり落とさせて、全身の筋肉が、緊張が和らいでいくのを感じる。このヴィオラというフロスロイドも、なかなかどうして、素晴らしい技術を持っているものだ。これは是非とも、味方にしなくてはならない。何よりも、私がこの至福の一時を過ごすために。

「これで紅茶やワインを好きなだけ飲めて、肉や新鮮な果物もお腹がはちきれるまで食べれたなら、もう言うことないんだけどなぁ」

 私の立場は、あくまで保護区画から管理区画へと移されたミクシードでしかない。無論、人間としての扱いは受けているが、優先すべきは保護区画内で生活している人間達である。故に、資源課で生産されている食料などが、私の下に多く届くということはない。ある程度の配給は現在も受け取ることができているが、食事の大半は、保護室に監禁されていた頃と何ら変わりはない。

「仕方ないわよ。食料生産量も、年々低下しているみたいだから。………でも、初仕事を頑張ったメディには、何かご褒美があるべきというのは賛成ね。レーズンか何かを支給してもらえるように、申請してこようかしら」

「それならリンゴがほしい」

「リンゴね。期待しないで待ってて」

 そう言い残して母が退出し、室内には私とヴィオラの二人だけが残される。

 グールグーは別室で旧文明の記録を漁っているし、エリスにはその隣で知識を蓄えるようにと言い渡してある。グファーは今回の授業内容を元に、次回必要になりそうな物品のリストアップをしてくれており、しばらくの間は、おそらく誰もこの部屋には入って来ることはないだろう。

 月経期間中を除いて、私はこの一月の間、最低限の知識の吸収に努めていた。"人間先生"を行うのに、フローラの中で得た情報だけしかない、というのは、あまりにも釣り合わないと考えたからだ。

 その成果と言えるかどうかはまだ分からないが、先程の初授業の内容は、それなりにうまく話せたと思っている。しかし、未知を知るというのは、快感よりも疲労感の方が圧倒的に強い。特に、閉ざされた直径二キロメートルの空間内で生まれ育った人間からすれば、なおのことだ。

「次回は八日後。早く次の授業内容の予定を、イコベヴィアに提出しないと」

「それは明日以降で問題ありません。今あなたがすべきことは、体を休め、万全な体調を維持することです」

「おかげ様で、疲れが取れていってるよ。皮肉や冗談じゃなくて、本当にね」

「それはなによりです」

 実際のところ、私がすべきことといえば、最終的な書類仕事と、壇上に立って舌先を上手く動かすことくらいだ。それも他の室員の業務進行状況によって左右されるため、ヴィオラが言うように、今の私にできることはない。今日の授業内容が、受講者の間で多少なりとも反響があったとしても、それが表に出るまでには、最低でも数日の時間を要するはずだ。

 であるならばと、ベッドの上でこれ以上ないというほどに脱力をして、心地の良いヴィオラの施術を受けながら、徐々に重くなる瞼をそのままにしておくことにする。

「………最初に見た時の印象と、少しだけ変わったかな」

 何がです?と抑揚のない声で問うヴィオラに、「君のことだよ」と活舌悪く答える。

「私の?」

「うん。もっと嫌われてると思ってたけど、意外と私の体を気遣ってくれてるから。この間も、ね」

 月経中の私の世話をしてくれたのは、母とヴィオラだった。ヴィオラは人類遺伝子学班の所属とはいえ、総合医療室の住人であることに変わりはない。専門的な医療知識はなくとも、最低限の、ということであれば、彼女の力は十分に過ぎるものだ。

「────………それが、私に与えられた役割ですので」

 少しの沈黙の後に、ヴィオラが小さく答える。やはり、今日の彼女は、少し普段と違う。いや、授業の後から、と言うべきだろうか。

 フィオリに対しては多少の手応えがあった、という確信を抱いたが、あるいはこれは、ヴィオラの精神の方を、先に揺らすことができたということなのだろうか。

 だとすれば、これは好機だ。今のこの彼女の状態は間違いなく一時的なもので、今後このような機会がまた訪れるという保証は無い。であれば、第十三別室室長としてではなく、イアソンの幼馴染で、ディアの友人で、エリスの共犯者であるメデイアとして、ヴィオラをここで洗脳することが、私がすべきことである。

「何か、言いたいこととか、聞きたいこととかがあるなら、答えられることなら答えるよ。マッサージのお礼にね」

 思わぬ好機に逸る鼓動を気取られぬように、努めて平静に、可能な限り軽い調子で、そう口にする。

 ヴィオラは私の背の上で、困惑している様子だった。ほんの一瞬だけ、息を呑む音が聞こえたのだ。それが何に対しての困惑なのか────おそらくは、自分にエラーが出てしまったのではないか、という小さな恐怖心からくるものなのだろう。彼女が私に何を言いたいのか、何を聞きたいのかは、ある程度の予想はつく。

「────いつか」

 ヴィオラが言う。

「いつか地上に出る日が来た時に、あなた達人間と、私達が、真の意味で共存できるように。極めて高い水準で人間性を与えられている私達が、真の意味で、人間的であれるように」

 先ほどの私の言葉を、復唱するように、彼女は口にした。

「あなたからすれば、私達は、蟻と同じような存在なのでしょうか。人類の未来を閉ざさぬようにと、ただ粛々と役割を果たすだけの私達には、人間と共に存在できるほどの価値は、無いのでしょうか」

「蟻にマッサージはできないと思うけど」

「真剣に質問をしているのです」

「私も、真剣に答えてる」

 何度も繰り返し目の当たりにしたことではあるが、彼女達、ノイドとフロスロイドにとって、私達人間というのは、自分達を生み出した神の子孫に等しい。その中の一人から否定された、と感じたのであれば、寄る辺を失ったと不安になるものなのかもしれない。

 八千年前、世界宗教と呼ばれるものを信仰していた人間達にも、苦境の中にあって、神に見捨てられたと嘆く者は少なくなかったようだし、ましてや、実際に彼ら彼女らの創造主は人間である、と確定しているのだ。その不安はきっと、長く神への信仰心を否定してきた私には想像できないほどに、大きいのだろう。

「完全な監視社会なんて、人間の中には存在し得ない。なぜなら、人間には確固たる、個々の人格があるから。絶対的な社会の総意っていうのは、本能のみで動いて、本能に直結した欲求しか持たない存在の中にしか生まれない。本能しかないなら、そこには確かな自我が芽生える隙間がないから。そしてそれは、虫くらいにしか当て嵌まらないことだと、私は思ってる。だって、君達にも、個々の人格があるでしょ」

 その、彼女の不安を利用しようとしている私は、果たして、清廉である彼ら彼女らが信仰するような人間の一人として、相応しい存在なのだろうか。

 何を弱気になっているのだ、私は。私の方が心を揺さ振られてどうする。こんなもの、笑い話どころか、獄中の暇潰しの小話にすらならないではないか。もっと厚顔に、傲慢に、いつものように、"私こそが人間である"と主張するんだ、メデイア。罪悪感に対して無責任であれ、と、自分で言ったばかりではないか。

「ですが、あなたは私達を指して、"群体を構成する一部である"と否定の意思を示しました。輪を乱す者がいない私達は、正にその、発展の望めない"群体"である、と」

 そういうつもりで言ったわけじゃないんだけど、と、表情を見られないよう枕に顔を埋める。

「エリスみたいなバグ個体だって、その"輪を乱す者"だと思うけどな。人間だって、皆が皆、私みたいにおかしいわけじゃないし。まぁ、でも、確かに、絶対的な総意の部分は、君達に当て嵌まるかもね」

 というより、その部分に関しては、そういう意味で間違いはない。しかし、蟻を喩えとして持ち出したことには、大して深い意図などなかったのだ。それにこれほどまでに強く反応するとは、失敗だったかもしれない。

「あの場で私が言いたかったのは、"いつか地上に出る時に備えて、君達も現状維持じゃなくて、色々と発展するべきだよね"って、その程度のことだよ」

 旧文明の技術の大半は再現不可能で、この先いつ、地上が人間の住める環境になるのかも分からない以上、コロニーを管理しているノイドとフロスロイドが技術力と科学を発展させなければならない。しかし、現状はそれに割けるリソースがなく、おそらくはそれが、極めて高い人間性を有しているノイドとフロスロイドが、人間的とは対角にある、群体的な社会構築を維持しなければならない理由なのだ。

 保護区画フローラの中で創作物が過度に制限されているのは、発想力の成長と飛躍による、科学の発展を危惧しているからである。世界の実情を知れば、必ず資源を巡って争いが起こる。それを回避するためにとフローラを閉ざしているわけだが、正にこれこそが、人類の守護者が人類の守護者であり続けるために必要不可欠であるはずの、技術の再現や科学の発展というに割ける時間的、人的リソースを失う理由となっている。

 であるならば、八千年前に与えられた人間かみの命令に背いてでも、フローラを解放してしまうのも一つの手段だ。

 資源が足りず、また年々生産量が低下している現状で、一万四千四百もの人数を、コロニーとしての労働力に数えられないのは、あまりにも痛手である。労働力が増えれば、コロニーの拡張や、それに伴う生産区画の増設なども、多少は現実味を帯びてくるというものだ。

 そして、それには発想力の成長と飛躍が必要で、その根幹には、他よりも個人を優先する利己的な思想がなければならない。"群れ"の秩序の、その輪を乱す者がいなくてはならないのだ────と、ヴィオラに語る。

 無論、これらは全て、私と、ディアと、エリスの目的を完遂するための計画の一部であって、人類の未来など、微塵も興味はないのだが。

「………主張は、きっと、正しいのだと思います。でもそこに、あなたの本心は無い」

 私への質問の返答を聞いたヴィオラは、そう言葉を放った。そして彼女は、こう続ける。「正しく異常であり続けたいと望むあなたは、何を成したいのですか?」────と。

 この問いに対する回答を間違えれば、全ての計画が崩れ去るような、そんな気がした。

 彼女は、ヴィオラは、今、値踏みをしているのだ。私という人間が、ただの狂人なのか、信念に揺らぎのない狂人なのか、人間的な狂人なのか、それを見極めようとしている。酷い内容の質問だ。どう答えようとも、私は、自分が正気ではないということを、彼女に明かすことになるのだから。

 いや、それはきっと、もうすでに、全員が知っていることだ。私の頭が狂っていなかったのなら、今頃きっと、イアソンとでも婚約して、結婚の準備を進めていたはずで、そうなっていないということは、つまり、そういうことなのだろう。

 正しく異常であり続けたい。私のこの言葉は、ある意味自己暗示のようなものだ。自分が正常でないことは理解している。では、正しく異常であれているのだろうか。この先も、正しく異常であり続けることができるのだろうか、と。

 私は、無責任な目的を掲げて無責任に行動する者として、罪悪感に対し、無責任でなければならない。なぜなら、そう言い聞かせなければ、恐怖に押し潰されて、殺されてしまうのだから。

 排他的で、利己主義に染まっていて、必要であれば親しい者であっても切り捨てることができ、時には他者の命をも奪う覚悟が、自分にはあるのだ────と、そう言い聞かせていなければ、人類の未来を守るという絶対的な正義の前で、立っていることもできない。私はそういう、臆病者で、小心者な人間なのだ。

 そして、ヴィオラとの間に数十秒の沈黙を流してから、彼女の問いに答える。十年前から決まっている、私の定型文のような回答を。

「私は、ただ、私でいたいだけ。さっきはまるで、"人類の発展のために"みたいな大それたことを話したけど、そんなもの私には背負えないし、正直あまり興味もない。私は────」

 熱と痛みに目が覚めたあの日のあの夜以来、私の居場所は、どこにもありはしなかった。私の求める世界が私の中にしかないのなら、それすら否定して、放棄してしまったら、メデイアというつまらない少女は、どこに消えてしまうのだろう。

「────私は、そう………。きっと、否定しないでほしいだけなんだと思う。気兼ねなく好きなことができるような、そんな世界がほしいだけ。子供の頃の私が、いろんな物語を読んで目を輝かせていたみたいに、これからの私もそうありたいって、それだけ。だからこれは、そういう呪い」

 そのためには、この終わりかけている世界の中で、正しく異常であり続ける必要がある。人間的な狂人であり続ける必要がある。きっと、八千年前に使い古されてしまったのであろう言葉たちを用いて、罪悪感や恐怖への感覚が、麻痺するようにと。

 そこで、対立的な立場にあるヴィオラに何を口走っているのだ、と冷静になるが、もう遅い。失敗だ。本心の全てを明かしたわけではないにせよ、その一部でも語ってしまった以上、私がまだ何かを計画しているという事実は、もう知られてしまったに違いない。

 感情のコントロールが、自制が効かないという欠点が、こんな場面で敗北に繋がるとは、私はどこまで愚鈍な女なのだ。イアソンに、ディアに、エリスに顔向けができない。私が放置していた欠点が原因で、共犯者全員が、目的を果たせぬままに、人生を閉ざされてしまう。私が私であることも、終わる。終わってしまう。

 どうしよう、どうする、どうするべきだ、と俯せの状態のまま、頭の中を引っ掻き回す。しかし一度絡まった思考を元に戻すのは困難で、もう、私にはどうすることもできなかった。

「────………あなたに」

 ヴィオラの声に小さく肩を揺らす。彼女はいつの間にか施術を止めていて、ゆっくりと、私の背から床へと移動しようとしていた。

 何か、何か上手い言い訳の一つでもないだろうか。そうやって、文章にならない言葉の断片だけを無作為に唇の隙間から押し出して、どうにか彼女を引き留めようとしてみる。少々強引であっても、ここでヴィオラを味方につけなければ、イコベヴィアに報告されて、第十三別室は閉鎖されて、私は一生、死ぬまで保護室で監禁されて、イアソンも、ディアも、エリスも、"ピアネータ"も、きっと父も母も、同じような処罰を受けることになってしまう。

 殺してしまった方が良いのでは、という考えが一瞬頭を過るが、私が犯人であるなどということは、すぐに発覚してしまうだろう。コロニーのことなど知らなった頃であればいざ知らず、今の私の立場でのそれは、愚策中の愚策だ。

 そんなふうに焦る私が見えていないのか────いや、相手にする必要すらないと判断しているのだろうが────やがて彼女は、小さく唇の端を上げて、優しく微笑んだ。

「今、あなたに少し、興味を抱きました」

 ────………へ?と、おそらく、今までの人生の中で、最も頭の悪そうな声が、無意識に発せられる。今、この女は何を言ったのだと、脳の情報処理能力が許容上限を迎えて、ヴィオラの言葉への理解を遅らせているのが分かる。

 私に、少し、興味を抱いた────と、そう言ったのだろうか。

「え………っと。私、今、結構なことを言った、と、思うんだけど………」

「そうですね。簡潔に纏めると、"物語を書きたいから、ホワイト=シンクの今の状況を根本から覆したい"………とでもなるでしょうか。正に、人類という種の保存に対し致命的となり得る行為、ですね」

「そうだよね、言っちゃったよね、私」

「はい、言ってましたね」

 なら、この対応は正しくないだろう。私は今、正に、彼ら彼女らの存在意義と反する目的を持っている、と明かしてしまったところなのだ。ヴィオラが取るべき行動は、イコベヴィアか、その三人の補佐に報告をして、私の処罰を待つことのはずである。

「あなたは、聞いていたよりもずっと、普通の子供のようです。頭の良い、馬鹿で純粋な、子供」

 これは、罵倒されているのだろうか。いや、頭の良い馬鹿など、そんな文面からして矛盾している存在などがいては、たまったものではない。

「………私、フローラの基準だと、一応成人してるんだけど」

 ようやく捻り出した言葉がこれなのだから、なるほど、確かに私は馬鹿ではあるのだろう。その私の一言に、ヴィオラは「私達からすれば、十分子供です」と笑って、視線を合わせて、手を握ってくる。

「あなたがの、夢見がちで人間的なただの子供であるならば、敵対心を抱く理由も、否定する理由もありません」

 私達は、人類の守護者なのですから────と、ヴィオラは続ける。

 正答を出すことができたのだろうか、などと考える余裕は無かった。私を否定する理由が無い、と、そんな言葉を、まさかフロスロイドの口から、直接聞くことができるとは。

 正しくはなくとも、間違ってもいない。そう言われたように思えて、少しだけ、気が楽になる。

 やはり、最初の印象から、ずいぶんと雰囲気が変わった。今のヴィオラは、ディアとは違った方向性の、姉のようにも感じる。きっと、こちらの方が、彼女の素なのだろう。

 優しく、温かく、きっとどこまでも清純で、人間よりも人類を想い、人類よりも人間を想える、風に揺れる萌芽の使者。

 いつか私が描いていた物語に出てくるような、花の女神のようだ────不覚にも、ヴィオラに対し、そんな感覚を抱いてしまう。神への信仰心など、私から最も縁遠くあるべき感情のはずだというのに。

「聞かせてもらえますか?あなたを人間たらしめているものの、その話を」

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