CHAPTER XVIII

 午前七時ちょうどになると滅菌された保護室の扉が開いて、白い廊下へと体を出し、椅子に座り、テーブルに朝食が運ばれてくる様子を見るともなしに見て、監視の中で食事を終える。それがここでの、私の一日の始まりだ。

「おはよう、メディ」

 私が食事を終えるのを待っていた母に「おはよう」と返して、オレンジ色に近い黄色の髪を弄んでいるフロスロイド────ヴィオラにちらと視線を送り、通路に出て、あくびをしながら足を動かす。

 一月二十四日。管理区画に来て、約一月が経過した。保護区画内では新年祭も萌芽の祝日もとうに終わって、いつも通りの日常が送られていることだろう。一部の、私の友人達を除いて、だが。

 ディアはあの後、エスト=アガタ男爵家と縁を切られたと聞いている。当然、彼女の両親も、本館の使用人達も、その真の理由は知らないままに。どうやら私の木札の件は公表され、それに関与したために罪に問われたということになっているらしいが、東三区へのこれまでの貢献によって恩赦を受け、エスト=アガタ男爵家との絶縁のみで済んだ、と納得させたようだ。

 その後のディアとラウラは、度々アンブラ=ペタラでそれらしい人物を見たという程度の目撃情報しかない………というのが、フローラ内で得られる彼女達の最新の情報である。あの夜に起きた出来事を公にするわけにもいかず、ディアに保護区画内での地位を与えたままにもできないとなると、したということにするか、あるいは偽の罪を作り上げるくらいしか、彼女への処罰として取れる択はなかったということだろう。

 当然、管理区画では散布型ナノマシン・テラステラによる生体情報の追跡をしており、彼女達がとある娼館で生活をしているということは知られている。テラステラによる監視は位置情報と最低限の生体情報の程度のものだが、それだけでもどこでどのように生活をしているのか、ということくらいは分かるものだ。

 とはいえ、現在ホワイト=シンクを管理しているノイドとフロスロイドは、五百九十九人しかいない。この少人数で保護区画内の一万四千四百人の行動を完全に把握することなど不可能なのだから、これ以上の強い介入はないものだと考えて問題ないだろう。

 不安があるとすれば、それはディア達よりもイアソンの方だ。あの夜はディアの館にイコベヴィア達の目を向けられていて、さらに、エリスの存在によって執務室にいた面々以外の全ての人間のエリアルシートが使用できない状態だったからこそ、イアソン達は協力者の下へと辿り着くことができた。しかし状況が落ち着いた今では、彼らの生体情報は監視されており、実際にイアソン達がどこにいるのかは筒抜けになってしまっている。

 この問題は予想してはいたのだが、解決策であるエリスのエリアルシートへの権限に関する交渉は、さすがに即日決定とはいかないらしく、結局今日まで引き延ばされてしまっていた。その何度目かのイコベヴィアとの交渉のためにと、今日も殺風景な部屋へと向かわなければならない。

 ホワイト=シンクは五層構造になっており、保護区画フローラを含めた"中央管制課"に属している各部署のほとんどが、今いる第三層に置かれているらしい。この一月で訪れたことのある場所は多くはないが、"制御管理室"の"総務班"、"旧文明研究室"の"記録班"、"総合医療室"の"医務班"と"内科班"、"ウィルス調査班"、そして"人類遺伝子学班"の部屋はすでに見ている。一月前に地上に出た際に、私に妙な服を着せたり、あの動く床────リフトと言うらしい────を動かしていたらしいフロスロイド達が所属している"地上監視班"も、中央管制課の一部であるのだとか。

 私と母の前を歩くヴィオラは人類遺伝子学班の所属で、こちらでの私の世話役というか、監視役といったところだ。まだ会話らしい会話をしたことはないが、仕事だから従っている、というだけで、私に対しては特に興味らしい興味を抱いていないようにも見える。計画を進めるためには、管理区画でエリス以外の協力者を得る必要があるが、監視役であるヴィオラを先に取り込むことを考えた方が良いだろうか。

 いくつかの階段を上り下りし、右へ左へと曲がる。

 これから行くのは制御管理室総務班の一室で、通常は中央管制課の役職員会議などで使用される部屋であるらしいのだが、私とイコベヴィアの交渉の続きが行われている場でもあった。

 しかし、同じ第三層の中にあるとは言っても、その第三層だけでも何階にも分かれているのだ。加えて、現在の私の自室ともいうべきミクシード用の滅菌保護室は人類遺伝子学班の管轄下にあり、制御管理室総務班会議室とは少し離れているため、辿り着くまでにそれなりの時間を要する。道中でエリスが監禁されている"保護区画管理室植生管理班"の部屋に寄って彼女を同行させる必要があるので、到着する頃には、八時前後になっているかもしれない。

「こっちでの生活には、もう慣れた?」

 隣を歩く母の質問に「どうかな」と答え、白く、上下左右の判別がつかなくなりそうな保護室を思い浮かべる。ベッドにテーブル、椅子も備わっていて、部屋の中には個室のトイレやお湯の出る筒────確かシャワーとか言ったか────で体を洗える部屋などもあり、一日に三度も食事を摂れて、生命維持という点だけを見れば申し分ない。しかし、トイレも体洗い場も含めて、壁の一面がガラス張りになっているせいで、常に行動を監視されていて心が落ち着かない。様々な検査やら調査やら以外の時間は全てあの部屋の中に閉じ込められているのだ。誰だって、そんな状態に慣れたくはないだろう。

「フローラの景色と違って、こっちはどこも殺風景だから。慣れるにはもう少し時間がかかるかも」

 保護室は一つではない。防音設計がどうのとかで外の音は聞こえないが、フローラで極刑を言い渡された人間がされている部屋もあるはずだ。確か、私が生まれるよりも前に、強盗と強姦と殺人の罪で捕らえられて極刑を言い渡された男がいたと、以前噂か何かで聞いた覚えがある。三十年以上も昔の話なのでその男が今も保護室内で生きているかは分からないが、生きていたとしたら、自分の行いを省みて、後悔していることだろう。何しろ、あの部屋には本当に何もないのだ。室内ではエリアルシートは使えないし、娯楽と呼べるものなど、食事と睡眠くらいしかない。食事は確かにフローラのものよりも腹は満たせるが、それも一月あれば日常になってしまう程度だし、睡眠は娯楽にするには不向きだ。そんな気が狂いそうになるほどに虚ろな日々を三十年も続けていれば、どんな人でなしであっても、過去の自分を殴って止めてやりたくなるというものだろう。慣れとはつまり、慢性化した非日常のことだ。

 ゆえに私は、今の非日常が慢性化する前に、計画を完遂させなければならない。未来の私が今の私を否定しないように。この緊張感と高揚感に慣れてしまう前に。

 植生管理班が置かれている区域に入り、しばらくすると、ソファとテーブルのある休憩所────エリスはラウンジと呼んでいた────が見えてくる。エリスの自室は現在、監禁室のような扱いになっており、私と同じで、許可が下りなければ外にも出られないような状況だ。

 ヴィオラが扉を開き、中からエリスが現れる。

「おはようございます、メデイアさん」

「うん、おはよう。………やっぱり見慣れないな、その服」

 通路を総務班会議室の方向へと進みながら、彼女の装いを観察する。

 エリスの服装はフローラで見たものとはまるで違い、神が纏う神聖な礼服というよりは、貴族の身を包む正装と言った方が近いように見える。私に与られているものもそれと似たような服ばかりだが、生神としての彼女を見たことがある分、異質さというか、不自然さを感じてしまう。

「こちら側だと、私やキキリキさんを含めて、皆こんな感じだと思いますけど………」

「だからなおさら、かな。というより、フローラの時の服の方が似合うなぁって思って、頭の中で一致しない」

「でも私、ああいうひらひらした服は、あんまり好きじゃなんですよね。なんというか、こう、病院着みたいで」

 病院着………?と首を傾げると、母が隣から顔を出してきて、「旧文明の病院は、入院患者に着やすくて脱ぎやすい服を貸していたらしいわ」と説明をしてくれた。患者専用の服とはずいぶん余裕のある世界だったのだろう、と、かつての地上の風景を想像し、あの白い景色の中に重ねてみる。

 八千年前には、フローラの天蓋よりも高い建造物が並ぶ大都市がいくつもあったと聞くが、"イカロスとニムロド"に登場する巨大な塔などは、それらの知識が伝承として語り継がれた末の姿なのかもしれない。

「それで、メディ。私に対する感想はないの?」

 母が若干胸を張って、自分の服装に新鮮さくらいは感じるだろうと鼻を鳴らす。

 確かに母は美人だし、こちらの服も似合っているのだが、やはり不自然さの方をより強く感じる。エリスとはこれで数回目の顔合わせだが、母とは十数年共に生活していたのだ。普段の布切れを繋ぎ合わせたような服装しか知らないところにいきなり、となると、私の反応も自然なものだろう。

「似合ってはいるけどさ。お母さんも、それを着るのは初めてなんでしょ。というか、何でそんなに自慢げなの?」

「メディは凄く似合ってるわよ。とても可愛い」

 母の言葉にエリスが「確かに可愛いですけど」と反論する。

「メデイアさんは、もっとドレスみたいな服の方が似合うと思います」

「嫌だよ、あんな動き辛いの。この服だって窮屈なのに」

「駄目です、絶対に似合います」

 エリスの隣で、母が「確かに、聖芽祭の礼服も良かったし、ディアナさんのところで着たっていうドレスも、絶対に可愛いはずね」と同調する。そういえば、この二人はあの時の私を見ていないのだったか。いや、見てほしいというわけではないが。というよりむしろ、恥ずかしさが勝るので見られなくて良かったとさえ思う。

 しかし、ドレスを着せられた際には、ディアやラウラだけでなく、"ピアネータ"の面々も「世辞ではなく、本当にお綺麗ですよ」と私を褒め殺していたが、もしや私も、それなりに美人と呼ばれる部類に属しているのだろうか。

 いや、ディア達はあの後、すぐに良いいたずら道具を見つけたと言わんばかりに私をからかっていたし、やはりそうでもないのだろう。ただ、ミクシードの特性と、これまで目にしたフロスロイドの外見から考えると、普通に生きていれば、案外嫁の貰い手は多かったのかもしれない。あくまで平均よりは良い女、という程度ではあるだろうが。無論、良い女というのは外見だけで、性格は問題しかないのだが。

「まあ、私の見た目って、本当にフロスロイドに似てるみたいだし。四季祭でフロスロイドが着るみたいな礼服を着ても、そんなに変ではないはずだけど」

 だが、私を着せ替えて遊ぶのはやめてもらいたい。今の服か、もう少し動きやすい恰好ならそれで十分なのだ。だから、二人で「新しい服の支給を申請しようか」などと相談をする必要はない。そもそも、資源不足が深刻らしいというホワイト=シンクのその管理側にいる者達が、一人の小娘で着せ替え遊びをしたいという理由で服の申請などしても、それが受理されることはないだろう。ないはずだ。

「色んな服を着せるなら、それこそディアとかみたいに、超絶美人の方が良いと思うんだけどなぁ」

「メディは、綺麗というより可愛いって言った方が正しいから。似合う服の範囲もきっと広いわ。ああ、文明が滅びてさえいなければ、資料で見た服とかも着せてあげられたのに」

「………お母さんって、ええと、何だっけ。そう、保護区画管理室治安管理班?ってところに所属してたんだよね。神官の、こっちでの立場のことだけど」

「そうね。神官筋が治安管理官で、生神が植生管理官。それがどうしたの?」

「何でそんなにこっちのこととか、旧文明のこととか、色々知ってるの?フルートってやつに入ると知れるの?」

 近いけど………と、指を立てて、それから再度胸を張る母。

「こちら側に来てからの一月で、資料を見せてもらったから、かしら。服とか食べ物とか、そういうのは、再構築後の情報学習ラーニングには入っていないし」

 以前エリスが"今の私はまだ一年くらいしか生きていない"と言っていたことを思い出す。その後に感じた彼女が持っている情報や知識の偏りなどから考えると、再構築後に与えられるそれらは、やはり旧文明基本的の部分に関してやホワイト=シンクのこと、そして存在意義使命くらいなのだろう。

 加えて、確かノイドは、記憶核とやらの透写ができないのだと記憶している。とすると、母は本当に、一月で旧文明に関するある程度の知識を得た、ということになる。

「服は別として、食べ物には興味あるかも。どんなのがあったの?」

 これ以上服の話題を続けるのは、私の尊厳的な意味で得策ではない、と話題を変える。とはいえ、旧文明の食事に興味があるのも事実だ。今まで生きてきた中で最も美味だと感じたものといえば、一月前のジャムやスモークジャーキーは忘れられないが、一時は百億人もの人間達が生きていたのだから、あれ以上の美食があってしかるべき、だろう。

 母が唇に指を当てて、資料から得た過去の食事文化を口にしていく。

「そうね、たとえば………」


       ❅


 総務班会議室の扉をヴィオラが開いて、私と母、エリスの三人が中へと入る。そこにはすでにイコベヴィアの姿があったが、普段の彼女とは違い、頭を押さえて、酔い過ぎた遊び人のようによろめいていた。

「………イコベヴィア?」

 しかし、無事かどうかと確認する前に彼女は平静さを取り戻したようで、普段通りの、ディアに似た余裕のある態度を見せる。フロスロイドも頭痛に悩まされることがあるのか、と意外に思いつつ、一瞬、フレークスがコロニー内に入ってきたのではと考える。しかし、人間よりもフレークスへの耐性があるらしいイコベヴィアの方に先に影響が出るのは不自然だ、とその可能性を否定し、今の私の知識では原因を探ろうとするだけ時間の無駄だと思考を切り替える。今日こそは、エリスのエリアルシートに関する交渉に、決着をつけなくてはならない。

 この交渉は建前上、ディアが"寝覚めが悪いから"という理由で約束させた、私とエリスの最低限の自由の保障に関連する問題、ということになっている。しかし、イコベヴィアも他の者達も私が何かを企てているということに気づいている以上、どうしても腹の探り合いになってしまう。この四人がこの部屋で、同じ議論について集まるのも今回で四度目だが、必要以上に時間を浪費してしまっている原因のほとんどはこれだ。

「六日ぶりですね、メデイア。調子が良さそうで安心しました。こちらの食事は、保護区画内のものと比べても味気ないでしょう?」

「あなたの方は、あまり調子が良くなさそうですね。それに、フローラの食事がこちらのものよりも上等というのは、貴族や商家くらいにしか当て嵌まらない話です」

 味気がないというのは同意するが、毎日必ず、少量の肉と野菜を口にすることができるという点では、こちらの食事の方が豪華とすら言える。いや、それはおそらく、私が保護対象であるからなのだろうが。

「先ほどのあれ・・は、人間で言うところの立ち眩みのようなものですから、調子が悪いというほどのことではありません」

 イコベヴィアが着席し、この無意味な話題を終わらせたいとの意思表示をする。彼女の正面に私、右隣にエリス、左に母という並びで座り、ふと、そういえば、娼館街や貧民街ではどのような食事が普通なのだろうという、テオドラやセラフィナか、ロゼッタにでも質問すれば解決できるような疑問が浮かぶ。実家での私の食事風景も質素そのものだったが、あれよりも貧しい食生活となると、それはもはや食事とすら呼べない。

 今でなくても良いことだが、聞いてみるか………と、イコベヴィアを見る。

「聞きたかったんだけど、娼館街や貧民街なんて病気が蔓延しそうな場所を、どうして野放しにしてるの?」

 伝染病で牛の数が激減した際にも、フローラではそういった場所が原因ではないかと噂になっていたという。人類の守護が使命だと言っているが、それならばもう少し、平均生活水準を向上させようという意思くらいは見せても良いのではないだろうか。

「病原菌の発生源となるのは、何もそういった区域だけではありません。中世的と言いつつ下水設備などは過去の技術によるものを使用していますが、排泄物が溜まる場所というのも、発生源の一つですから」

 加えて、コロニー全体の問題である、資源の不足もある。それによって貴族や商家ではない、平民の平均栄養摂取量は改善されず、それどころか、年々下がっているのだ────と、イコベヴィアは答える。そして容易に育つ作物の生産量を増やし、結果として質も落ちてしまっているのだ、と。

 確かに、ディアも"茶葉の質が落ちている"と不満そうにしていたな、と思い出す。イコベヴィアは「生産量と質を同時に向上させるような余裕は、今の時代にはありません。そして、どちらか一方だけでも改善を、となると、前者を選ぶのが自然でしょう」と、ホワイト=シンクの食糧資源が限界に達しつつあるのだと語る。

 以前はコロニーの拡張なども検討されていたらしいが、現代に残された機材だけでは旧文明の技術を再現することは不可能に近く、結局は頓挫している。結果、コロニー全体として資源の確保が困難になっており、それはもう長い間続いているのだという。

 エリスが言っていた、"管理区画での資源不足"というやつか、と右隣をちらと見やる私に、イコベヴィアが「それに」と言葉を続ける。

「ある程度の格差がなければ、人の社会とは言えません。私達が人類に対して保障すべき生存領域は理想郷ユートピアでも暗黒郷ディストピアでもなく、まして完全監視社会パノプティコンであってもなりませんから」

 理想郷にも暗黒郷にも救いはなく、それだけが、世界の唯一の救いなのだ────と、イコベヴィア。彼女は私の瞳の奥から視線を外さずに、さらに言葉を紡ぐ。

「メデイア」

「何でしょうか」

「私達、フロスロイドとノイドには、根本的な意味で、感情というものがありません。………いえ、感情を育む時間が無かった、と言うべきでしょうか」

 彼ら彼女らと、私達人間の最大の違いは、存在意義が確立しているか否かにある。人間は欲や保身のためにしばしば自身の存在価値を下げる行為をするが、ノイドとフロスロイドにはそれがない。そして、欲が無いということは、発展が望めないということでもある。人間は自身の欲のために行動し、時に破滅を迎え、そうでなかった者達が、かつての文明を築いていったのだ。

 しかし、それは彼ら彼女らに人間的な感情を育む時間的余裕が無かった、というだけのことであり、八千年の歴史の中には、高い人間性ではなく、確かな人間性を得た、あるいはその一歩手前にまで辿り着いた者も、少なからずいる。たとえば、私の母のように。

 だが、結局のところ、彼ら彼女らは文明再興の未来を、の人間に託すことにした。正しく求めさえすれば手に入ったであろう、非合理的で利己的な、文明の発展に不可欠な人間性よりも、生まれつき与えられる使命に従事することを選んだ。

「………だから、エリアルシートのページ番号を、わざわざ予想できるようにしていたの?」

 意識せず、普段の口調で質問をする。

 ディアの館でエリスの話を聞いた時から、ずっと不思議に思っていた、些細な疑問だ。

 発想の飛躍が、思考能力の向上が、今のホワイト=シンクを滅ぼしかねない毒薬となるのなら、なぜ、エリアルシートのページ番号を、時間をかければ解読できてしまえる程度のものにしていたのか。それも、私程度の頭の出来で、だ。

 あれは、あるいは、地上が再び人類にとっての真の楽園となった時のための、ではないの、が、文明復古を果たすその初めの一歩を踏み出すための、試練のようなものだったのではないか。世界が再び文明を許容できるようになった時代に、それを理解できるだけの知識や発想、思考を有している者を見つけて、段階を踏んで、この星の歴史を教え、毒を薬に変えて、ホワイト=シンクを人間自身の手で解放してもらうために。

 そうであるならば、それは同時に、真逆の役割も担うことになる。

 つまり、未だ雪と氷が溶けやらぬうちに、文明復古と再発展には時期尚早であると判断された場合に、毒を毒のまま蔓延させてしまうようなを見つけてあぶり出して、速やかにをするという役割だ。

 二年前のあの日のことも、エリスに聞いた罪人の行く末も、ノイドとフロスロイドにとっては、人類の守護という大義の前の障害に過ぎない。少数の犠牲で多数が救われるのならば、この死が包み込む時代では、これ以上の正答は無い。彼ら彼女らにとって、人間は自分達の創造主で、明確な存在意義を与えた、神にも等しい存在なのだ。それが失われることはあってはならず、人類の守護という使命そのものが存在意義であり、存在意義を与えてくれるものでもあるのだろう。

「メデイア。あなたは………」

 イコベヴィアが不自然に言葉を切る。その先を口にする必要は無い。彼女が何を言おうと、私が返す言葉は「それでも」の一言しかあり得ないのだ。なぜなら彼女は絶対的に正しく、私は絶対的に誤っているのだから。

「………あなたは、エリスを私の代わりに、ホワイト=シンク統合管理長にしようと考えている。違いますか?」

 やはり、この女は気づいていた。私の目的を果たすために必要な要因の一つが、エリスをイコベヴィアの地位に立たせることである、と。そしてそれは、毒を毒のまま広めることを意味している。

 左隣の母も私達の計画を予想していたのか、イコベヴィアの言葉への反応は弱い。

「うん。私達は、君を引き摺り下ろして、に毒を蒔くために来た」

 だから、エリスのエリアルシートに対する権限を、より上位のものに変えてほしい────と、言葉を飾らずに伝える。

 イコベヴィアは、神などと呼ばれるような存在ではない。むしろ、神の傀儡であることを是とする、純朴で忠実な子供のような女だ。それはきっと、他のノイドやフロスロイドも同じで、彼ら彼女らはただ、八千年前の人間かみがコロニーに押し込めただけの、私達の歴史が続くことを願っているだけの人達で、私はそれを脅かす人間なのだ。

 だが、今ここで、私が陳腐な罪悪感を表に出すことは、私自身への侮辱以外の何にもならない。彼女は絶対的に正しく、私は絶対的に誤っているが、、私はフローラの壁を越えて来てしまった。

、私は構いません。今がではないにせよ、いずれにしても、いつかは何かを変えなくてはならない。それが今だというのなら────」

 ではないのために。ではないのために。その時に、そしてその先も、人間と共に在れるように………と、イコベヴィア。

「エリスの持つアクセス権限のアップグレード申請を、受理しても構いません。………こちらの条件を、受け入れてもらえるのであれば」

 現在の彼ら彼女らの知性の礎となったのは、八千年前にバイオナノマシンの臨床実験を行った際の、普通の人間達であるらしい。緩やかに訪れるはずだった氷期という地球規模の問題が原因で、その成果はあと一歩届かなかったが、しかし、ミクシードの存在は、ノイドとフロスロイドが確かな人間性を育むきっかけとなるかもしれないのだという。

「条件は?」

 そう遠くないうちに、イコベヴィアとのも破れるだろう。彼女がこちらの条件を受け入れたのも、いつかの誰かがこちら側で育つための下地を作るための、最低限の危険を冒しただけに過ぎない。そしてその下地とやらを作るのが、私に提示される交換条件のはずだ。

「あなたに、私達の教師になってもらいたいのです。私達があなた達を真に理解し、ができるように、私達に、人間を教えてはくれませんか」

 それはつまり、ノイドとフロスロイドの存在意義に背くような思考を植えつけろ、ということだ。

「良いの?私の、こっち側での協力者探しに、手を貸すようなものだけど」

 イコベヴィアもそろそろ、私という人間の内面を理解し始めている頃だ。私が、どうしようもない、救いようのない女だと、もう知っているはずだ。その上でこの条件を提示するというのは、ホワイト=シンクが、人類の未来が、どうなっても構わないと言っているようなものだろう。

「いいえ。たとえ私達がより人間的になったとしても、その上で、必ず人類を守ります」

 それもまた、今ある存在意義の中に、自身の価値を見出しているからこその発言だ。それが揺らげば、他の誰でもない、自分という個人を優先するようになるのは、エリスを見ても明らかだろう。いや、エリスの場合は、使命が"前世"に関することに置き換わっているというだけかもしれないが、そこに大きな違いはない。彼ら彼女らが他者にんげんよりも自身を優先するようになったのならば、それは間違いなく、人間の歴史の最後の灯が消え始める前兆だ。

「分かった。良いよ」

 彼女がどうあっても人類の守護者であろうとするのなら、私も今まで通り、どうあっても無責任でいるべきだ。きっと彼女が私に求めているものは、その中にあるはずなのだから。

「君の望み通り、私が、こっち側の皆に、人間のことを教えてあげる」

 そして必ず、母も含めて、私達が今まさに転げ落ちている坂道に、引き摺り込んでみせよう。


 会議室を出ると、時刻は午前九時十二分になっていた。

 この後はいつものように、再び保護室に戻らなければならない。しかしそれも、数時間か、あるいは数日で終わる。もう、すぐにでも終わって、始まるのだ。

 ようやく、私達の方も、計画を始められる。少しばかり時間は必要だろうが、ディア達にはその間、フローラでの勢力拡大に専念してもらおう。

 時が来れば、私達は、フローラの人間に全てを公表して、創作の自由と、恋愛の自由と、想像と空想の自由と、生活の自由と、尊厳の自由の旗を掲げる自由軍リベルタスとして、管理側と正面から対立しなければならないのだから。

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