INTERVAL
今の時代の人間が知らないような材質で作られた、蝋燭とは違う、フローラの天蓋とおそらく同じであろう灯りに照らされている、長く白い廊下を進む。先頭にオレンジの髪のフロスロイド、私、母、エリス、そして黒髪のノイドという一行は、脇道に逸れたり直進したり、上ったり下ったりを繰り返して、ついにとある一室の前に到達する。
どこかに誰かがいて開閉操作をしているのか、扉が横に滑るようにして開き、先頭にいたフロスロイドの一言で、私達三人はその部屋の中へと足を踏み入れる。白く、白く、精巧な正六面体の中のような、殺風景なその部屋の中央には、石のようで石ではない何かで形成された椅子と長机が置かれていて、なるほど、ここは尋問室のような場所なのだろうと予想ができた。
椅子に座り、数分、数十分とその時を待ち続ける。ここが尋問室だというのであれば足りないのは尋問官の存在で、そしてその尋問官はきっと、私が長年恨み続けて顔を見たいと考えていたもの、あるいはそれに近しいものであるはずだった。
ここは、管理区画内にある一室だ。おそらくは保護区画内で極刑を言い渡された人間が、神域に送られた後で最初に辿り着く場所。私のような人間が神域に入った際に初めに通らなければならない部屋で、例えるならば、煉獄とでもなるだろうか。通常はこのまま監視室に移送されて終わりだが、今の私達は、一応は交渉の続きという名目でここに来ているのだから、ある意味では私達が、このホワイト=シンクの煉獄を正しく体験する初めての存在なのかもしれない。
正面の壁の一部が左右に開く。フローラとは根本からして異なるからくり仕掛けのこちら側の扉は、その開閉時に、石を擦っているかのような不安感を掻き立てる音を小さく発するのが普通であるようだ。
開いた扉から私達の前に現れたのは、やはり一人のフロスロイドだった。彼女と他の者との違う点を挙げるとするならば、全身が白一色であるということくらいだろうか。わずかに見えている手や首、顔といった皮膚と、フロスロイド特有の黄緑色の虹彩、そして文字のようにも見える衣服の刺繍以外では、髪も服の色も、全てが白で統一されている。
「イコベヴィア………」
隣のエリスが呟く。それと同時に母が立ち上がり、この女がイコベヴィアか、と無意識に睨む私を母が肘で小突いて止め、三人でイコベヴィアの前に並ぶ。
「数日振りですね、エリス。戻ってきてくれて安心しました」
イコベヴィアがエリスに視線を向け、柔らかく笑う。ディアの館での文面からもう少し事務的な人物像を思い描いていたのだが、どちらかといえば、この女からはディアに近い雰囲気を感じる。柔和に温和に温厚に、余裕と笑顔をもって会話を進める、そういう雰囲気を。
「あなたがキキリキ・アーロナ=ガデですね」
母をちらりと見る。ノイドは平民落ちの際に本来の名を名乗ることを禁じられるらしいので、今イコベヴィアが口にしたのが、母の昔の名なのだろう。
「フルートでの再構築を経ずに保護区画から管理区画へとその職務を移すのは、珍しいことではあっても前例がないというわけではありません。あなたが私達に与えられた使命を果たさんとするのであれば、他の者達からの好奇の視線も、時と共に減っていくことでしょう。ゆえに、私がこの場であなたにかけるべき言葉は、歓迎のものでなくてはなりません。………ようこそ、そしてお帰りなさい、アブディエルの子キキリキ」
アブディエルというのが母の親の名前なのか、と一瞬考えたが、母のような純粋なノイドは、フロスロイドと同じくフルートから
「そして………ふふ、あなたの話は、管理区画内でも時折出ていましたよ。この時代に相応しくない、と」
「お褒めにあずかり光栄です、ホワイト=シンク統合管理長マリア・イコベヴィア様」
と、もはや癖のように口を突いて出た言葉に一瞬後悔するが、イコベヴィアはさほど気にした様子もなく、私達に着席を促す。この先の管理区画側での計画の要は私なのだ、とイアソン達の忠告を思い出しつつ先ほどの自分の発言は軽率過ぎたと反省し、頼れる者がいないという現状に若干心を重くする。せめて母が完全にこちらの味方であるという確証さえ得られれば、いくぶん楽になるのだが。
さて、とイコベヴィアが場の空気を変える。
「メデイアがこちらに来てまで何をしたいのか、については、ここで問いただす気はありません。ディアナ・エスト=アガタとの口約束を守る義理も必要性も、やはりこちらにはないのですけれど………。それでは人類の守護者としての顔が立ちませんからね」
含みのある物言いだな、と彼女への警戒を強める。ある意味では当然とも言えるが、書き手であることに固執しいくつかの大きな問題を起こした私が、口ではともかく、実際にほとんど抵抗することもなくこうして管理区画への移送を受け入れていることを不審に思っているのだろう。つまり、イコベヴィアを筆頭に、ノイドとフロスロイドには"
「要するに、こちら側での私とエリスの最低限の自由は保障していただける………と、そう解釈してもよろしいのでしょうか」
その私の言葉に、イコベヴィアは「遠回しに言うのはやめておきましょう」微笑んで、私の瞳の奥を覗き込む。
「思考と発想の飛躍と文明の発展は、いずれ来る文明復古の未来には欠かせないものです。そしてそれには、あなたのような人間が必要なのもまた事実。あなたは現代においては
そこで彼女は一度言葉を切り、立ち上がって先ほどの扉の前に戻る。母がその後を追うようにして続くので、私とエリスも"まだ座ったばかりなのに"と内心文句を垂れながら腰を上げる。
「だからこそ、あなたの行動は許容できるものではないのです」
扉が開き、白い廊下………左右に延びた通路が現れる。そこには青紫色の髪と桃色の髪のフロスロイドが立っていて、桃色の方が母に何かを告げて、そのまま二人で通路の右奥へと消えていった。
「メデイア。あなたは今のホワイト=シンクの、文明発展を阻害する方針を快く思っていないのでしょう?」
その通りだ、と肯定することもなく、彼女の顔を見るだけに留める。それを見たイコベヴィアは青紫のフロスロイドと共に、私とエリスを連れて左の通路を歩き出した。
長く、長く、閉鎖的な、上下と左右から迫る白い壁たちは、どうにも私達を歓迎してくれてはいないらしい。フローラでの生活には、来る日も来る日も息が詰まりそうだと嫌気が差すような閉塞感があって、神域やそのさらに向こう側に行ければそれもなくなるはずだと期待していたのだが、実際には真逆だった。通路の幅が広がったり、狭くなったり、いくつもの部屋らしきものを通り過ぎて、その間には理解の及ばないからくり仕掛けの箱をフロスロイドやノイドが触っていた。そういったからくり仕掛けの物やコロニーの構造など、興味を惹かれるものこそあるが、この神域────管理区画はまるで、極限まで徹底した管理が実現されている牛小屋のようだ。
エリスに聞いた八千年前の物語では、確か人類は、この地球とかいう名前の星とやらの、本来の気候に従うべきだと判断して、こうしてコロニーの中に潜って移り住んだと言っていた。しかし、その判断をより本来的な意味で解釈して実行するのであれば、
「────………今の世界で、文明を先へ進めるということの意味と危険性を、あなたは理解していない」
気がつけば通路の雰囲気は変わり、感情が読み取れないという点は同じでも、殺風景というよりは荒廃的と表現した方が正確に思えるような、そんな質感になっている。壁や天上にはおそらく鉄か何かでできているであろう筒状のものがいくつか走り、次第に傾斜がついて、ついには坂道となり、やがて通路そのものが階段となった。
その階段の終わり、開けた場所の隅に、何かの受付のような小さな部屋があって、その中から若干黄味がかった白い髪のフロスロイドが現れ、こちらに近づいてくる。
「コロナから命令を受けたんですけど、本当に良いんですか?」
「構いません。リフトへの電力供給は?」
「問題はないですよー。ちょうど地上監視室から交代時間だと連絡があったばかりですから」
間延びした、というよりは間の抜けた話し方をするフロスロイドだ。彼女達は堅苦しい性格の者ばかりかと思っていたのだが、考えてみれば、エリスもどこか子供が背伸びをしているような口調をしているし、むしろレヴァ達の方が少数派なのかもしれない。いや、保護区画内では彼らの態度や口調の方が求められるのだろうが。
「あ、ミクシードのあなたは………、これを着てくださいねー。手伝いますから」
そう言われて妙な服………いや、服と呼んで良いものかは疑問だが、それを着せられる。食事所に行く際に着せられたものも動き辛かったが、これは締め付けられるからではなく、反対に各部が大き過ぎて歩くことすらままならない。まるでバスケットを全身に括り付けて水の中を歩いているような着心地の悪さだ、と袖を摘まんでいると、「ちょっとごめんなさいねー」と頭に何かを被せられる。
「………え、何、何これ?ガラス?何で被り物にガラスがついてるの?ねぇ、ちょっと、ちょ、やめて待って後ろで何をしてるの!?」
もう少しですからねー、と軽い調子で、服の背面や後頭部を弄り回す薄黄色のフロスロイド。頭の後ろでは、鍋底で野菜を炒めながら麻布を爪で引っ掻くような音や、時計の針が動く時のような音、つまりは全く未知の音がしていて、ああ、もしかしてこれはなんかこう、拷問用の特殊な服なのかもしれないな、なんてことを思っていると、「終わりましたよー」と声をかけられる。鏡などはないらしいので今の私の全体像を確認することはできないが、盛大に間抜けな格好をしているということだけは、この視界が制限されている被り物の中からでも十分に予想ができた。
「………ねぇ、エリス。もしかして私、これからずっとこれを着て生活しないといけないの?」
なぜ止めてくれなかったのだと恨みの視線をエリスに向ける。すると彼女の言葉が被り物の内部から聞こえてきて、しかし慌てる間もなく、小箱のような何かを受け取ったエリスが、この服に危険性はないというようなことを話し始める。
「えっと、それは防護服、ってやつだと思います。人間やミクシードが地表に出る時に、フレークスを吸い込まないようにするための………えっと、全身用の服っぽい盾?」
服っぽい盾、服っぽい盾かぁ、と顔の前面を覆うガラスのような何か越しに、頭の中をひっくり返して説明するエリスを観察する。しかし、密閉されているのか、この服は暑苦しいことこの上ない。私はほんの数日前まで、使い古した布を縫い合わせたような衣服しか着たことがなかったのだ。だというのに、いきなりこんなよく分からないもので全身を包まれるとは、もう少し心の準備というものをさせてくれても良いではないか。
それにしても、とエリスの知識の偏りに違和感を覚える。かつての文明の話やコロニーが造られた理由、ノイドやフロスロイド、ナノマシンなどの説明では言い淀むようなことはなかったというのに、この防護服に関しては"服っぽい盾"ときた。科学などに関する知識がない私に分かりやすいように、という理由があったにせよ、それでもディアの館の時よりも言葉が出てくるまでに間があったのはどういうわけだろうか。人類の守護という使命に歴史的な知識が必要なのは理解できるが、人間が外に出るために必要な装備品については曖昧な情報しか持ち合わせていない、というのは、コロニーの外に出ることを放棄しているようにしか見えない。
そうしているうちに青紫のフロスロイドに促され、鉄製らしき柵で囲われた床の上に立たされる。これから何をされるのか、何をしようというのかをエリスに尋ねると、「地上に出るんだと思います」と返答される。
「地上………」
雪と氷とやらで覆われているという、もはや人間が住むことのできない、忘れ去られた世界。その、八千年前に捨てられたかつての人類の楽園に、これから向かうらしい。以前の私はそこに、草花が生い茂る緑の土地を思い描いていた。神域のその向こうの、人類の永遠の地。悠久の世界だ。いや、はるか昔に、それは事実そこにあったのかもしれない。しかし今はただ、人類史を蝕む現象があるだけに過ぎないのだという。その地上に今から向かうらしい、と聞いてわずかなりとも心が躍るのは、人としての性というものだろうか。
イコベヴィアが白いフロスロイドに手で合図をして、その次の瞬間に、世界の終わりを思わせる音と共に床が動く。
「え………、何、これ!?止めて、怖い、ねぇ止めてってば!!」
柵にしがみつき、上昇する床の音にかき消されないような大声を出す。しかし二人はこんな状況だというのに全く動じておらず、「大丈夫ですから」などと言い出す始末だ。
「大丈夫なわけない、怖い!!死ぬ!!下の人に止めるように言って!!」
イアソンと名前を呼ぼうとして、彼がこちら側に来ていないことを思い出す。私の必死の訴えを聞いた二人は、立場上敵対関係に似たような状態にあるにも関わらず、顔を見合わせて"自然な反応だな"というような表情をしている。
「このリフトの動力は電気ですよ。………下に人などいません」
イコベヴィアの言葉に、管理区画の扉が勝手に開いていたことを思い出す。あれは壁の向こうか、あるいは隣の部屋かで誰かが歯車の先を回しているものだとばかり思っていたが、これと同じように、人力で動かしていたわけではないということか。フローラにも時計というからくり仕掛けの品は存在していて、あれは錘を使った仕掛けだと聞いているが、しかし保護区画は管理区画によって文明が制限されているのだ。であれば、こちら側のからくりの内部には、もっと高度な技術で作られた仕掛けがあって当然ではないか。
「電気………エネルギーっていうやつ………?」
エリスの話に出てきていた、フルートの使用やコロニーの維持に使用されているものだったか。なるほど、こんな技術があるのなら、生物の一つや二つ、一から作り上げられても不思議はない、のかもしれない。
しばらくして私が落ち着きを取り戻したのを確認して、イコベヴィアがこの床………リフトが行きつく場所である急勾配な坂の先を見つめ、先ほどの会話の続きを始める。
「────………エネルギーも無尽蔵ではなく、コロニーの外には人間が永住できるような土地も残っていない。人口が増え過ぎれば食糧問題に振り回され、減り過ぎれば保護区画内の維持が困難になり、地球の現状が知られれば、唯一継続して生存が可能なコロニーの中で、土地や資源を奪い合う不毛な争いが起きる。………この現状での最善策は、"再び地上が人類の住むことのできる場所になるまでの間、文明レベルを一定以下に維持し続けること"の一つのみです」
今の世界で文明を次の段階へと進めてしまえば、辛うじて保たれている均衡が崩れて、人類は滅んでしまう。発想の飛躍が科学を発展させ、科学の発展が文明を進歩させ、そうしてそれは、長い時をかけて維持されてきた現代の人間社会に劇薬となって蔓延し、利権争いへと直結する────と、そういうことらしい。八千年前の人間が、ノイドとフロスロイドにコロニーの管理を任せた経緯の話だ。だから彼女達は、自分達の
「いつか、あなたのような人間が、今の世界を変えるかもしれない」
リフトが上るこの通路のような何かの先は、まだ見えない。所々から申し訳程度に照らしてきている灯りは、リフトも、坂の下も上も、十分に周囲の輪郭を視認できるほどのものではない。
「しかし、それは今ではなく、またあなた自身ではない。そうであるべきでは、ない」
長く、長く、暗く、異界の森の中のような、あるいは死後の世界の森の中のような急勾配の坂を、電気という名の文明の残滓を消費して動く一枚の大きな床板で、のろまの亀のように、年老いた家犬のように、あるいは私の空想の道筋のように、少しずつ、少しずつ、軋むような音を鼓膜から脳へと送りつつ上っていく。その時間がどれほどの長さだったのかは分からない。数時間にも感じたし、数十分だったようにも思えるが、とにかくいくらかの時間の後、色覚と聴覚が混ざり合うようなリフトでの上昇体験は終わりを迎えた。
目の前には、巨大で無骨な扉らしきものが立っている。いったい何がこれを潜り抜けるというのだろう、外の世界には巨人でも存在しているのか、と扉の上部を見上げる私とエリスに、イコベヴィアが小さく手招きをする。
青紫のフロスロイド────どうやら彼女の名はマリヌスというらしい────が壁の方へと向かい、常識的な大きさの扉の近くに取り付けられた薄い箱のような何かを操作すると、大酒飲みが家で妻を殴っているような音を発しながら、扉が開いた。しかしその先にも同じような扉があって、私達が一つ目の扉を潜ると今開いたばかりのその扉が閉じ、色の抜けた煙のような何かが壁や天井から吹き出してくる。火事でも起きたのかと質問する余裕もなく、身を屈めて頭を守っていると、イコベヴィアの「開きますよ」という言葉が聞こえ、そこでようやく、煙がすでに消えていることに気づいた。
「私の服に刺繍で入れてある言葉が読めますか、メデイア?」
いきなりなんだと思いつつ、彼女の服の腰下あたり目をやる。文字はフローラで使われているものと同じだが、言葉の意味までは理解できない。
「H、o、m、i、n、e、s、V、o、l、u、i、t。古い御噺で使われているような言葉と、少し響きが似てる気がするけど………」
「
そう言ってイコベヴィアは、エリスに、次いで私に視線を送る。
「私達はいつか、文明を取り戻させなくてはならない。私達はいつか、発想力を取り戻させなくてはならない。しかしそれは今ではない。またそれを為すのはあなたではない。今の世界には、それらを受け入れられるだけの基盤も、未来も、まだ無いのだから」
服を破きながら牛と羊と豚の鳴き声を同時に聞いているような音が鳴り、二つ目の扉が開く。それと同時に焼かれそうなほどの白が眼球を突き刺してきて、思わず被り物の前面の、ガラスのような部分を手で覆って視界を塞いだ。
「ゆえに私は、あなたを歓迎します。ようこそ、第二コロニー・ホワイト=シンク管理区画へ。知識の罪の子メデイア」
隣から、息を飲む音が聞こえる。きっとエリスだろう。彼女もコロニーの外を実際に目にするのは初めてのはずだが、いったい何を見たのか、と、おそるおそる手を退けて、細めた瞼の隙間から世界を覗く。
そこには、白と、濃紺と、濃紺の中に浮かぶわずかな白があった。天蓋の濃紺は広くその果てすら見えず、地面の白は隆起したり陥没したり、あるいは平らに寝そべっていたりと視界の下半分を忙しなく埋め尽くしている。
「防護服越しでは分からないでしょうけれど、現在の地球の平均気温は………他の土地での観測ができないので、かつての文明に残されていた予想にはなりますが、零下四十度ほどと考えられています」
イコベヴィアが何かを語っているが、今の私の耳には届かない。私の聴覚は視界情報に押しやられて、脳の隅で縮こまってしまっているのだ。
草花の生い茂る緑の楽園を思い描いていた世界には、ただ白があるのみだった。しかし、その白のなんと幻想的なことだろう。なんと空想的なことだろう。まるで、天蓋の濃紺に浮かぶ小さな泡のような灯りたちが、この地面に降って積もって光を放っているかのようではないか。
「地上探索用のノイドでさえ長時間の活動が不可能な、絶対的な死の環境。氷に覆われ、雪に閉ざされ、熱を奪われた、世界の末路のその直前の────」
「凄い………!!凄い、凄い、凄い!!」
イコベヴィアの言葉を遮り、その場で飛び上がったり、足踏みしたり、回ったりしてみたが、この高揚感を表すには至らなかった。絶対的な死の環境、などと彼女は言ったが、死がこれほどまでに美しいのであれば、どうして逃れられるというのだろう。死神というのはきっと、こんなふうに、圧倒的な美貌を武器にして、人の心を惑わして取り込んで、そうやって滅びに向かって歩かせて衰弱させていくものなのだ。
「これがフローラの外、これが神域の外、これがコロニーの、私の生まれた世界の外………!!これが世界!!凄い、綺麗、大きい、とても素敵!!」
天蓋は────空は深く、星は控えめに輝き、散りばめられ、そして地上に降って雪となり、その結晶体でこの世界は覆われる。いや、覆われている。きっと食べ物もない、水も手に入るか分からない、動物だって植物だって見当たらない。なるほど、正に死だ。死が激しく、優雅に包み込む、全てが止まる悠久の世界だ。
ああ、はやり、逃れられる道理などない。あるはずがない。だって、ほら、彼らはこんなにも私の手を引いて、"こちらに来い"と訴えかけてきているのだ。
「行きたい………!ううん、絶対に行く!!私は、あそこに、何があっても、必ず、行く!!」
伏魔殿の最後の子………と、イコベヴィアが呟く。知識の罪の子と言ったり伏魔殿の最後の子と言ってみたり、全くもって統一性のない女だが、どちらかといえば知識の罪の子と呼ばれる方が気分が良い。かつての文明のことなど私が知るはずもないが、
熱と痛みに目が覚めたあの日からずっと、私は鍋の中の味のないシチューのようだった。神域に囲まれ閉ざされたフローラは、少なくとも私にとってはあまりにも息苦しく、生き辛い場所だった。そしてどうやら、神域にすら、私の居場所はないらしい。
いつかこの世界の外へ、あの神々の地のその先へ行きたい。天蓋の灯りも昼も夜も超えて、きっとどこかにあるはずの私の楽園を見つけて、そこで夢物語を書き続けたい。ずっと、そう思って生きてきた。だが、書き手であり続けることに固執したのは、きっと、私の求める世界が私の中にしかなかったからだ。誰も彼もが狭いフローラの中に満足していて、そこに私が入り込む隙間など、八千年の昔から用意されていなかったのだろう。
ならば、たとえ絶対的な死が留まる世界だったとしても、そこが、ここが、私の楽園になり得る唯一の世界だ。草木も、花も、果実も、エールも無いが、神々すら霞むような淡い光ならあった。ここにあったのだ。
見つけた、見つけた、と、白と濃紺を抱きしめるように両手を広げる。
ここだ。
ここと、この先が、私の楽園だ。
白く冷たい死の花の園。
仇の花の咲き乱れる、最後の園だ。
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