CHAPTER XVI

 "ピアネータ"の三人が、館の西階段を上がってすぐの位置にある執務室を仮の応接室として整え、全員が入室する。ここは本来、来客を想定していない部屋であるためか家具や調度品も控えめで、交渉を行うには少々殺風景に見えた。

 応接室の時とは違い、こちらのソファ────普段は壁に接しているのであろう二つのそれは、今は部屋の中央で向かい合うように置かれている────に座るのは私とディアの二人のみで、他の四人────ディア、キアーラ、ベレニーチェ、アリアは、それぞれソファの左右で一歩下がって待機している。向かいのソファに座るのは先ほどまでと同じ三人だが、この場での彼らはフローラでの立場が意味をなさなくなっており、イコベヴィアの声を私達に届け、私達の要求をイコベヴィアに伝える仲介人となっているという点で、応接室の時からは一歩前進しているといえるだろう。彼らからすれば一歩後退どころではないだろうが。

「ちょうど良いテーブルがありませんね………。これでは紅茶の用意ができませんが、どうやらレヴァ様もヨケベダ様も早く事を済ませたいようですので、このままここで交渉を続けさせていただきましょうか」

 名を呼ばれた二人が、ディアの言葉に不機嫌そうに頷く。

「それでは、まずはわたくし達の要求に対するイコベヴィア様のお考えを聞かせていただけますか」

「その前に、お前達の要求を確認させてもらおう。一つ目の要求はお前達の無罪、二つ目は関係者への過度な接触と圧力をかけることの禁止………で、間違いないか?」

 間違いありません、とディアが返し、ヨケベダがエリアルシートにその内容を書き込む。それを自分の前に開かれているエリアルシートで確認しながら、表面上だけでも対等な交渉に応じるとは意外だな、とイコベヴィアの姿を想像する。イコベヴィアもフロスロイドであるらしいので、やはりエリスと似たような恵まれた容姿をしているのだろうか。

 そうして私が呆けている数十秒のうちに返ってきたイコベヴィアの言葉は、応接室でのレヴァの返答と大差ないものだった。つまり、関係者を他の者達と同様に扱うという意味であれば問題ないが、私達自身の無罪はコロニー維持の観点から見てもそのまま受け入れることはできない、というものだ。

「では次に、そちらのわたくし達への要求────この場合、要求という言葉を使うのが適切かは分かりませんが、それを明確にしていただければと」

 ヨケベダがエリアルシートでディアの言葉をイコベヴィアに伝え、数分の後にイコベヴィアの考えが書き込まれる。その内容は以下の通りだった。

 一、メデイアの創作物全ての回収と閲覧禁止への協力。

 二、"世界の真実"を知った全員の監視室への移送。

 三、エリスの引き渡し。

 私の創作物の回収、というのは、木札のことであるらしい。どうやら神官達からだけでなく、管理区画でも私は危険視されているようだが、それはつまり、私の物語たちがこの世界コロニーを穿つに足る力を有しているとイコベヴィアが判断したということであり、書き手としてこの上なく名誉なことだった。

 二つ目と三つ目に関しては全くの予想通りで、むしろこれ以外に要求が出なかったことに驚いた。とはいえ、管理側からすれば本来一言二言の後に手枷足枷を嵌めて監視室に移送すれば終わるところであるため、互いに要求を出し合うという時点で十分に追い詰められてはいるのだろう。

 問題はここからで、どのようにして私達の本来の要求を通すかが重要だ。策は練ってあるものの、しかしそれを使うにはまだ互いの妥協案が出ていない。何よりも管理側に絶対正義がある以上、妥協案はこちらから折れなければ場に出ることはない、というのが一番の難関となる。だがそれはあくまでも最終的にという形でなくてはならず、まずは管理側が私達の手元にある情報を確実な脅威として認識し、譲歩してこなければ、その後はこちらが屈するだけになってしまうだろう。

 応接室でのディアの偽りの要求は、この問題を解決するためのものでもあった。つまり、世界の真実を公表しない対価として、初めに管理側が受け入れられない条件を提示し、徐々に妥協を演じることで、本来の六つ、いや七つの勝利条件を満たそうとしているのだ。もっとも、先の二つの要求はあながち嘘とも言い切れない、というのが目下悩みの種なのだが。

「これで、互いの要求は出揃った………と判断し、交渉に移らせていただきます」

 ディアが着席している全員の顔を順番に見る。

「お前達の一つ目の要求についてだが、仮にイコベヴィアがそれを認めたとして、エリスの処遇は関係のないことのはずだ。彼女は植生官としての立場を失い、今後生神として保護区画内へ現れることもないだろうからな。………よって、こちらからの要求、その三つ目────エリスの引き渡しはそちらに不利益をもたらすものではないが、何か問題はあるか?」

 大いにある。が、しかし、どうやって"計画にエリスのフロスロイドとしての立場が必要なのだ"と悟られることなくそれを伝えるべきか。

「無関係といえばその通りですが、二時間ほどの付き合いとはいえ、共に紅茶を飲んだ間柄です。私達が無罪放免となるのに、彼女一人が責を負うというのも、気持ちの良い話ではありません」

 管理側は間違いなく、エリスの今の人格をフルートという装置で消去する気でいるだろう。フルートは、少なくともこの時代では気軽に使用できるようなものではない、と予想してはいるが、イコベヴィアも多少の危険と諸問題、それと明らかな脅威であるエリスを秤にかけて、呑気に時間を浪費するほどの馬鹿ではないだろう。管理側の要求のままにエリスを引き渡せば、この先の計画は破綻する。

「やはり、我々が話し合っても平行線に終わるだけか。だが、交渉と言うからには、当然妥協案はあるのだろう?」

「こちらは譲る気はありませんが………。妥協案を提示すれば要求が通る、というのであれば、多少の譲歩はするつもりでいます」

 譲歩か、とヨケベダが小さく吐き捨てつつ、書記官としての職務を続ける。当然だろう。なにせこの交渉には、そもそも妥協案自体存在してはならないのだ。


 ────完全な無罪という要求は受け入れられないが、ディアナ・エスト=アガタとラウラの同性恋愛に関しては、特別措置として、その二人限定で認めることは可能である


 ────ただし、メデイアの創作物はすでに個人の趣味の範疇を逸脱しているため、今後の活動を含めて認められない


 ────関係者への対応については、クラ・ヨケベダの発言がそのまま私の意見だと考えて相違ない


 数分後、エリアルシートにイコベヴィアの文章が打ち込まれる。それをヨケベダが読み上げ、ディアがふむと一つ頷いた。

 と、そこで、珍しく母が口を開く。

「メディへの処罰ですが、穏便に済ませていただくわけにはいかないでしょうか。止められなかった………いえ、強く止めなかったとはいえ、私にも親としての責任があります」

 正しく教育してみせますので、どうかご温情を────と、レヴァに頭を下げる。しかしレヴァは「もうその段階はとうに過ぎているのだ」と一蹴し、しかし自分はあくまでイコベヴィアの代理だと母との会話をヨケベダに書き記させる。

 そのやり取りを見ながら、ディアと目線を交わす。親心を利用するようで心苦しくはあるが、この流れは好機かもしれない。

 私とディアの間に流れる空気を読み取ったキアーラとアリアが、わずかに体をソファへと近づける。

「なるほど。わたくしとラウラのみであれば、この関係を続けても問題はない。ただし、それはメディとエリスの身柄と引き換えに………と、そういうことですね」

「お前達がエリスから得た情報を公表しないことも、当然条件に含まれている。そして、お前達にもある程度の処罰はあるものだということも忘れるな」

 困りましたね、とわざとらしく口元を隠し、しばしの間思案に暮れていたディアが、「では、こうしましょう」と妥協案を口にする。

「メディをそちらに引き渡しますので、わたくし達に恩赦をいただけますか」

 一瞬間を置いてから、何を言い出すんだとディアの顔を睨む。それと同時にキアーラとアリアが私を拘束し、神官付の前へと引きずって行く。そして立ち上がって駆け寄る母の隣で再び後ろ手に手枷を嵌められ、その場に座れという指示に従いながら、ディアに殺意を込めた視線を向ける。

「────………ははっ。やっぱり、結局敵だったんじゃん。何が同志だ、貴族令嬢が」

 私の恨み言を無視して、ディアは涼しい顔で交渉を続ける。彼女が私を引き渡したことで一段落ついたと判断したのか、レヴァもヨケベダも先ほどよりも深くソファに腰を下ろしていて、後はディアの要求と彼女の今後の立場についての落としどころを探るのみといった様子だ。

「初めからこうしてくれていれば、わざわざ部屋を移す手間もなかっただろうにな。………これで、残る大きな問題は二つ。エリスの現在の居場所と、お前達の協力者への対応だな」

「わたくし達にこれ以上干渉しないというのであれば、エリスをすぐにでも引き渡すことは可能ですわ」

「というと?」

「従者の一人を、あらかじめエリスの護衛兼道案内として同行させています。その者にはかもしれないということは伝えてありますので、まだ館の周辺で待機しているはずです」

 もちろん、エリスと共に────と、足を組んで微笑むディア。

「わたくしの協力者に関しても、朝までに従者に作戦の中止を伝えれば、世界の真実がそれ以上広まることはありません。現段階では、この部屋にいる者と外に出た従者のみしか知らぬことですので」

 なるほど、とレヴァが唸る。

「イアソンという男は?お前ではなくメデイアの知人ということであれば、この状況を知って静観するとも思えんが」

「彼ならば女性の魅力を知っている頃でしょうから、ただの傀儡に過ぎません。何一つ問題はありませんわ」

 ディアは目を細めて、「男など単純な者ばかりですから」と私を見る。

 彼女のこれまでの活動内容を知っていれば、今回の件の協力者以外にも様々な繋がりを持っていることは明白だ。その中には当然、あまり表には出てこないような者達もいる。情報というのは、権力者よりもむしろ、その対極の立場にある貧民街や娼館街に集まるものだからだ。

「………なるほどな。報酬とやらが裏目に出たな、メデイア」

 肩の力が抜けたのか、疲れた様子で口角を上げるレヴァの横で、ヨケベダが私の身柄を確保したことをイコベヴィアに報告する。それをディアが「とはいえ」と制止した。

「一度は友人になった者をそのまま引き渡すというのも、寝覚めが悪いものです。わたくしの今後の朝の一時のためにも、メディとエリスの二人の、管理区画での最低限の自由程度は保障していただければと思います」

 メディの創作欲は保護区画内では問題かもしれませんが、完全な管理下にあれば、大した危険もないでしょう────そのディアの要求、いや、これはもはや提案と言った方が良いだろうか、それを聞いたレヴァとヨケベダは、顔を見合わせてから、「これこそ、我々だけでは判断できない問題だな」とイコベヴィアの意思を仰ぐ。


 ────即座に決定を下せる問題ではない


 ────しかし、こちらでメデイアとエリスの処罰について議論した後、再教育という名目で、監視室外で生活させることは不可能ではない


 人間とノイドの子供である私は、保護区画内にいるよりも、むしろ管理区画でミクシードとして扱った方が都合が良いのだろう。エリスに関しては、エネルギー問題とやらが深刻化している状態で無闇にフルートを使いたくないという理由からに違いない。無論、私達が知りえない他の理由も考えられるが、おそらく"人間を管理区画で生活させる"というのは、書類上の問題か使命感からかは分からないが、管理側が望む結果ではないのだと予想する。

「メディを管理区画へ移送するのであれば、私にも同じ罰をいただけないでしょうか」

 母が言う。

「コロニーや人類史に関わる部分は当然伏せてありますが、夫にも離縁の話はすでにしており、渋々ながら同意を得ています。メディと共に中央の監視下で過ごすことになるかもしれない、とも」

 ディア達の表情を窺い見ると、ちょうどディアがキアーラを呼んで何やら耳打ちしている最中で、キアーラに何かを伝えたディアはレヴァに視線を戻して、「彼女にエリスを連れ戻させようかと思いますが、監視の必要はありますか?」と年齢よりも幼さの残る仕草で問う。

「外に出した神官付の一人を呼び戻している。その者の到着を待て」

 かしこまりました、とディアが答え、レヴァがさてと腰を上げて、母の正面に立つ。

「八千年前ならいざ知らす、この時代の保護区画内では、離縁は基本的に認められていない。だが、キキ。お前がノイドとしての使命と人の親の責任の間で長年揺れていることも知っている」

 神官付のままでいれば良かったのだ、と苛立たし気に鼻を鳴らすヨケベダを手で遮り「イコベヴィアに報告を」と伝え、レヴァは続ける。

「エリスの逃亡を防げなかった、オパーレ伯爵家の分家が平民となったことは知っているな?身内の手落ちで権力を失った人間が取る行動など、いつの時代も大差ないものだ。ジョルジオには、お前達がその平民落ちした分家の人間の、通り魔的犯行に巻き込まれて死亡したと伝えよう」

「………キキの処遇について、イコベヴィアの許可が下りました」

 ノイドと人間の夫婦というのは、この時代では面倒が多いのだろう。ただでさえ減り続ける人口問題の中で、わずか五年前後でそのほとんどが死亡するミクシードを生むというのは不毛と言う他にない。それを知っているからこそ、今現在フローラに存在するミクシードは私一人なのだ。あるいは母もバグというやつなのかもしれないが、要するに、母も私同様に、こちら側にいるよりも向こう側にいた方が管理上の都合が良い存在であるということだ。

 母の表情に明るさが戻るのが、背中越しの動きからでも分かる。

「では、」

「だが、分かっているだろうが、これはメデイアの母として行動を監督しろという意味ではなく、ノイドとして危険分子を監視しろという命令だ。お前はすでに我々の信用を失っているということを忘れるな」

 一連の会話を報告していたヨケベダが、「管理区画側の準備が整ったようです」と伝える。それから数分が経過し、一人の神官付が現れ、キアーラと共にエリスを捕らえんと館を後にした。

 私はこのまま、母やエリスと共に、深夜のうちに管理区画へと移送される。ディアは私達の管理区画内での最低限の自由を要求したが、イコベヴィアの決定次第では、私はこの先の一生を監視室の中で過ごし、エリスと母はフルートによって別のノイドとフロスロイドとして再構築される、という可能性も考えられる。いや、管理区画の様子を知る術を持たないと思われているディアが何を言ってきたところで、知らぬ存ぜぬを通せば良いだけの話なのだから、その可能性こそが最も高く、管理側が取る行動としては最良でもある。

 レヴァがディアに馬車の用意を命じ、ディアがアリアに一つ頷いて、その命令に従う。

「────………お父さんは、何か言ってた?」

 小さく、しかし狭い部屋の中では十分に聞き取れる程度の声量で、母に問う。母は少し間を置いてから「すごく怒ってたわ」とだけ口にして、それからの数十分は、誰も口を開くことなく過ぎていった。

 そういえば、この数日の慌ただしさもあって、結局"死人の夢占い"はこちら側で書き終えることができなかった。イアソンはあまり好みの内容ではなかったようだが、ディアには悪いことをしてしまったな、などと考えている間に、アリアが扉を叩いて現れる。その隣にはキアーラと神官付、そしてエリスの姿も見えた。

「馬車の用意が整いました」

「窓は全て塞いであるか?」

「扉の内側に厚手の布を張り、馬車内の燭台を取り外しましたので、内部の様子を見られることはありません」

 腕を掴まれ立たされる。エリスはというと終始無表情で、されるがままといった様子だ。

 強い力で腕を引かれ、母とエリスと並んで執務室の扉を潜る。室内に残っているのはディアとラウラ、ベレニーチェ、レヴァと神官付が一人のみで、廊下で私を睨んでいるヨケベダは、どうやら私達の移送を任されたらしい。

「じゃあねメディ。楽しかったわ」

 扉が閉まる直前に、ディアがいつも通りの笑顔で、手短に別れの挨拶を済ます。

「私も昨日までは楽しかったよ。せいぜい優雅にスカッキでもするんだね、"ルーナ"・ディアナ」

 執務室と廊下が扉によって完全に遮られるまでの数秒の間、ディアは私の言葉に応えるように、微笑を浮かべたまま手を振っていた。そうして閉じた扉越しに彼女を見ていると、神官付に背中を押され、馬車に向かうようにと視線で圧をかけられる。

 遠出の前日までと当日とでは、やはり精神的に大きな違いがある。昨日まではこの先の計画を練ったりワインを飲んだりとを待ち遠しく思っていたものだが、まさかこの夜の数時間でここまで状況が一変するとは予想できるはずもない。

 ディアはおそらく、オパーレ伯爵家の分家の者達と同様に、貴族の血筋としての地位を失うだろう。いや、彼女自身がそう誘導することになっている。予想外の事態でいくつかの工程を破棄しなくてはならなくなったが、この先に進むには、これまでディアが利用してきたエスト=アガタ男爵家の名が壁となるだろう。ゆえに、これまでの地位を手放すのは惜しくはあるが、管理側の手や目が比較的届き辛い土地へと身を移すのだ。

 計画に変更はない。問題も起きていない。多少の誤算はあれど、事態は万事滞りなく、工程は順調に進んでいる。

 朝になる前に、ディアは"ピアネータ"に作戦の一時中止を命じるだろう。だが、彼女のその言葉の内容には意味はない。定刻までにディアが"ピアネータ"に何かを伝えるという行動そのものが重要なのだ。それが作戦の中止であれ何であれ、その時点で計画は本格的に動き出す。それは井戸の奥底にある国が、崩落によって岩で終わりゆくように。銀貨を吐き出す池が埋め立てられるように。

 母が現れたことで最も警戒しなくてはならなかったのは、レヴァやヨケベダが木札の一件を耳にしたかどうかよりも、むしろ父にどこまで知られたのかという点だった。しかしノイドの使命を完全に放棄することができないらしいと分かった時点で、父と母の二人を同時に、別の方法で、それぞれこちらの陣営に引き入れることは不可能ではないことは予想ができた。いや、引き入れなくてはならないと言うべきか。ディアが今の地位を失う対価として得るものは、水面下で自由に動く、その他大勢の民衆という情報網でなくてはならないのだ。

 女帝レジーナ賢者サジオ執政コンスル騎士カヴァリエレ門番ポルティエレ尖兵カフォーネ。ディアの協力者であり、彼女の有する情報網の中でも最も重要とされる六人は、ある意味で"ピアネータ"の情報力の源といえる。"カヴァリエレ"はキアーラとマレリーナ姉妹の実の父、つまりは尋問官だし、"レジーナ"、"サジオ"、"コンスル"の三人は、それぞれロゼッタ、テオドラとセラフィナ、そしてアリア、ファヴィオラ、ベレニーチェと古い付き合いがある。それはつまり、ディアが"ピアネータ"を組織すべく行動を始めた頃から交流があったということだ。

 普通の住居街から裏町、娼館街、貧民街、中央大時計塔や憲兵の暗部まで、フローラ中の細部にまで縄を広げ、収穫時期の農家もかくやという手際でその縄をたぐり、たぐらせない彼らはただの人類復古の駒ではない。保護区画の盤面の目を行き来する、"ルーナ"・ディアナの武器の一つだ。

 エリスが俯きながら、感情が表に出ないようにと押し殺しながら、こちらに向かってわずかに首を傾ける。彼女に目線で"前を向け"と伝えると、エリスは気づかれない程度に小さく手指を動かしてから、私の指示に従って顔を正面に戻した。

 エリスが何を訴えようとしたのかはすぐに分かったが、あれはおそらく、しばらくの間は聞かせてやることはできないだろう。

 しかし問題はない。いずれはまた、リュートの音も、物語も、私達の下へと戻ってくるのだ。その時が来たのなら、気の済むまで語って、歌って、ワインを飲んで眠れば良い。計画は順調で、工程は滞りなく進み、大きな問題など一つたりとも起きていない。あの交渉は、始まる前から────管理側がエリスを警戒して数人のノイドだけで現れた時点で、終わっていたようなものなのだ。

 今はまず、計画の第一段階の達成を、密かに喜ぶべき場面だ。この夜の一席は、常に私達の手の中にあったのだから。

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