CHAPTER XV

 応接室の扉が静かに叩かれ、わずかな軋みを上げて開かれた扉の向こうでアリアが一礼し、「お見えになりました」と告げる。その一言は、私達の今後に関するこの会議の終わりを示す、時計塔の鐘のような役割を担っていた。

 ディアがこの場の全員に目配せをして、私に「頼むわね」とだけ伝え、扉の前に立って来訪者を迎える姿勢を取る。それは、これから相対する者達に"ルーナ"・ディアナとして接する必要がある、という身分的な理由からではなく、一つの仕草、一度の発言で私達の処遇が決定されかねないという緊張感への解決策のようなものだ。今の私達はホワイト=シンク………いや、あるいは人類史が始まって以来前例のないほどに、倫理に欠け、道徳に欠けた、人間という種からの逸脱行為に浸りきっているわけで、もはやどのような処罰が相応しいかを想像するだけで一苦労といった状態である。ならばいっそ、最も扱い慣れている"爵位を持たない貴族"としての仮面に頼りきってしまった方が気が楽なのではないか、と考えたのだろう。それが可能な立場と経験と経歴を得ているディア以外には真似できそうもない割り切り方だが、来訪者が私達の予想する通りの者達であるならば、この場で最も危い立場にいるのはディアということになる。彼女の横顔をちらと見ると、珍しく若干諦めが入ったような表情で胃のあたりを手で押さえていて、それを見て私は、彼女も真っ当に人間なのだな、と本人が聞けば笑顔で説教をしてきそうなことを考えていた。いや、この先の全てを、一度の失敗もなく予定通りに進めなくてはならないということを考えれば、多少胃が痛む程度で済んでいるディアは、狂人めいた精神力を持っているとも言えるかもしれないが。

「誰が来たの?」

 思考を切り替え、小声でアリアに尋ねる。大神官あたりはいてもおかしくはないが、あまりに大人数で来られると発言の機会が減ってしまうので、ある程度の事前情報は得ておきたいところだ。

「大神官様と神官医師様、神官付様が四名と、元神官付が一名でございます」

 元神官付、という言葉に、全員が反応する。エリスいわく、保護区画でのミクシードは現在私一人であるらしいので、その親、神官筋という身分を捨てたノイドも同じく一人ということになる。つまり、元神官付という経歴が示す人物は、私の母以外に存在しない。なぜここに来るのか、という疑問はあるが、やはりヨケベダの下を訪ねていたのかもしれない。

 と、少し驚いてはみたものの、母がいてもやることは変わらない。扉の前でディアに倣って姿勢を正し、七人の来訪者を待つ。事情が事情なだけに憲兵はいないようだが、それでも万が一ということもある。問題が起きれば即座に逃走できるように、隠し通路の出入口の場所や逃走時の段取りなどは決めてはあるが、外の世界の情報を得てしまった今となっては、ここでの撤退は逃げ場が無いという意味で大きな、そして決定的な敗北となる。

 計画通りに進めば良いが、来訪者達はイコベヴィアの指示を受けているであろうと予想されるため、"下っ端"であるらしいエリスを武器にどこまで立ち回れるかが重要だ。

 それから数分が経過し、先ほどのように扉が叩かれ、ファヴィオラの案内で大神官ピオ・レヴァと神官医師クラ・ヨケベダ、いくつかの手枷を持っているらしい二人の神官付がそれぞれ二人ずつと、私の母である元神官付のキキが現れる。

 ファヴィオラが一礼して去った後、ようこそおいでくださいました、とディアが一礼し、応接室内にいるエリスを除いた全員がディアに続く。

 神官付のうちの二人とアリアが応接室の扉の向こうで待機し、室内には私を含めて十一人となる。大神官、神官医師、神官付二人と母が十字の旗を掲げる正義軍で、私、ディア、ラウラ、ベレニーチェ、キアーラ、エリスが極刑待ちの罪人集団という構図だ。

「挨拶は結構。主なる芽吹きの神は、お前達の暴挙を信仰に背く行為であるとの審判を下した。生神様を即時解放し、芽吹きの御心に従い、フローラの民として大人しく我々に拘束されるが良い」

「主なる芽吹きの神というのは、現在のホワイト=シンクの管理者であるマリア・イコベヴィア様のことでしょうか」

 大神官へのディアの発言で、母を含めた五人の動きが止まる。やはり、まだエリスがこちらの陣営に加わっているという情報は得ていないらしい。

 保護区画の天蓋には、人間を管理するための装置の一つとして監視カメラなるものが設置されているらしく、またテラステラで個人の位置や生体情報などを確認することができると聞いている。しかし、資源不足のこの時代にあっては前者はただの飾りのようなもので、後者に至っては"コロニー間の超長距離連絡網計画の断念"という事実が、機能的に不完全であることを証明している。エリスが語るところによると、テラステラは急拵えのナノマシンであるため、フレークスの劣化代替品という面が非常に強いのだという。

 そしてそれは、こちらには非常に都合が良い。世界の真実という情報を手にしており、さらにフロスロイドの一人を取り込んでいるとなれば、会議や交渉以前に会話すら不要だと考えているであろう彼らの腰を椅子に下ろさせることができ、"世界の真実の流布"をちらつかせることでその主導権も得られるだろう。

「まずは紅茶でもいかがでしょうか?淑女の嗜みなどと驕るわけではございませんが、それなりなものをご用意しております。きっとノイドの皆様の口を汚すような失態はないと、強く確信しておりますわ」

 ディアの言葉の効果は、母が反射的に私に視線を注いだことで確認ができた。他の四人も同様に動きを止め、そして一斉にエリスへと目線を集める。

「………どういうつもりだ」

 大神官が苦みの出過ぎた紅茶でも飲んでいるかのような顔で、エリスに問う。

「私はただ、私が私であるために、この人達を頼っただけです」

「バグめ。エラーが出ているとは聞いていたが、人類守護という存在意義を自ら放棄し、あまつさえ人類史を途絶えさせかねない選択を取るとは。愚かの一言では済まされんぞ、エリス」

 エリスから事前に説明があったとはいえ、神官筋と生神が対等な立場で会話をしている場面を実際に目にするのは、どうにも奇妙というか、ちぐはぐに見える。しかし、イコベヴィアの名とノイドの存在を知っているという情報を開示するだけで、ここまで早く神官筋としての顔を崩すとは、少々予想外だ。ディアの発言は、それだけ彼らにとっての急所だったということだろうか。

 大神官と神官医師がこちらを見る。それに対してディアは、彼らに着席を促しながら、自分もソファに腰を下ろして笑顔を作った。

「ご存じかとは思いますが、わたくしの従者は非常に優秀な者ばかりでして、特に情報の取り扱いは熟知しているつもりです。今は数人外に出てしまっておりますが、のちほどご紹介させていただければと」

 "ピアネータ"の存在は当然非公式だが、神官筋であれば知っている可能性はある。もし"ピアネータ"を知らなかったとしても、"ルーナ"・ディアナの情報力はよほど世情に疎い者でなければ平民でも噂するほどで、その事実があれば、"ピアネータ"のような組織の存在を想像することは容易だ。ディアは今、その情報の扱いに長けた従者が数人外で何かしらの任務に就いている、という事実を明かし、"世界の真実が公表されるかどうかはこの場のあなた達次第ですよ"とノイドに圧力をかけたのだ。

 生神エリスが私達に与している以上、彼らはフローラの人間を使うことができない。大々的に動けばそれは必ず噂となって人間達の間に広まり、フロスロイドが保護区画にいるという事実が公表されれば、神秘さを失った神への反乱が起きることなど想像に難くないからだ。だから彼らはたったの数人で来るしかなく、"ピアネータ"の存在を示唆しても憲兵を動かすこともできない。情報統制が可能だということは、世論を操れるということだ。この武器がある限り、ノイドは私達を保護対象としてではなく交渉相手として認識しなくてはならない。

 そこで、神官付の一人が、エリアルシートを開くような素振りを見せる。イコベヴィアに報告をしようとしているのだろう。

 何の反応もないことに若干うろたえている様子のその神官付を見て、エリスが着席しつつ口を開く。

「この場にいる全員のエリアルシートは、私の権限で使用停止にさせてもらっています。そのうちイコベヴィアか、他の誰かが気づくとは思いますが、三十分も時間を稼げれば十分ですから」

 母が私を見て何かを言いかけ、口を開いては閉じるのを数回繰り返す。しかし、母が言葉を発するよりも前に、私もディアとエリスに続いてソファに腰を下ろし、頭だけを大神官の方に向ける。

「聖芽祭ではどうもお世話になりました、大神官殿。立ちっぱなしでは疲れるでしょう、座ってゆっくりと会話を楽しみませんか?」

「お前達と話すことなど何もない。すでに決定は下されている」

「その"決定"とやらが有効な場面だとでも?」

 私達がホワイト=シンクとそれを取り巻く時代や環境といった情報を得ており、なおかつエリスが手元にいる時点で、彼らがこの館に持ち込んだ優位性はほぼ消滅している。

「勘違いをしないでいただきたい。ここで私達とあなた達が楽しくするのが決定事項で、そっちに拒否権はないんだ。こちらに直接的な危害を加える意思があると判断すればホワイト=シンクの歴史はそこで終わるし、私達にはこの場から逃げられるだけの用意もある。そしてその場合、保護区画の内情はノイドとフロスロイドが望まない方向へと大きく変化する。あなた達が人間より身体能力が高くとも、一日で保護区画内全てを駆け回る噂というやつには追いつけない。逃げたエリスが噂は真実だと語って回ればなおさらだ。人類の未来を憂うなら、着席することを勧めますが?」

 創作に現実感を与えるために記憶に焼き付けておきたくなるような、人の心を惑わせる悪魔ですら怯えて縮こまるような怒りの形相で、大神官はソファに座る。

「………この、悪魔め。人でなしめ。世界の実情を知っていながら、人間の歴史の灯が消えかかっていると知りながら、まだ個人的な欲求を優先するか」

「私がいったい何をしたと言うのでしょう?皆目見当もつきませんが」

「平民落ちから聞いている。エリスの逃走の裏で、自身のナンバープレートのページ番号を彫った木札をばら撒いていたそうだな。資源の無許可使用までするとは、見下げ果てるとはこのことだ」

 平民落ち、というのは母のことだろう。神官付の身分を捨てる際に本来の名を名乗ることを禁じられたとは聞いていたが、なんとも使命に忠実な差別主義者だ。

「人間ですので。どれだけ頭を押さえつけられようと、殴られ蹴られ切り裂かれようとも、生みの喜びを追い求めてしまうんですよ」

 キアーラが淹れた紅茶を手に取り、長年の恨みとばかりに煽り立てる。

「何が人間だ。快楽に耽る獣ではないか」

 神官医師のその低い一言に、私はディアと視線を交差させてわざとらしく吹き出す演技をする。人間の文明を抑制しているうちに、管理している側であるはずのノイドの頭の出来も悪くなってしまったようだ、とひとしきり笑い、最後に一つ鼻を鳴らす。

「私が獣?馬鹿も休み休み言うことだな大神官。獣は目の前の快楽を享受するだけだろ?でも人間わたしは違う。人間は快楽を認識し、想像し、創造し、操作し、その上で溺れる。快楽ごらくこそが人間の本質なんだ。生まれ持った使命という名の救いと幸福を享受するだけの、お前達のようなケダモノと同じにされるのは不愉快極まるよ」

 そういえば、ついこの前も、馬鹿な貴族令嬢に似たようなことを言われたな、と聖芽祭の直後を思い出す。確か、境界森の粗野な野良犬がどうの、だったか。あの後の痛みのせいであまりよく覚えてはいないが、貴族も神官もやはり対して大きく違わないのだなと少々落胆する。人類の守護者にしては人間にかぶれ過ぎではないか。

 メディ、と母の声が室内に響く。しかしディアが一つ手を叩いたことで再度母の言葉は遮られ、そしてこのディアの合図で、この交渉での私の最初の役割は終わった。

 相手を挑発するという行為は、こういう相手方が自分達に優位性があると信じている場面では案外有効だったりもする。脳内が茹で上がっているような者では激昂させるだけだが、知性のある者であれば、挑発できるだけの後ろ盾や情報を有しているのだと察するだろう。当然友好的な関係を築きたいのであれば愚策中の愚策だし、激昂しないまでも怒りを買う行為であることに変わりはない。そのため諸刃の剣どころではないのだが、今回はまずお互いの立場を対等なものにしなければならなかったため、最も容易に引き出すことのできる怒りという感情を利用することにしたのだ。効果のほどは、実際に大神官が着席していることで実証されている。

 とはいえ、これはディアが"このフローラを取り巻く世界の実情を知っているぞ"と警告していたからこその成果なのだが。

 しかし、本題に入る前からずいぶんと疲れてしまった。気分が良いのは認めるが、他に目的がある状態で他人を罵倒するのは、案外労力を使うらしい。


 私達はエリスとの会話から、この日までに練ってきた計画では目的の達成は不可能に近いことを知った。"敵"だと考えていた者達は人類の未来を守るために文明と発想の抑制を行っており、そしてそれは、緩やかに滅びつつあるとはいえ八千年間の安寧をもたらしている。その安寧の根柢を崩すとなると、それは保護区画内だけで小さな工作を積み重ねてどうにかなるような規模の話ではない。

 そこでまず、私、ディアとラウラ、エリスそれぞれの目的を明確化することにした。

 私の目的は"書き手であり続けること"。

 ディアとラウラの目的は"同性恋愛が認められるようになること"。

 エリスの目的は"前の自分からのの真実を確かめること"。

 私の場合は承認欲求もあるので"自分で書いた物語を読んでほしい"というのも目的になるかと思ったが、より重要度が高いのはやはり"書くこと"そのものだ。フローラの常識を変えるというのもこの目的を達成するための手段だったが、発想の飛躍が文明の発展に繋がり、それが人類史の終焉に直結するという思想の下に抑制されている以上、その発想を育む創作物は劇薬となる。

 ディアとラウラの目的は、"フローラの常識を変える"という前提条件の部分で私の目的との共通項が出来上がっている。生めよ増やせよが目下重要な課題である人間にとって、人的資源という意味で生産性の無い同性恋愛など害悪でしかない。ここも私の目的とそれに必要な工程や前提事項に共通している。

 問題はエリスで、私個人としては、座標の話やあの子なる存在は非常に興味をそそられはするのだが、先の二つの目的との共通項がない。私はまだ良いとしても、ディアとラウラの目的はむしろフローラの中にいてこそのもので、ホワイト=シンクの外の人類はもうほとんど滅びているとなれば、彼女達からすればエリスに協力する理由がない。しかしフロスロイドであるエリスの力は必要不可欠なもので、持ちつ持たれつという形で、お互いの目的達成に協力するという話で落ち着いた。あえて共通項を捻り出すのであれば、"ホワイト=シンクフローラの常識を変える"とでもなるだろうか。

 要するに、この三つの目的を達成するには、ホワイト=シンクのを大きく変える必要がある、ということだ。

 そこで私達は、二手に分かれて行動をするという方針を固めた。管理区画に赴き直接行動をする組と、保護区画内から補助をする組だ。管理区画にはエリス、そして彼女の目的に興味のある私が、それ以外は保護区画内で活動し、連絡手段はエリスのテラステラへの管理権限を利用して、エリアルシートで行えるようにする、という具合である。

 保護区画フローラ組は信仰などのとそれによって管理区画への発言権を得ることを、管理区画神域組────といっても私とエリスの二人だけだが────はエリスを最高管理者として擁立し、保護区画と管理区画の行き来を自由にすることで文明の発展を促すことを、それぞれの作戦目標として定めた。この交渉は、エリスを管理区画へと護送するために現れる神官達を仲介役として、イコベヴィアにこちらの提示する条件を認めさせるためのものだ。それなりの立場………いや、役職の者が来なければその時点で破綻してしまうが、エリスが「この数日はヨケベダ家に匿ってもらっていたんですけど、密告されてしまいまして」と苦笑混じりに零したことで、間違いなく神官医師ヨケベダは現れるだろうと確信することができたのだ。

 この交渉の私達の勝利条件は六つ。

 一、ディア達の無罪放免。

 二、私達の関係者への圧力、他直接的間接的問わず危害を加える行為の禁止あるいは厳罰化を確約させる。

 三、作戦を完全秘匿する。

 四、私の管理区画への移住を認めさせる。

 五、エリスのフロスロイドとしての立場を維持させる。

 六、エリスのエリアルシート管理権限を今よりも上位のものに、可能であれば最上位の権限を得ることと、最上位権限を得られなかった場合は上位権限による命令の無効化権限をエリスに与えさせること。

 これらに対して私達が使えるは二つ、世界の真実をいつでも公表できるという半分は嘘の脅し文句と、"ピアネータ"がすでに工作を始めていて、でこちらの誰か一人が死んだ時点で世界の真実がフローラ中に流れ始めるという、一つ目同様の脅し文句だ。

 ここで大きな問題になるのは、やはり作戦の完全秘匿だろう。初めに母が来ていることを知り若干焦ったのは、母はおそらくもう木札の一件を知っていて、それをヨケベダに話してしまっているだろうと予想したからだ。そして実際にその予想は当たっていたわけで、私が今の人類に不利益をもたらすような計画を立てていることに感づいていると考えなくてはならなくなった。こうなると、作戦の完全秘匿の達成は困難を極めることになる。

 そこで、四つ目と五つ目の間に、新たに勝利条件を一つ追加する必要が出てきた。母が来たと聞いた時点で考えていたことだが、木札の一件を知りつつ私に警戒されずに監視の任務に就ける者────つまりキキをこちらの陣営に引き込むことだ。いくら身分を捨てているとはいえ、ノイドである母が監視するのであれば、管理区画への私のも認められやすくなるだろう。何より、大神官、神官医師、神官付を含めた向こうの陣営で、最もこちらの計画や行動を先読みできるのは、計画の発案者である私をこの場の誰よりも理解している母に他ならない。現状、神官側が得ているこちらの情報は"世界の真実を知った"ということと"木札の一件でメデイアが何かを企んでいる"こと、そして"エリスを味方に引き込んだ"という三つのみであるはずで、ディアの言葉に対する反応を見る限り、彼らが母から何かを聞いて予想を立てていたとしても、それは大幅な修正を必要とする程度の精度だったのだろうと推察できる。ならば、私の性格や行動原理といった、内面の部分から計画を言い当てることができそうな母をこちらの陣営に引き込むことで、向こうの思考を低下、あるいは欺くことができるかもしれない。

 無論、他の者は私と血縁関係にある母を警戒しているだろうが、ここに連れてきているということは、最低限の信頼関係はあるものと見ることができる。問題は、どのようにこちら側の思想へと誘導するか、だ。

 この七つの条件を完全に満たさなければ、私達の勝利はない。もし一つでも満たせない条件があれば、その時は全員破滅へ一直線だ。ひとまず交渉の席に着かせることはできたが、それは前提条件ですらない。

 大神官レヴァ神官医師ヨケベダも神官付達も、全員を懐柔できればそれに越したことはないのだが、と内心溜め息を零す。しかし、彼らには"人類の守護"という一分の隙も一片の淀みもない絶対正義があるのだ。それを覆し納得させられるような小洒落た口説き文句など、今のところは思いつかない。

 応接室の中央に置かれた木製のテーブル────聖芽祭の時に噴水庭園で見たものよりもはるかに意匠が凝らされているそれを挟んだ向かい側のソファに、大神官に続いて神官医師と母も腰を下ろす。神官付二人はその後ろで、ラウラとベレニーチェ、そしてキアーラは私達の背後にそれぞれ控え、そうして全ての準備が整った。

「目的は何だ。平民落ちだけならまだしも、貴族の娘がメデイアに肩入れしても、利益がないだろう」

 レヴァの利益という言葉が指すのは、おそらくは権力や資金的な意味での富だけだ。長く閉ざされた進歩のないフローラの中で、私達は突然変異としか言い表せないような目的を持っており、そしてディアは表向きはそれにある程度は従うように生活してきたのだから、彼の疑問は当然のもので、非常に人間的なものといえる。いや、むしろ、分かりやすく禁忌に触れている私よりも、ディアとラウラの方が異質なのかもしれない。

 私が書いた物語の中にもあるように、同性愛という概念自体は存在しているが、それは忌み嫌われるほどの知名度を得ていない。時計塔の針が動く仕組みと同じだ。中身も装飾もないただの箱のように、そういう空想があるだけで、誰も彼も男同士や女同士で恋愛をするという発想自体を持っていない。かつては百億人が存在していて、しかし今は一万四千四百人しかおらず、種の保存が何よりの課題ともなれば、生産性のない恋愛など人口減少に拍車をかけるだけだ。そこに突然現れたのが彼女達二人で、それを今の今まで隠し通してきたのだから、なぜ今になってフローラを揺るがすような行動を取るのだ、と理解が及ばないのも無理はない。

「こちらの要求は二つ。エリス様を含めたの無罪と、私達の関係者への、直接的間接的を問わず一切の接触を禁じていただきたいのです」

 レヴァの質問をあえて無視して、ディアが要求を行う。

「却下する。世界の実情を知ってしまったのであればなおのこと、お前達を放置しておく理由がない」

 当然の反応で、そして予想通りの回答だ。

「では、フローラや神域とは何なのか、生神や神官とは何か、世界が今どうなっているのか、などを、全て公表することになりますが」

 レヴァの返答を聞いたディアも、予定通りの言葉を発する。

 不可能だ、と言いかけるヨケベダを、母が手で制止する。初めのディアの言葉────"情報の扱いに長けた従者を外に出している"という言葉を思い出したのだろう。

「仮に世界の真実を広めようとしても、フロスロイドやノイドがいなければ信憑性に欠けるわ」

「フロスロイドなら、あなた方の目の前に、一人」

 エリスに視線を向け、少し挑発的に微笑むディア。

 母達が来るまでのわずかな時間に行ったのは、この交渉をどう進めるかという会議ともう一つ、この部屋、この館にある非常用脱出通路、その出入口の場所を共有することだ。脱出通路はこの別館に三つ、入り口は七つあり、そのうちの一つが今いる応接室の暖炉にあった。交渉が完全に決裂した場合は、ベレニーチェとキアーラが母達を妨害している隙に私、ディア、ラウラ、エリスがそこに逃げ込み、ベレニーチェとキアーラが入口を崩すという手筈になっている。無論、万事うまく事が運ぶとは思っていないが、この二人であれば数十秒程度の足止めは可能だろう。

 最悪、エリス一人さえ脱出できれば、残りの"ピアネータ"や他の協力者の力を使って、世界の実情を生神であるエリス自身に演説させることができる。ずさんで穴だらけな計画だが、ノイドとフロスロイドとっては"その可能性がある"という事実の方が重要になるはずだ。

「………二つ目の要求は、一部であれば受け入れよう。一切の接触禁止は現実的ではないにせよ、他の人間達と同じように扱うということであれば、むしろこちらも望ましい。おそらくイコベヴィアもそれには同意するはずだ。だが、一つ目の要求はこちらが被る不利益が大きすぎる。許容できない」

 少なくとも世界の実情を知っている人間は、全員が監視室送りにならなければ事態の収集がつかない。そして世界の実情という情報が現段階で誰に渡っていて、これから誰に渡る可能性があるのかという部分が不明瞭である以上、関係者への一切の接触禁止というのも到底認められるものではない────と、レヴァとヨケベダはこちらが譲歩するべきだと主張する。

 やはり、彼らの目的は、どこまで行っても"人類守護"の一つらしい。

「許容できないのはこちらも同様です。先の二つの要求を受け入れていただけないのであれば、わたくしも本意ではありませんが、従者に働いてもらう他にありませんね」

「そうなればお前達もただでは済まないんだぞ!!」

 声を荒げたのはレヴァではなく、その隣のヨケベダだ。十年前に一度会っただけの相手だが、彼がここまで感情的な性格をしているとは、よほど人類守護という使命を誇りに思っているのかと少々面食らう。

「それが何か?」

 ディアは一瞬、ヨケベダに鋭い視線を向けた後、言葉に詰まるヨケベダとレヴァをよそに優雅さを取り戻して、言葉を続ける。

「そもそも、保身を考えるのであれば、メディとエリスを突き出せばそれで終わる話です。それでは果たせぬ目的があるからこそ、こうしてあなた方に、脅迫的に要求を行っている」

 そしてディアは、勘違いをするな、と語気を強める。

「ただで済むような行動では、世界は変えられない。私達はすでに、をすると決めているのです」

 ホワイト=シンクの人間の未来を思うのなら、私達と共に取り返しのつかないことをするべきだ────と、ディアは言う。

「お前個人の目的が分からない。いったい何がしたい?」

 レヴァがディアに問う。

「メディに協力することでわたくしが得られる利益、という質問に、まだ答えていませんでしたね。簡単な話です。わたくしはただ、誰に隠すこともなく、非生産的な恋愛をしたい。あなた方の使命と信念は、わたくしにとっては、ただ有害で嫌悪と憎悪の対象で、純粋な障害です」

 ソファに座った姿勢のまま、ラウラの手を取るディア。レヴァとヨケベダはそれを見て二人の関係を察したらしいが、なぜかすぐに、私に鋭い視線を向けてきた。二人の関係は私が原因だとでも言いたいのだろう。しかし、私の書いた物語たちが初めて人の目に入ったのは二年前で、ディアとラウラはそれ以前から恋人関係にあったのだから、それは冤罪というものだ。

「やはり、メデイアは監視室へ送るべきだ」

「メディ一人を危険視し、その結果人類の未来が閉ざされても良いと?」

「当然、お前達にも同じ対応をさせてもらう」

「平行線ですわね」

 ディアがちらと時計を見やる。この話し合いが始まってまだ十分ほどしか経っていないが、エリスによるエリアルシートの使用妨害がいつ発覚するか分からない以上、そろそろ成果を出さなければならない。ディアもそう考えたのか、「仕方がありませんね」と譲歩する姿勢を見せる。

「二つ目の要求に関しては、"一切の接触禁止"ではなく"他の者達と同様に扱い、それを保障する"ということでこちらも納得いたしましょう。一つ目の要求は、わたくし達の行動に口出しをしないのであれば、それ以上は望まないということでいかがでしょうか?」

「二つ目の要求に問題はない。だが、やはりもう一つの要求は、ノイドとして到底受け入れられるものではない。特にメデイアの行為は、今のフローラでは容認できないほどに危険なものだ。同性同士での恋愛も、八千年前ならいざ知らず、人口わずか一万数千人のこの時代で一度でもそれを認めてしまえば、出生率の低下と高齢化、それによるフローラ内の食糧生産量の減少など、多くの問題を引き起こすことは目に見えている」

 つまり、とレヴァが手を挙げると同時に、背後に控えていた二人の神官付がソファの陰から身を出し、私達を挟み込むような立ち位置を取る。それに最初に反応したのは母だったが、母の私を呼ぶ声は、発せられる前にレヴァの言葉で遮られた。

「お前達をここで捕らえる以外に、我々の選択肢はなくなった」

 神官付がこちらを拘束しようと動くのと同時に、ベレニーチェとキアーラが彼らに格闘を挑む。私は二人がそれぞれ神官付の注意を引いているその隙にテーブルを蹴り上げ前方に飛ばし、ソファの後ろの暖炉に近づいて、壁の燭台を動かしてから、炉壁の左側を蹴って抜け道への入口を出現させた。

 そこで、室内の異常を察知したらしい残りの神官付が扉を開けて室内を見回し、レヴァとヨケベダの一喝で私に目を向け一足で距離を詰めてくる。

 まさに獣じみた身体能力だな、と感心半分に調度品の一つである陶器の壺で神官付の側頭部を殴り、エリスを炉壁の先へと押し込む。一瞬、ディアに睨まれた気がしたが、非常時なのだから必要な犠牲だったと許してもらえるはずだ。壺で殴った神官付のさらに背後、一呼吸遅れて参戦したアウラもディア同様に私を猛犬のような眼光で貫いてきたが、いくらかの金貨で脱出が可能になるのであれば安いものだろう。やはり貴族というだけあって、良い買い物をする。ほとんどの部屋にこういった壺やら時計やらを置いてあったのは、有事の際の武器として使うためだったに違いない。"ルーナ"・ディアナの用心深さと周到さには感服するばかりだ。後で謝っておいた方が良いだろう。

 ディアとラウラも抜け道へと入り、後は私を残すばかりとなった時、炉壁に向かっていた私の服を誰かが掴んで引っ張って、そのまま壁に叩きつけられてしまった。

 予想以上の衝撃に空気の塊を声の代わりに吐き出し、そのまま絨毯にうずくまる。私を呼んでいるのがディアかキアーラか、それとも他の誰かなのかの判別をする暇もなく、神官付の一人とヨケベダに拘束され、腕を締め上げられる。その状態のまま頭だけを動かして室内の様子を見ると、"ピアネータ"の三人は神官付と格闘を続けていて、レヴァと母がディアとラウラの腕を掴んで、炉壁の向こうから室内へと戻している最中だった。

「神官医師が直接異端者を拘束するなんてね。予想外だ」

 私の挑発を無視して拘束を強めるヨケベダ。ベレニーチェもキアーラもアリアも、ディアとラウラが捕らえられたことで動きを封じられ、拘束される。

 レヴァが逃走したエリスを追うために神官付の一人に抜け道を進むようにと指示を出してから、悠然とこちらを向く。

「こんな隠し通路があるとは知らなかった。この館の設計者や建築に関わった者達も、尋問する必要があるな」

 レヴァの背後で、ベレニーチェを拘束し終えた神官付がエリアルシートを開く。予想よりも対応が早いが、どうやらイコベヴィアに勘づかれたらしい。

 全員が後ろ手に手枷を嵌められ、扉の外で、壁を向いた状態で一列に立たされる。

「メディ」

 背後で、母が私の名前を呼ぶ。ほんの一瞬ディアの視線を感じつつ「何?」と返すと、母の体が私を覆った。

「やっぱり、もっと強く止めるべきだったわ。いつかこうなるだろうということは分かっていたのに。………ごめんなさい」

 聖芽祭の二日前の夜のことを言っているのだろう。だが、仮に両親がもっと強引に私の行動を制限しようとしていたら、私はその時点で家を出て、おそらくディアと知り合う前に穴だらけの計画を実行して、あっけなく監視室に送られていたはずだ。それに、どれだけ母が私の母であろうとしても、ノイドであることに変わりはない。人類の守護という最も重要な目的が揺らぐことはあってはならないだろう。

「謝る必要はないし、謝られても困るよ」

 そういう母の立場は、エリスの話を聞いて理解したつもりだ。しかし、やはり人類の未来よりも私個人のことだけを考えてほしかった、と思うのは、私が理性的ではない子供だからなのだろう。

「館中をくまなく探せ。ディアナの従者はフローラを崩壊させかねない、極めて危険な情報を握っている。もしすでに逃げていたとしても、まだ東三区内にいるはずだ」

 レヴァの言葉で神官付の一人がこの場から離れる。レヴァとヨケベダの前にはエリアルシートが開かれているが、あれはイコベヴィアが指示を出すためのものだろうか。だとすれば、の存在を明かして交渉を再開する好機だ。何か一つ、きっかけさえあればだが。

 ディア達の無罪、関係者へ危害を加える行為の禁止あるいは厳罰化、作戦の完全秘匿、私の管理区画への移住、母の引き込み、エリスの立場の維持、エリスのエリアルシート管理権限を上位のものに………という七つの条件を達成しなければこちらの勝利はないが、だからといって初めからこれら全てを要求しては裏を読まれてしまう。特に私の管理区画への移住をこちらから切り出しては、その時点で作戦の完全秘匿が不可能となるだろう。ゆえにディアは室内で、本来の目的とは少し違う要求を二つ行った。

 私達全員の無罪放免と関係者への接触の禁止は、相手の意識を逸らすための偽りの要求だ。あくまで私達はこれから先も保護区画内フローラでの生活を続ける意思があると誤認させるための欺瞞に過ぎない。イコベヴィアの対応の早さは少々想定外だったが、エリスにエリアルシートを封じてもらっていたのは室内での会話を手早く済ませたかったからという理由からで、それが済んだ今となっては、エリアルシートを使われようと何の問題もない。いや、イコベヴィアと会話ができる機会が来るかもしれないことを考えれば、むしろ望ましくさえある。

 ゆえに、あと一つ、状況を好転させるためのきっかけがほしい。私達が再び"世界の真実をフローラに流す"という武器を使える状況になるための、小さなきっかけが。

「────………ねぇメディ」

 母が再び私を呼ぶ。母は扉が開け放たれたままの室内を見回したり、廊下の先に視線を飛ばしたりしてから、ここにいるべき人物が一人見当たらないことを不審に思ったのか、その疑問を口にした。

「イアソンは一緒じゃないの?木札の件もあるし、てっきり一緒にいるものだと思っていたんだけど………。別の部屋にいるの?」

 「ここにはいないよ」と答える。その私の一言に、母だけでなくレヴァとヨケベダも反応し、すでに逃げたのかとエリアルシートを操作しようと腕を動かす。

「わたくし達が世界の真実を知り、あなた方が来るまでは四十分弱、といったところでしょうか」

 それを遮るディアの声。彼女は拘束されたまま前に向き直り、さらに言葉を続ける。

「この館から別の区画へ移動するには、大通りを避けても二十分程度あれば十分です。この時間帯であれば人目を気にすることもありませんから、全力で走れば………そうですね、足に自信がある方であれば、西三区まで行けるかもしれませんね」

「何の話をしている?」

「先ほどわたくしはこう申しましたわ。"念には念を"………と」

 私達が使える武器は、初めから"脅迫"の一つしかない。そしてそれを機能させるためには、この後の場面に限って、エリスがいない方が都合が良い。

「メディ、あなた………」

「前払いでも渡してるし、イアソンには頑張って仕事をこなしてもらわないとね」

 ここに鏡があれば、不敵な笑みやらを作れているのかを確認できるのに、と口角を上げる。

 現在、抜け道も含めてこの館にいるのは十六人。私、ディア、ラウラ、エリス、ベレニーチェ、キアーラ、アリア、ファヴィオラ、セラフィナと、母、レヴァ、ヨケベダ、そして神官付四人だ。"ピアネータ"の残りの三人であるテオドラ、マレリーナ、ロゼッタとイアソンの四人は、すでにここにはいない。この四人は二十分以上も前に、それぞれ別の場所へと移動してもらっている。

「いくらわたくしの従者が優秀な者ばかりといっても、情報というものは数人で扱えるような単純な武器ではありません」

 まさか、と青ざめるレヴァと、対照的に怒りで顔を赤くするヨケベダ。生神エリスがいるからと憲兵を引き連れずにたった七人でこの場に現れた時点で、彼らは本来必要のない交渉を受け入れざるを得ない状況になっていたのだ。

「メディの御噺に潜在的読者が相当数いるように、わたくしの協力者もそれなりにいるのです。でなければ、どうしてたかが男爵家の一人娘程度が、方々に手を出すことができるでしょうか」

 東三区だけでなく、南にも北にも西にも、中央にも、ディアの協力者は存在する。食事処の開業を後押ししてその後ろ盾となっただけでなく、アガタ=ペタラの発展に大きく貢献している彼女は、平民から見ればほぼ唯一話の通じる貴族家の人間だ。侯爵家に匹敵し、あるいは神官家ですら凌駕するであろう彼女の発言力や影響力の裏には、人類史の存続と人口の維持のために生活の発展を否定され続けてきたその他大勢の、コップ一杯程度の反抗心と木皿半分程度の憎悪がある。もっとも、そのうちの一人がハルだとは思わなかったし、彼が"門番ポルティエレ"と呼ばれ、協力者の中でも特に重要な六人のうちに数えられていたことには驚かされたのだが。

 良いか悪いかは別として、人は革新的で強い扇動力を持つ指導者に追従したがるものだ。それの行きつく先が大抵は保守派による弾圧であったとしても、自分達の生活が今よりも向上するという期待は、最も操りやすい感情となる。

 だが、ディアの恐ろしいところは、平民だけでなく、一部の貴族まで惑わせるという点にある。それは整った容姿だけでなく、おそらく人を惹きつける才能を生まれつき備えていたからだろう。会って話せば固いだけの貴族令嬢ではなく、礼節の隙間に愛嬌が見て取れる彼女は、なるほど、やはり扇動者として相応しい。

「すでに"世界の真実"を知る四人が、外部で工作を始めています。四人には、朝になるまでに私から作戦の一時中止命令がない場合、適宜エリスと合流して"世界の真実"を流布して回るように、と指示を出していますが………。さて、どうなさいますか?人類の守護者様」

 イアソンに"女は災いだ"と言ったことを思い出し、その言葉は私よりもディアの方がよほど似合っているな、と苦笑する。

「………どうあっても、我々に従う気はない、ということか」

「それはあなた方次第ですわ」

 レヴァの指示で、ヨケベダがエリアルシートに何かを書き込む。そして数十秒が経過する頃、私達全員の前で、私達の意思とは無関係にエリアルシートが開いた。状況的に、イコベヴィアの権限によるものだと考えて間違いないだろう。そしてこれは、イコベヴィアが、つまりこのホワイト=シンクを維持しているノイドとフロスロイドが、人の手の届かない天上の神域から私達の用意した小さなテーブルの前に降りてきた、ということに他ならない。人の愚行で一時でも玉座を空けるとは、神を名乗るにはいささか人情があり過ぎる気がするが、人を思えばこそだということにしておこう。


 ────ピオ・レヴァを交渉代理人とし、クラ・ヨケベダを書記官並びに報告官に任ずる


 イコベヴィアのものと思われる文章が書き込まれる。この決定にヨケベダは不服そうな表情を見せるが、からすればこの段階でどこまで情報が拡散されているのかが不明であるため、ある程度の要求であれば受け入れる用意があるという姿勢を見せ、コロニーの維持に努めなければならないのだ、と彼も理解しているらしく、また神官付からも異論の声は上がらなかった。

「それでは、少し荒れてはしまいましたが、交渉再開、ということであれば、やはり必要なのはソファとテーブル、そして良い紅茶でしょう。応接室は落ち着けるような状態ではありませんから、執務室の方へご案内させていただきますわ。………アリア」

 手枷を外され、ディアに呼ばれたアリアを先頭に、手提げ燭台の蝋燭の灯りが薄く照らす廊下を、十一人が静かに進む。計画は次の段階へと移行したが、むしろここからが重要だ。なぜなら私達は、すでに手札を切り終えてしまっているのだから。

 左斜め前を歩くディアが、それとなく私に目を向ける。それに、隣の母やレヴァ、ヨケベダ、神官付に気取られないように注意しつつ頷くことで返し、聖芽祭からたったの数日でずいぶんな状況になったものだと内心で溜め息を吐いて、手汗を隠すように緩く拳を握る。

 何も問題はない。現段階では、何一つ問題は起こっていない。この夜の一席は、まだ私達の手の中から、一度たりとも出てはいないのだ。

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