CHAPTER XIV

「かつて"神"とは、人間の文明の未来にのみ存在し続ける概念でした。石と火の時代の人々がメソポタミアやエジプト、インダス、中国の四大文明を見ればそれを神の御業と考えたでしょうし、その四大文明の人々が産業革命前後やその後の科学の時代を目にしたのならば、神代か天上の世界だと称したことでしょう。観測される時代から常に一定の距離を置いて時の最果てに居座る概念もの、人間が空想する科学と技術の未来のその先、それが"神"でした。当然、宗教としては様々な────といっても、大きく三つに分かれていたみたいですが────信仰による魂の浄化などを説く神を想像していたのでしょうけど。しかし、高度に発達した文明においては"神"とは一種の、単なる精神安定剤のような、心の拠り所以上の意味は、それこそ科学的にはなかったようです。

 しかし、いくら"神"という概念が人間の未来の先に存在し続けるといっても、当然のことながら、人間の未来そのものは永遠ではなかった。そして今、一度衰退した人間にとっての"神"という文明の未来は、遠い過去の栄華となってしまっている。八千年の昔に終わり始めた人間の歴史のみがあなた方が本来"神"と呼ぶべきもので、生神も、神官も、全てはその"神"の滅びを遅らせるための装置に過ぎません」


 ────二十世紀末。産業革命後の大気中の二酸化炭素濃度の上昇とそれによる環境問題が注目され始め、一九九九年一二月から翌二〇〇〇年一月にかけて行われた世界環境保全会議にて、二酸化炭素を排出しない、あるいは排出量が極端に少ない新たなエネルギーの開発が、人類としての急務であるという議論が交わされた。

 それから数十年、二〇四〇年代に発表されたとある論文の内容────環境発電と大気中の二酸化炭素を回収するDAC技術、そして医療用として十分に発達した万能細胞とナノマシン技術を合わせれば、人類のエネルギー技術は一つ先へと進むだろうというその内容が、注目されることとなった。

 その理論が認められ、大気中の二酸化炭素を吸収しエネルギーへと変換、さらにバイオナノテクノロジーの応用によって自己増殖する技術を搭載したナノマシンが製造され、倫理的な問題を解決して、それからそれが散布される頃には、論文の発表から三十余年が経過していた。満を持して────実際に環境問題に興味を抱いていた人間は、この時はまだ極めて少数だっただろうが────散布されたそのナノマシンは、開発者によって"フレークス"という名を与えられることとなった。

 その後、二十一世紀末に暫定的に脱炭素化宣言が世界各国で行われ、石油輸出国の財政が悪化するのとは反対に、地球温暖化や人が手を尽くせる範囲での環境問題は改善されていく。

 しかし、二十二世紀も半ばを過ぎた頃、とある研究班が"重大な問題を発見した"とその研究結果を発表した。彼らによれば、産業革命によって回避されたかに思われていた氷期が、大気中の二酸化炭素濃度の低下によって到来しつつあるのだという。

 始めは見向きもされなかったこの研究結果だが、地球の平均気温が徐々に低下するにつれて議題に上がる回数が増えていき、ついには国際連合環境総会でも"非常に重要な議題"として取り上げられることとなる。会合に参加した者の中には、二酸化炭素排出量を増やして現状の気候を維持、あるいは氷期を回避すべきだという者もいれば、地球本来の気候に対応すべきだと主張する者もいた。人間が環境問題に意識を向けるのは"人間が最も生存に適している環境を維持するため"であるということを考えれば、前者こそが人間的で正しい倫理観を有していといえるだろう。しかし、高度に発達した文明、そしてそれに適応する社会倫理感による強迫観念めいた理性が、前者の意見を封殺し、後者一色に染まっていった。地球に生きるものとして、地球ほしの環境を都合の良い方向へと操作するのは許されることではない。それは人間ではなく神の領域であり、人はそこへ足を踏み入れてはならないのだ、と。数々の科学的禁忌を文明発展の礎として行ってきた過去を背後に追いやり、雪と氷の時代を受け入れることこそ人のあるべき姿なのだと、そういう結論を出した。

 そうして人類は、緩やかに訪れた氷期に、緩やかに適応していくはずだった。

 しかし二十四世紀半ばにフレークスは暴走を始め、必要以上に大気中の二酸化炭素を吸収するようになる。停止命令など全くの無意味で、自己増殖し、自己進化し、わずか数年の間に、フレークスは二酸化炭素だけでなく、メタンや一酸化二窒素など、一般に温室効果ガスと呼ばれるもの全般を取り込むようになっていった。際限なく続くフレークスの活動は、発達し過ぎた文明の弊害か、首都機能が低下してしまえば止められるようなものではなかったという。

 地球が、完全に雪と氷に閉ざされる。そう結論を出したのは、学者や研究班よりも、一般市民の方が早かっただろう。幸いと言うべきか、来たる食糧事情の不安への対策として、人体他家畜含めた複数種の生物の肉体に影響のないバイオナノマシンによる植物の生成には成功しており、野菜類や果物類だけでなく、生物の生息と文明の維持に必要不可欠な植物に関する問題は、そのバイオナノマシン"シーズ"によって解決可能だと判断された。同じナノマシン技術が生み出したフレークスが暴走している最中だというのに、よほどの確信があったのか、それともその時すでに、人類はそれほどまでに追い詰められていたのか。

 シーズはほぼ同時期に開発が完了したバイオナノマシン"ルナベル"と共に一般に公開、実用化され、この二つは二足歩行し、前足を器用に使い、思考し、道具を扱い、知恵を有する生物────人間と同じ外見として世に出されることになった。そしてそれを待っていたかのように、地球は急激に雪と氷が覆う白銀の世界へと変貌していく。

 かつて、長く否定されていたとある学説があった。地球は太古の昔、陸や海の一部だけでなく、その隅々までが氷で閉ざされていた期間がある、というものだ。紆余曲折を経て"事実昔に起こったことであるらしい"と認められたこの全球凍結スノーボールアースと呼ばれる現象を、二十四世紀半ばの人類が思い出したかどうか、それは今となっては知る術もない。しかし地上での生活は不可能だと判断したらしい当時の人々は、強固な避難所兼人類保護のための施設コロニーの建造に着手した。

 コロニーは、試験的に造られた一基を除けば、五つの地域に合計二十基が建造された。ヨーロッパに五基、北南米に四基、アジアに四基、オセアニアに三基、アフリカに四基である。この他にも地下シェルターなどが建造されたというが、資金的な問題か労働力の問題か、あるいはコロニーの存在が公にされなかったからなのか、それらにはコロニーに求められた"超長期間の自給自足が可能な居住施設"という設計思想が欠如していたという。

 そして、人類終末期前夜とも呼ぶべき二十五世紀初頭。全てのコロニーの建造が完了し、ごくわずかな人間がコロニーへと避難した。一時は全世界百億人を誇った人類も、この時すでにその数は六十億を下回っていたとされている。中には月面へ移住した者達や他の惑星への星間航行へと乗り出した者達、シェルターに避難した者達もいたが、それらの結末は記録されておらず、また語り継がれてもいない。


「私達フロスロイド────あなた方人間が生神と呼ぶ者達は花型シーズで、ヒューマノイドノイド────保護区画内で神官筋と呼ばれている者達は月型ルナベルで、肉体の大半が構成されています。もちろん、食事などで蛋白質や脂質、カルシウム、各種ビタミン、鉄分などを取り込みエネルギーにすることもできますが、雪型フレークスに改良、改修と新たな技術を加えていったのが他ののナノマシンであるため、当然フロスロイドもノイドも、大気中の二酸化炭素を吸収してエネルギーに変換することができます。とはいえ、ノイドと違ってフロスロイドの体内には少量のフレークスがありますから、二酸化炭素吸収によるエネルギーの入手は人格破壊や暴走といった危険が大きいので、有事の際以外は禁止されているんですけど」

 ディアの館。一階廊下の奥の、応接室の中。そこで、私、イアソン、ディア、ラウラ、"ピアネータ"のベレニーチェ、キアーラ、テオドラの合計七人が、ソファに座る生神、エリスに視線を送って耳を傾けている。

 カーテンの向こうに見えるフローラの景色は平常通りで、天蓋の異変はすでに収まっていた。しかし当然というべきか、やはりあの暗闇の数十分を見た者は少なくないようで、アリア以外の"ピアネータ"の残る四人は現在、情報収集の目的で外に出てしまっている。あの時間に起きていたディアとラウラ、そして"ピアネータ"だけでなく、ディアの両親や本館の使用人の一部も慌てている様子で、そしてどうやら街でも徐々に混乱が広まりつつあるらしい。敷地内に立つ木々が視界を遮ってしまっているので街の様子はここからでははっきりとは見えず、想像する他にないが、枝葉の隙間から漏れ出る灯りからは、午後の八時か九時かと思われるほどに人の気配を感じられた。

 しかし、話を聞いても、エリスが何を言っているのか欠片も理解できない。地球だとか二十何世紀だとか、コロニーだとか科学だとかエネルギーだとかナノマシンだとか、雪だとか氷だとか、もう少し分かりやすい言葉を使ってほしいものだ、と全員が頭を抱えたり、眉の間を押さえて渋い顔をしたりしている。

「あなた達────つまりフロスロイドとノイドは、管理と権限を譲り受けただけだとおっしゃっていましたが、それは、その八千年前の人間達から、という意味でしょうか」

「その認識で間違いありません。………あ、私に対して敬語や敬称は不要ですよ。今の私は、まだ一年と一月しか生きていませんから」

 私の質問に笑って答えるエリス。

 いわく、人類終末期前夜、コロニーへと逃げ延びた人間達の指導者は、皆こぞって彼ら彼女らに管理を任せたらしい。隔離された空間では高度な文明は必ず争いの火種となり、そしてそれはそのまま人類の滅亡へと直結する。であるならばと、一度文明というものから人類を遠ざけ、十四世紀前後の暮らしを徹底し、フロスロイドという"神"を演出することで、あるいは人類再建までを乗り切ることができるのではないか………と。

「………なるほど。私みたいなやつが異端扱いされるわけだよ」

 娯楽は娯楽でも、卓上遊戯や体を動かすようなものなどであれば問題はない。だが、発想力を伸ばしかねない創作物は、そのコロニーというやつの中では感染力の強い猛毒以外の何物でもないのだろう。フローラの中で書かれた物語たちが生神賛美な内容をしているのにも納得がいく。

「生神様と神官筋が、八千年前の人間に生み出された存在………。なら………」

 ラウラの言葉に、エリスを除いた全員が私を見る。皆の言いたいことはすぐに察することができた。

「ああ、うん。私は半分くらい人間じゃない、ってことになるね」

「………ずいぶん軽い反応ですね」

「だって、眼球を切り裂かれても失明すらせずに、数日で完治するような人間なんて、私以外知らないし」

 確かに、とイアソンが苦笑する。

 その私達のやりとりを見ていたエリスが、目を見開いて「眼球を切り裂かれた………?」と独り言のように漏らす。

「まさかノイドに?いやでも、人間に直接危害を加えることは私達の存在意義に反することだし………。それに、異端って………?」

 別に、何も不思議がることもないだろう。人間保護が使命であり、仮にそれに反するフロスロイドやノイドが存在しないとしても、重罪人を生かして放置するのは危険すぎる。何のことはない、畑作業と同じだ。悪い芽は摘んでおかなければ、その毒素は周囲に広まり、感染し、拡大し、やがて一帯を枯らしてしまう。私達の目的は、まさにその"毒素を感染拡大させる"ことにあるのだから、その《畑》を管理する立場からすれば、極刑以外の選択肢は無い。いや、むしろ真に人間の再建というやつを考えているならば、それこそが最善で最良だろう。

 あの怪我は単純に、私が貴族を煽ったからなのだが。

「いえ、保護区画内で極刑を言い渡された人間は、例外なく管理区画内の監視室へと移されて、人口維持のため、ミクシードの親として生かされ続けますよ」

 表情を崩すこともなくそう言い放ったエリスは、出された紅茶に口を付けて「あちっ」と舌を出し、息を吹きかけて冷まそうとやっきになっている。

 ミクシードとは、私のような神官筋ノイドと人間との子供のことであったはずだが、いくら重罪人とはいえ、まさか延々と体を差し出すことを強要されるというのか。

 まるで人間の牧場ではないか、と嫌悪感が込み上げる。人間の未来を守護する目的を優先して人間性を失わせていては、本末転倒どころではないだろうに。

「いえ。体外受精で………。ええと、失われた技術の一つで、性交を行わずに子供を作る技術があるんです。精子か卵子の片方さえあれば、もう片方はシーズ由来のものを使って、ミクシードとして受精、成長させることができます。大昔には、ナノマシンを使う必要もないことで、特に珍しくもない技術だったとか」

 エリスの言葉に、私とディアは同時に首を傾けて疑問符を浮かべる。ミクシードは人間とノイドとの子供なのだから、ここで出てくるナノマシンとやらの名前はシーズではなくルナベルであるべきだ。

 そう質問するディアに、エリスは「もっともな疑問です」とティーカップを机に置く。

「前提知識として、ナノマシンのことと、フロスロイドやノイドのについて話しておきますね。

 まず、人類終末期前夜に造られたナノマシンは四種────広域散布を目的とした雪型フレークス、フロスロイドの肉体を構成する花型シーズ、ノイドの肉体を構成する月型ルナベル、そしてコロニーの補修やアリエルフォリオ………こちらではエリアルシートと呼ばれているものを使用するために、人間の体内にも少量投与されている星型テラステラで全てです。フレークスは基本的に"毒"であると考えてもらって問題ありません。シーズとルナベルは、様々な物質を取り込んで人体に必要な栄養素に変換、変異が可能ですが、ルナベルは他のナノマシンとは融合吸着しない、という特徴があり、シーズはそれ以外にも植物の構成要素として変異することができます。テラステラはフレークスに代わる散布型ナノマシンとして設計されたもので、本来であればフレークスの吸収という主機能が搭載される予定でした。………しかし、時代的な問題か、その機能を持たないまま中途半端にフレークスへの吸収命令だけが残り、フレークスとテラステラは最も相性の悪いナノマシン、となったようです。本来のテラステラは、コロニー間の超長距離連絡網の要となるはずだったのだとか………。

 フレークスを毒と言ったのは、エリアルシートの使用のために人間に投与されているテラステラがフレークスを吸収しようとし、逆に体内で暴走させて、体組織を吸収、分離させて人間を死に追いやってしまうから、と理解してください。体内に少量のフレークスを有するフロスロイドにとっても毒ですけど。

 さて、シーズに関してですが………。その前に、あなた方には、私がどのように見えますか?外見的な意味で、です」

 どのように見えるか、と聞かれても困る。そう顔を見合わせる私達だが、ふと聖芽祭で初めて見た時や、去年やそれ以前の四季祭で見たエリス以外の生神を思い出し、その際に思い浮かべた第一印象を口にしてみる。

「最初に見た時から、花みたいだな、とは思っていたけど」

「"芽吹きの御使い"なのだから、それは当然のことでしょう。────と、今までなら思っていたはずだけど。先ほどあなたは言っていたわね。シーズは元々、食糧難に耐えるために作られたのだと」

 その通りです、とエリスが微笑む。

「シーズは設計当初、ただの植物細胞の代用程度のものでした。しかし、人類終末期を乗り切るにはそれだけでは不十分だと考えられたのか、シーズの群体に命令を出し、シーズを肉体として操るフロスロイドが生まれた。

 ここで、また一つ質問を。生神フロスロイドは、年に四回訪れるフローラで、いったい何をしていたのでしょう?」

 年に四回。三月、六月、十月、十二月に行われる祭事のことだろう。そこで、彼女達は何をしていたか。フローラの人間が知る限りでは、庭園で神樹に向かって豊穣を約束する、とか、その程度のはずだ。しかしシーズが、フロスロイドがコロニー内での食料不足を回避するために作られたというのなら、祭事での目的は当然、食料となる植物に関することなのだろう。

「でも、祭事の時に畑とかには行ってない。どこか、人間が見てないところで何かをしてるって?」

 私の疑問に、首を振って否を表すエリス。

「神樹の根は、保護区画内の地下に張り巡らされています。つまり、体内のシーズの一部を神樹に移し、農作物のとしてその根に運んでもらうために命令を出す。それが、神樹に対して私達が行っていること、となりますね」

 その程度のことは、文明発展が抑制された保護区画内では、隠れて行わずとも神の御業として疑問を持たれることもない。そういうことなのだろう。いや、そのためにこそ、文明というものを抑制しているのだ。

「フロスロイドにも、雌雄の違いがあります。しかし私と同じ、保護区画内植生管理官という役職を与えられるのは、全て雌の個体です。理由は単純で、豊穣の神とは女神であることが多いから。信仰の対象となるには、雄花型よりも雌花型の方が、都合が良かったんです。まぁ、これは今はあまり関係ありませんね。

 初めの疑問に答えましょう。ミクシードがシーズを有すること、そしてフロスロイドに近い肉体になるのは、一言でいえば"ノイドに生殖能力がないから"です。生殖器官はありますが、それは保護区画内で人間として扱われるための身体的特徴として再現されているに過ぎません。少なくとも、コロニー建造前後の時代では。しかし、それではノイドがもし人間と性交を行った場合に、子供が生まれなくなってしまう。ノイドは元々、かつて存在していたアンドロイド………"プラグレス"なんて呼ばれていたらしいですが、それに改良を加えたもので、いずれ人間の数が今よりもさらに減り、人間同士での交配が困難になった場合に、その交配相手として生み出された存在ですから。ですが、先に言った通り、ノイドには生殖能力が搭載されなかった。そもそもノイドの身体構成であるルナベルは、万能細胞としての能力に乏しいんです。しかし、万能細胞としての能力が高いシーズを有するフロスロイドには、食料維持という重要な使命がある。加えて、他の理由もあって、私達では人間の交配相手になることができない。

 ゆえに、万能細胞としての側面も持つシーズを────フロスロイドではなくを、精子や卵子として人間のそれと受精させる必要があった。つまり────

 一、ルナベルを持つノイドは、人類の守護者として造られた。

 二、しかしルナベルの特徴から、生殖能力が搭載されなかった。

 三、その解決案として、シーズを精子や卵子としても使用できるようにした。

 四、シーズは本来、植物の代替細胞として造られた。

 以上の理由から、かつての技術がほぼすべて失われている現在の人工授精には、シーズが必要不可欠となるわけです。

 通常、人間がシーズ由来の植物を体内に取り込んだ場合、それは万能細胞として機能し、身体細胞として休眠状態に入ります。しかし、ノイドにシーズ由来の人工精子や人工卵子を与えて人間と交配させた場合において、子宮内の胎児が得る栄養にはノイド由来の細胞、つまりルナベルが含まれることになり、生まれてくる子供はシーズ、ルナベルを保有し、そして個人情報管理のためにテラステラを投与され、三種のナノマシンを有する存在となります。これが、本来の意味でのミクシードです。

 テラステラはエリアルシートへのアクセスと、何よりもそれによる正確な人口管理に必要不可欠ですが、ミクシードでなければ、生後数か月以内に投与される分以外は呼吸や汗、排泄などで体外に出されます。しかしフレークスの後継、その代替となる散布型ナノマシンとして設計されているため、シーズを有するミクシードの体内には残り、この場合の命令系統はテラステラの方により上位の権限が与えられることから、シーズと、その二つと融合吸着しないルナベルが完全な細胞化を行わないままに人体の構成組織となり、フロスロイドやノイド以上の自己修復能力や高い身体能力、成長の早さなどの特徴を有することになります。本来の意味でのミクシードがフロスロイド的な外見になるのは、これが原因ですね」

 そして、フロスロイドの特徴を有するということは、五年前後でフロスロイドとしての肉体的寿命を迎えるということです────と、エリスは締める。彼女の説明に対して「とんだ欠陥品ね」と呆れ声を上げたのは、隣で二杯目の紅茶を飲んでいるディアだ。

 エリスの言葉を信じるのであれば、フロスロイドの肉体寿命は五年程度ということになる。しかし、それでは祭事の際に現れる生神が十年単位で変わらない事実と矛盾してしまう。実際、私が知る十年ほどの間は、五日前にエリスが現れるまで赤い髪の生神しか見ていないし、ハルも以前、もう何十年もその赤い髪の生神が祭事の際に降臨していると言っていた。そして、おそらくはあの赤い髪の生神が七十年以上前に降誕したという生神であり、それだけの期間の活動が確認されているというのに、五年程度でフロスロイドは死を迎えると聞かされても、信じることなどできるはずもない。

「保護区画内植生管理官は、特に他の役職のフロスロイドよりも肉体寿命が短いんです。なにせ、自分の体の構成組織を体外に排出して、それで植物の種を生み出したり、草木や野菜、果実類を成長させたりしているわけですから。とはいっても、ある程度であればシーズの分裂能力で補えるんですけど」

 五年前後というのは、あくまで肉体寿命の話なのだ、とエリスは語る。

「フロスロイドとノイドには、記憶核という、人間でいうところの脳の海馬に当たる部分があります。肉体寿命を迎えたフロスロイドは、この記憶核に保存されている記憶、平たく言えば人格とでもなるでしょうか………それを一時的に取り出して、新たに再構成された肉体へと移し替えるすることで、理論上は半永久的に記憶と記録と人格を移し替え続けることができるんです。しかし、その記憶核も百年前後で劣化するため、そういった場合は記憶核に保存されている全ての情報を新たな記憶核へと複製する、記憶透写を行うことで人格の維持を期待するわけです」

 しかし、それには"フルート"と呼ばれるシーズで構成された装置を使用する必要があり、ノイドの場合、肉体の再構成は可能だが、ルナベルの特性から記憶透写が不可能となっているらしい。

 理論上半永久的に、と言ったが、それはつまり、実際には失敗することも多い、ということだ。なにしろエリスは、"前の私が言ってくる"というようなことを、イコベヴィアに訴えていたのだから。

「"前の私"っていうのは、その記憶透写とかいうやつに問題があった、ってこと?」

「はい。記憶透写の失敗率はそれなりに高く、現在最も多く成功しているのはイコベヴィアの四回で、稼働年数は四百八十四年となっています。まぁ、彼女は母体の複製らしいので、記憶透写に失敗しても、人格面に大きな影響はないと聞いていますが」

「母体?」

「フルートのことです」

 フロスロイドが理論上半永久的に活動できるのに対し、ノイドはどれだけ長くとも三百年前後が限界らしい。そしてそれも資源が潤沢であればの話で、現在では人間の寿命と同じくらいの年数である百年程度でするのだそうだ。

「まぁ、ノイドの場合、老化設定を有効にしているかどうかでも変わってきますが………」

 保護区画内で活動するノイドは、人間社会に完全に溶け込むため、肉体の老化が必須となる。しかしそうなると、エネルギー変換効率とバイオナノマシンの自己修復、自己分裂機能の劣化が早まり、資源が潤沢であったとしても百年前後で活動停止してしまうのだという。

 こういった、文明時代とやらでは常識であったという話は非常に興味深くはあるのだが、知識のない私達では十分に理解することができない。

「………待って。資源が潤沢であれば、と言ったように聞こえたのだけど。確かに、フローラの資源は神域………管理区画?から与えられはすれど、それはつまり、管理区画では資源を確保する手段が確立している、ということになるわ。なのに資源が不足しているというの?」

 ディアの言葉に、同様の疑問を抱いた私も頷いてエリスを見る。するとエリスは、「石材や木材程度でしたら、管理区画ではそこまで使い道もありませんから」と答えた。

 神域からフローラに与えられる恵み、つまり資源は、石材と木材、そして水がほとんどだ。六百年ほど前、フローラ全体の家畜の数が減少した際に、神域から豚や牛、羊などの家畜を与えられた、と記録で見たことがあるが、それ以外では先に挙げた三つと、ごく稀に与えられる銅や鉄、金、銀、宝石類などを指して"神域からの恵み"と認識されている。しかしその神域からの恵みも水を除けば定期的にあるというわけではない。フローラ内での資源は基本的に使い回され、そのわずかな資源で、辛うじて人間の生活が成り立っているのだ。神官筋ノイドが行う信仰による統治は、この資源問題を神への服従と献身という内面的な問題へとすり替えるためのものでもあるのだろう。

「本来なら、ある種の王権神授説めいたこのフローラの統治形態は、とても文明的とは言えません。人類史への冒涜とも言えるほどに歪なものです。でも、そうする他に人間を守る方法は、残されてはいなかった。かろうじて人間という種の滅びを遅らせる以外の選択肢は、考えている時間の余裕すら無かった。だからフロスロイドとノイドは、人間達から与えられた最後の命令を守り、発想が飛躍しないように、狭いコロニーの中で科学が発達して全てを知らないように、残された人間同士で資源の奪い合いが起こらないようにと、抑え込むことを是とし続けた。現在では再現不可能な失われた技術を可能な範囲内で維持しつつ、いずれ地表が再び人間の住める地へと戻るその瞬間まで、人間が滅びないように」

 そうまでして抑圧と弾圧を続けなければならなかった、ということは、エリスから情報を得ただけの私達が予想するよりもはるかに、人類は追い詰められているのかもしれない。

「………つまり、このコロニーってやつの外には、少なくとも確認できる範囲では、もう人間はいない。そう受け取っても構わない?」

「一応、他のコロニーからの信号自体は受信してはいるらしいんですけど………。それも一方通行みたいで。それ以外では、八十年近く前に別のコロニーからの緊急信号を受信したのが最後だと、イコベヴィアは言っていました」

 要するに、八千年の間に人間という種はほぼ死滅した、ということだ。いや、むしろ、八十年前まで辛うじてでも他に機能しているコロニーがあった、ということが奇跡に近いことだったのかもしれない。エリスの言葉を信じ、彼女の語った人類の歴史を信じるのであれば、外の世界の環境は、人間が生存を続けることが不可能に思えるほどに過酷ということになる。それに比べれば、この保護区画フローラはまさに楽園と呼ぶに相応しい空間なのだろう。何も知らず、知ろうとせず、その意思もないままに、ただ緩やかに滅びに向かう、人類最後の楽園だ。ここは、すでに失われた十九の花園の後を追う、終わりつつある楽園なのだ。

「────………信じるのか?」

 数分の沈黙の後、イアソンが口を開く。

「俺達はフローラのことしか知らない。神域のこととか、その外のこととかも、何も知らない。なのに、人間はもうすぐ滅びるなんていう、彼女の話を信じていいのか?」

 その感情は理解できる。神域のさらにその先は、穏やかな色彩に囲まれた悠久の地だと、私もそう思っていたのだ。エリスの言葉を疑いたくなるのも当然だし、疑うのは正しい。しかし、そういうこともあるのかもしれない、という程度の認識は持っておいた方が良い場合もあるし、今はまさにそういう状況だろう。

「フローラの中のことしか知らないから、疑うだけの知識も情報も無いんだよ。もちろん、エリスの言葉をここで全部信じるだけの根拠もないけど、あくまで可能性の話として、覚えておかないと」

 エリアルシートを開いて、会話から得た情報を箇条書きにしていく。しかし、いつかは神域と、その先を見て創作に取り込みたいと思ってはいたが、まさかこんな形で外の話を聞く日が来るとは思ってもみなかった。しかも外は楽園などではなく、この閉ざされた空間こそがそれだとは、なんとも滑稽なことだ。

 そうだメディ、とディアに肩を叩かれる。メモを取っている最中に邪魔をしないでくれ、と文句を言おうと彼女の方に顔を向けると、そこには笑顔の皮を被った怒りの怪物がいた。

「エリアルシートの異常を知らせもせずに外に出て、しまいに問題を増やして帰ってくるなんて、そこまで馬鹿だとは思わなかったわ。それに、私は確かに、"くれぐれも気を付けて"と言ったはずなんだけど。ねぇ、私言ったわよね?きちんと、あなたに、"くれぐれも気を付けて"って。酔いが醒めたら記憶から抜け落ちてましたなんて言わないわよね?ねぇ、そこのところどうなのかしら、メデイアさん」

 机の上の蝋燭の、わずかな灯りの中に浮かび上がるディアは、もはや怒りとも呆れとも違う、まるでこの世のものではないような、あらゆる知識人を集めて語彙を集めてもそれら全てが無駄になるような、そんな表情をしていた。

「いや、でも、ほら、外の話とか聞けたし、悪いことばかりじゃないでしょ?私も居候の身分でちょっとどうなのかなとは思ったけど、私達の真の敵ってやつもなんとなく見えてきたわけだし、いやあの話の後だとむしろ私達が人間の敵みたいになってるけど、それもなんというか、つまりは、うん、ごめんなさいということで許してはいただけないでしょうか」

「そういえば、エリス様とお会いする前に、私達がメデイア様を権力者に売り渡したのでは、というような発言をしておりましたね」

 私の世話役が私を裏切ってディアに密告してしまう。そんなことをすれば、ディアの感情の壺が割れて中からおどろおどろしいが溢れ出して、それが私を絡め取って襲うことなど分かりきっているはずなのに。

「キアーラも"警戒心が強いのは良いことです"って言ってたじゃん」

「それを許容するとは申しておりません」

「裏切り者」

「私はディア様からあなたの世話役を命じられているだけであって、あなたの従者ではありませんので」

 メディ?と抑揚のない声で、しかし笑顔は崩さずにディアが私に詰め寄る。この女、あまり怒らない質かと思えば、一度我慢の限界に達すると手が付けられなくなるような性格らしい。ここは一度、話をすり替えて、彼女の怒りが鎮まるのを待つのが得策だろう。

「そ、それよりも!あの時のエリアルシートの内容は、神官筋にも知られているんでしょ?"あの場所"とか"あの子を助けないと"とか、あれは何なの?最後の数字とかさ」

 私の言葉に、ああ、そのことかと冷めきった紅茶を飲み干すエリス。

「管理区画のフロスロイドとノイドの一部には、エリアルシートの上位権限が与えられます。例えば、特定の誰かのエリアルシートを強制的に開く、逆に特定の人間のエリアルシートを一時的に使用不可能な状態にする、とかですね。当然それらの最上位権限を有するのはイコベヴィアなので、あの時はシーズを持つ者、その中でも私と同等かそれ以下の権限の者に対して、強制開示命令を出しました。彼女なら、どうせそれも見ているはずだと思ったので。メデイアさんがあの文章を読めたのも、現在保護区画内の人間のエリアルシートの使用許可が停止されているのにメデイアさんだけが使えるのも、あなたがミクシードで、加えてフロスロイドとしての肉体寿命を超過し、シーズが完全に細胞として定着していることが理由です」

「………それって、もしシーズが定着しなかったら、どうなるの?」

「あなたも経験したと思いますが、五歳前後で発熱と全身の痛みに苦しみ、シーズやルナベル、過剰なテラステラに適合できない体質であれば、そのまま死亡します」

 やはりそうか、と天井を仰ぐ。四歳のあの日の私も、アビーが死んだ時も、実際は原因不明などではなく、シーズだルナベルだテラステラだナノマシンだと伝えること事態が禁忌だったというだけのことだ。

 母は当然、そのことを知っていただろう。ルナベルを体内に保有するミクシードが多く数年の寿命であることも、そしてそれがこの時代ではどうしようもないということも、全て知った上で父と結婚し、私とアビーを生んだ。あるいは私が三種のナノマシンに適合できない体質で、あの夜に死んでいたのなら、母はアビーを生むという決断をしなかったのかもしれない。私に対して多少過保護だったり、やりたいようにやらせてくれていたりしたのも、そういった負い目のようなものを感じていたからなのだろうか、と考えると、私はつくづくどうしようもない親不孝者なのだな、と再確認させられる。

「それで、最初の質問の答えは?」

 エリスは困ったように口元に手を当てたり、頭を揺らしたりしてから、自分でもよく分かっていないのだ、と零す。

「あの場所、というのは心当たりがなくもないんですけど、あの子というのが誰のことなのか、実のところさっぱりで………。メデイアさんは、あの数字を覚えているんですか?」

 一つ頷き、「三十一、ピリオド、七十七万六千四百五十五、コンマ、三十五、ピリオド、十七万八千二百九十四」と、記憶の中からあの時の最後の一文、その数字の羅列を引っ張り出す。

 それに対してエリスは、少し笑って訂正する。

「31.776455, 35.178294。おそらくどこかの座標だとは思うんですが、調べようとしても私の権限ではどうにも無理みたいでして。イコベヴィアに聞いても"エラーの出ているあなたが知る必要はありません"の一点張りですし………」

 座標というのは、まず間違いなく外の世界の、という意味だろう。"あの場所"というのがその座標が示す土地なのであれば、そこで"あの子"とやらが助けを待っていると、そういうことになるだろうか。いや、だとすれば、"あの子"というのは人間ではなく、フロスロイドやノイドと考えるべきかもしれない。

「エラーっていうのは?」

 エリスに質問する。

「はい。フロスロイドは肉体の再構成や記憶核の透写の際にフルートという装置を使用する、というのは説明した通りですが、時折システムに………ええと、その装置を制御する、馬車で言うと御者と言いますか、それが失敗?をするんです。その結果、記憶透写だけでなく、人格面や人類保護という存在意義に致命的な欠陥が出ることがある、と」

 エリスがそれだというのなら、よくそのまま放置することを選択したな、と内心でイコベヴィアの評価を一段下げる。いや、資源が不足しているという話をしたばかりなのだから、その関係で即座にフルートを使用することができなかった、と考えるべきだろうか。だとすると、フルートは何かしらの資源────おそらくはフローラの人間が知りえないような、かつての文明というやつで使われていた資源か何かを消費することで、ようやく運用できるような代物なのだろう。

「彼女に聞きたいことは、今ので全部かしら?」

 冷静さを取り戻してくれたのか、ディアが再びソファに腰を下ろす。

 今のところ、私がエリスから得たかった情報は、ほぼ全て聞くことができた。イコベヴィアのこと、あの時の文章と文字列のこと、それ以外にも、この世界のことや、生神や神官がどういう存在なのかとか、私の体質のことなども。ならばここで、夢想家は一度舞台から降りて、観客に従事すべきだろう。この先は扇動家、あるいは革命家が、壇上でその弁舌を披露する場面だ。そこに必要なのは実務的な会話と根拠のある理想であって、それは妄想と空想と予想と想像ばかりが先行する夢想家が背負うには荷が重すぎる。

 ディアの言葉に頷いて立ち上がり、彼女の隣をラウラへと返す。私はイアソンの横に木の椅子を引っ張って行ってそれに座り、立ち上がりドレスの裾を摘まみ上げてエリスに一礼をするディアと、ソファの横に控えるラウラに視線を送って、さて私達の目的はいったいどうなるのかと観察することにした。

「改めて、自己紹介をさせていただきます。わたくしはエスト=アガタ=ネタラ男爵家の当主、バルダサーレ・エスト=アガタが一人娘、ディアナ・エスト=アガタと申します」

 彼女の態度から"この先はフローラの貴族として対応する"という意図を感じ取ったのか、エリスも子供のような表情をしまい込み、聖芽祭で見た時のような、信仰の対象としての神聖さを纏う。

「まず、非常に興味深い昔話を聞かせてもらったことに、嘘偽りなく、心よりの感謝を。………しかし、この先は現状について────の、エリス様を含めた私達の今と未来について、建設的な議論を交わしたいと考えておりますが、問題はございませんでしょうか」

 問題ありません、とエリスが答える。今の彼女を見れば、なるほど、確かに女神を演じるに足る、十分な魅力を備えているように思えた。人類の守り手としては、これ以上ない配役といっても良いだろう。

「まずは着席を、ディアナ・エスト=アガタ。場の進行は、あなたに一任いたします」

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