CHAPTER XII

 深夜のマナサ=スティーレ噴水庭園付近は、数時間前のまるで祝日中であるかのような蝋燭色の陽気さとは真逆に、人気の感じられない暗く美しい建造物たちの合間を街路が我が物顔で闊歩するような、境界森とはまた違った異質さがあった。しかし異質とはいえ不気味というわけではなく、世界から生き物が消えてなくなってしまったのではという錯覚は、むしろ私に幼稚な全能感すら与えてくれた。あるいはそれは口内に残るワインの風味によるものなのかもしれないが、今に限って、その違いはさほど大きなものではない。

 エリアルシートに書き込まれていったあの文章と、その最後の数字の羅列は気になるが、少なくとも身近な者達の中であの現象が起きたのは私だけだと考えて良いだろう。ディア達と共有しておくべき情報かもしれないが、私達がどうにかできる問題とも思えない。ならばその報告は散策から戻った後でも問題はないか、とこうして酔い醒ましに外に出ているが、夜更けに連れ出されたキアーラとテオドラの恨めし気な視線が突き刺さるように痛い。

「酔い醒ましなら、庭を歩くだけでも良いのでは?」

 時間的に馬車を使っては目立ってしまうので歩いてここまで来たが、深夜に女三人と男一人が噴水庭園近くを歩き回る様を見られては、どちらにしても不審がられてしまうだろう。それならば確かに、バルコニーから見ていた庭で草木を横目に歩いていた方が安全ではあるのだが、この散策には街頭演説の下見という意味もある。最初の街頭演説は東三区の外で行うべきだが、いずれはここでもやることなのだから、建物の位置やどの道がどこに通じているのか、どこが死角でどこが最も人目につきやすいのか、などを確認しておいて損はない。

「それに、イアソンもそろそろ外に出ないとね。ずっと部屋の中にいたらカビが生えちゃうかも」

「それはそうだが、俺はお前と違って酒に強くないんだ。頭は痛いし吐き気もあるし、正直もう帰って寝たい」

 イアソンも特別酒に弱いというわけではないのだが、それでもグラス三、四杯も飲めば部屋に戻ってしまう程度だ。特に今夜は、平民がワインを飲める機会など多くない、とワインボトルを空ける私に付き合って普段よりも多く飲んでくれていたのだから、本来なら潰れていてもおかしくはない。

 そんな私とイアソンに、後ろからテオドラが言う。

「ディア様の許可があったとはいえ、ボトル四本をほんの一、二時間程度で飲み干すとは思いませんでした。少しは居候としての自覚を持ってください」

「予想以上においしくて、つい。今度からは自重します」

 セラフィナと共に資金回りを管理している彼女からすれば、高価なワインを一晩と経たずに四本も消費してしまったというのは、頭を抱えたくなる問題なのだろう。しかし、それもこれも全てはワインというやつが悪い。レーズンとはまた違ったブドウの風味は私にはあまりにも新鮮で、だから気がつけばグラスを呷る手が進んでしまっていた、というのは仕方のないことなのだ。

「………酒に強いのも、神官筋の体質なんでしょうか?」

 キアーラの質問に、少し考えてから「そうなのかな」と返す。神官筋の者は傷の治りが早いという体質を持つが、酔い難く酔いが醒めるのも早い、というのもその一つなのかもしれない。

「────………噴水庭園はどこも変わらないんだね」

 庭園外周を囲むプラタナスの枝葉の先に広がる景色は、オニカ=ペタラのアセラ=スティーレ噴水庭園のそれとあまり大きな違いはなかった。しかし、やはり夜の最も深い時間帯に差し掛かっているせいか、人の気配などまるでない庭園の雰囲気は、祭事場としての神秘さよりも、むしろ生活からかけ離れているという非日常さの方が際立っているように見える。

「気持ち悪い………」

 イアソンが、低く小さく呻いて木の幹に手をついて立ち止まる。なるほど、人は酒を飲み過ぎるとこうなるのかと彼の背をさすり、落ち着いたのを見計らって手を引いて庭園中央へと進む。

 歩き始めの幼子のような足取りのイアソンに「足元に気を付けなよ」と声をかけ、周囲に人がいないことを確認してから灯りの代わりにエリアルシートを開き、噴水の縁に彼を座らせる。すると、私達の酔いを運び去るかのような小さな風が、木々の隙間から庭園内へ、庭園内から木々の向こうへと静かに流れていった。

 その、かつらの前髪を揺らすだけの風に目を閉じて肌の感覚を委ねていると、キアーラが周囲を見回しながら小声で言った。

「こんな見晴らしのいい場所にいては、もし誰かがいればすぐに見つかってしまいます。イアソン様の介抱ならば、あちらの木の陰に移動した方が良いかと」

 蝋燭の灯りすらも夜闇が飲み込む午前十二時二十数分に、いったいどこの誰がこんな場所を見に来るのだ、と片目を細めて呆れ半分で彼女に目をやるが、しかし実際に私達がこうして酔い醒ましにと出て来ている以上、彼女の提案はもっともなものだ。

 それならばと目立つであろうエリアルシートを閉じようかとそう思った次の瞬間、視界の縁に違和感を覚え、それとほぼ同時に三人が小さく声を上げた。

 顔を上げると、暗闇があった。エリアルシートに照らされているわずかな範囲の外は、ベッドの上で毛布を頭まで被り目を閉じている時のような、そんな夢の世界の入り口よりも深く、黒く、暗い闇に飲まれていた。

 イアソン、と呼ぶより先に誰かが私の体を抱き寄せ、その勢いに体制を崩して、背中から地面に倒れ込む。

「何だよこれ?おいメディ大丈夫か!?」

「大丈夫じゃない。君のせいで背中が痛い」

 私に覆い被さるような姿勢のイアソンが、震える声を出す。天蓋が落ちてきたわけでもあるまいに、と彼の狼狽ぶりに多少の平静を取り戻した私は、キアーラとテオドラを呼んで、それからイアソンの手を引いて立ち上がり、物と体の輪郭すら黒く塗りつぶされてしまった周囲に灯りはないかと目を走らせる。しかし時間が時間なのだ。手提げ燭台片手に街を歩く者などいるはずもなく、プラタナスの向こうの建物たちもその影を闇に任せてしまっている。

 これまでの人生でこれほどの恐怖を感じたことなど、ただの一度もない。イアソンの手を握り、この先何が起こるのか、と身構えていたが、数分が経っても状況に変化はなかった。

「………生神様の怒り、ってわけか」

 キアーラが呟く。私達の行動が生神に知られ、その天罰として世界から灯りが消えた、と言いたいのだろう。信仰心の薄い彼女にしては神官めいた発言だが、今だけは少しばかり同意してしまいそうになる。完全な暗闇など、話に聞く地下牢獄くらいしか思い浮かばない。いかに夜の深い頃といっても、天蓋には必ず淡い灯りがあるものだ。それがこの世界フローラのようなもののはずで、そうでなければ世界は立ち行かない、と、そう思っていたのだが、もしやこれから先、天蓋に灯りが戻ることはもうないのではないだろうか。そんな、心臓を麻布で締め付けられているような感覚が湧く。

「な、なぁメディ。俺達死ぬのか?物語の中にあるような世界の終わりって、今のことなのか?」

 終わり。この世の終わりだとイアソンは怯え声を絞り出す。神の怒りに触れた人間が、未来を閉ざされ滅びへ向かう。そういう物語も確かにある。今がまさにそうなのだ、というのは、確かに普通の人間ならば正しい発想なのかもしれない。

「ふざけないで。神の怒り程度で人間は終わらない」

 天蓋の灯りを管理している生神の怠慢にしては度が過ぎた冗談だ、と恐怖を超えて怒りが湧き上がる。私達の頭上に寝そべるただの黒という異常は、街に混乱を植え付け、そしてそれは空腹の犬のように素早く広がるだろう。今この瞬間にベッドの外にいる者がどれくらいの数なのかは分からないが、おそらく時間的猶予は無い。

 これがあと半年か、一年後にでも起きていれば、多少はこちらの武器として利用できたかもしれない。だがまだ何も始めていない段階で、まだフローラの常識を変えようという一歩を踏み出せたかどうかという段階で、街中に、世界の中に混乱と恐怖と狂気とそれらによる信仰が敷き詰められるというのは、計画の失敗を意味することに他ならない。

 それは例えるならば、家を建てるために材木や切り石を用意していたら、その間に土地を誰かに買われていた、というようなものだ。いや、フローラは生神が管理しているのだから元々彼女達のものだろう、と言われればそれまでなのだが、横から殴りつけられるのを黙って見ているのは私の性分ではない。

 エリアルシートの一件といい今のこの状況といい、どうにも聖芽祭以降に集中して問題が起き過ぎている。逃げた生神が関係しているのか私が原因かは知らないが、神とやらはよほど人間を管理したくて仕方がないらしい。自らが与り知らぬ事柄をただの一つも許容できないとは、狭量の一言だけでは表しきれないほどに傲慢だ。

「………エリアルシートを開いていれば足元くらいは見えるから、今のうちに館に戻るべき、かな」

 三人が頷き、私が先頭となって庭園外へと足を向ける。キアーラとテオドラは私達の護衛役という立場であるためか平静を演じているが、その表情は強張っていて、足音を立てないようにと盗人のような歩き方をしている。

 セラフィナと盗みで生活していた時もここまで神経を張ったことなんてなかったのに、と姿勢を低くするテオドラの顔を横目に、来た時と同じ道順を逆に辿っていく。

 噴水庭園付近は栄えているとはいえ、そこから数分も歩けば落ち着いた街並みへと変わる。しかし完全な暗闇の中を転ばぬようにと歩いているせいか予想以上に時間がかかってしまった。夜の早い時間でも短い蝋燭くらいしか灯りがないような、そんな静かな家々の間には未だ混乱も困惑の声もないが、それもいつまで続くか分かったものではない。後々になって不審者として憲兵に通報されるような事態を避けるためにも速やかに館に戻らなくては、と脇道に入ろうとすると、後方を警戒していたキアーラとテオドラが、同時に手を顔の横に挙げて歩みを止めた。

 いったい何事かと質問するよりも先に、私とイアソンは二人に腕を引かれ、昼間は酒屋だろうと思われる建物の陰に身を隠す。二人は私に今すぐエリアルシートを閉じるようにとだけ言って、先ほどまで歩いていた道の、私達が来た方向を険しい表情で見つめている。

「誰か来たの?」

 彼女達と同様、顔だけを覗かせて二人の視線を追う。すると、道の向こうに青白く揺れる小さな灯りが見えた。蝋燭のような温かみのある灯りではない。もっと別の、今の今まで私達の足元を照らしていたエリアルシートの灯りのようなそれは、どうやらそれなりの速さでこちらに向かって進んできているようだった。

 その、灯りのすぐ向こうで走っている人影は、路地の入り口で立ち止まってはその奥を注視し、また走り出すのを繰り返しているらしい。何か、あるいは誰かを探しているようだが、この状況ではその対象は私達くらいしか思い浮かばなかった。

「あれって、エリアルシート?私達を探してるみたいだけど………。エリアルシートを使えるってことは、神官筋の可能性が高いかな」

 神官達が私と私に加担する犯罪者を捕らえるために追ってきたのだろうか。だとすれば、夜の薄灯りが消えたのも彼ら彼女らが原因ということか。ディアの館が監視されていて、都合よく真夜中に私が外出したのをこれ幸いとばかりに捕らえに来た、という可能性も決して無いとは言い切れない。あるいはディアが私を確保したと神官達に売ったのかもしれないし、そうであった場合、キアーラやテオドラが神官や憲兵への私の引き渡しの役割を担っていると考えるべきだ。

 だが、それならば何日も私を手元に置いておく理由がない。では、やはり監視されていたのだろうか。"ピアネータ"の諜報力はフローラでも有数のはずだが、彼女達を欺いて"ルーナ"・ディアナの館を監視することができる組織というのは、平民である私には思いつかない。尋問官のような憲兵の暗部で、一般には存在が秘匿されている者達がいたとしても別段不思議はないが、それにしては見える範囲では一人で行動しているようだし、私の目にはあの人物がどうにも挙動不審に映ってしまう。

「二人は………というより、ディアは私の敵、って考えてもいいの?それとも"ピアネータ"の誰かから情報が漏れていたとか?」

 灯りがないことにはこちらも歩くことすらままならない、とエリアルシートを開いて、イアソンと共に数歩後ろに下がる。キアーラは尋問官の家の生まれなのだ。今この場で最も警戒すべきなのは彼女だろう。

「警戒心が強いのは良いことです。ここで我が身の潔白を主張するのも無意味でしょうからあえて否定はしませんが、現状の把握で手一杯なのは私も同じだ、とだけは伝えておきます」

 しかし、ひとまずエリアルシートは閉じておいてください………という彼女の言葉に、数瞬迷ってからその通りにする。

「それで、どうする?」

「逃げます」

 私の問いに、キアーラが即答する。セラフィナもイアソンも賛成らしいが、それには灯りとしてエリアルシートを開く必要がある。あるいはあの走って来ている何者かは私のエリアルシートの灯りを見つけて、それで追ってきているという可能性も考えられるのだ。このままやり過ごせるのであればそれに越したことはないが、あいにくと隠れられそうな場所もない。

 キアーラとテオドラが私達をあの正体不明な誰かに突き出そうとしたなら、その時は二人を殺してでも即座に逃げるぞ、とイアソンの手を握り、指で指示をする。しかし彼は私の耳元で「いや」とだけ発し、私の人差し指を自分の胸まで持っていって、それから道の奥へと私の手を向けた。

 なるほど、確かにこの状況で、二人共に逃げ延びるというのは現実的ではない。ディアが密告者であった場合は協力者を失うばかりか、私の計画も明るみに出てしまう。ならばイアソンが尋問官相手に偽りの情報を証言し、その間に計画を練り直す、というのも一つの手ではある。

 彼の献身もここまでくるともはや狂信の類だな、と苦笑いをして、ゆっくり、静かにイアソンの隣に移動する。

 そして、私が道の奥へと一歩下がったその瞬間に、淡い灯りが私達のいる場所を申し訳程度に照らした。

 キアーラとテオドラは姿勢を低く構えたが、灯りの主の顔を見ると一歩下がり、首を垂れて敬意を示すべきかと顔を見合わせ、形式的に膝をついた。

 私達の前に現れたのは神官ではなかったが、しかし、ある意味では予想通りともいえる存在だった。

「────あの、あなた方の中に、神官がいると思うのですが………。どうか、私を匿ってはいただけないでしょうか」

 黄色い百合の花弁のような髪と、私によく似た黄緑色の瞳。フローラの民が信仰を捧げる対象であり、"芽吹きの御使い"とも称されるもの。私が嫌悪と侮蔑を捧げる対象の一つで、そのくせ五日前の聖芽祭の後に逃げ出したという、前代未聞という意味で私と共通しているであろう女。

 今年新たに降誕した生神が、そこにいた。

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