CHAPTER XI

 生まれて初めてのパイプは味を感じる余裕もなく、ただ煙が舌に辛味を移していくだけだった。

 エスト=アガタ男爵家邸宅の別館、その二階のバルコニー。今夜の風は南南西区ザフィラ=ペタラから北北東区スメラルダ=ペタラへとほぼ直進するように穏やかに吹いており、東南東区であるここに来る風は、風というよりは空気が身じろぎしていると言った方が正しく思える程度に弱々しい。

 その弱々しい風にパイプの煙を乗せながら、南西向きに設置されたバルコニーから南三区の方向を見る。すでに午後十一時も終わり頃ということもあって街路の灯りは見えず、昼間とは比べ物にならないほどに淡く暗い天蓋の灯りと、それにわずかに照らされる建物や木々の青みを帯びた黒い影だけが広がっていた。

 静寂と草木の匂いがあるなら夜を楽しむには十分だな、とワインを呷り、パイプの練習へと戻る。二、三度煙を吐いた頃になって背後に気配を感じ、振り向くとディアがプラチナブロンドの髪に蝋燭の灯りを反射させて、バルコニーの入口に立っていた。

「パイプには慣れた?」

「どうかな。吸い方が下手なのかもしれないけど、正直美味しくない」

 私がそう言うとディアは口元に手を当てて小さく笑い、隣まで歩いて来て、バルコニーに置かれた机の上の燭台で自分のパイプに火をつけた。

「葉巻にも言えることだけど、パイプはんじゃないの。煙の逃げ道を口の中だけに限定するというか、煙が自然に口内に移動して染み込んでくるような感覚というか。吸おうと思って吸うと、ただ煙の辛さだけが伝わってしまって、せっかくの葉の味が霞んでしまうのね。だから丁寧に舌の上に乗せて、じっくりと転がすのよ」

 そういう点ではワインも似ているわね………と、パイプを吹かすディア。彼女いわく、辛味のあるたばこはあっても辛いたばこなど存在しないらしい。それは吸い方が下手なだけで、嗜好品として楽しめていないことの証拠なのだ、と。

 権力者が紅茶や酒、などを嗜むのは、その体面を保つためという理由もある。平民が口にする飲み物はエールか水、良くてビール程度で、それらも水分補給が目的であって、嗜好品として酒や茶を飲むことなど祭りの時か、遊び人が夜に労働の疲れを癒す時くらいのものだ。たばこに至っては葉巻一箱、刻みたばこ一箱で金貨一枚なのだから、平民わたしたちが生涯で一度でも吸うことができれば"幸運だ"と自慢できるほどの高級品である。この狭いフローラの中で、食料にならないたばこ葉の畑に充てられる土地は多くないのだから当然だろう。それゆえに、それらを日常的に楽しむというのは、富める者であるという証明となるのだ。

「イアソンさんは?」

「さっきまでそこでワインを飲んでたけど、パイプは合わないって部屋に戻った」

 イアソンは私と違って、夜の景色を好む性格ではない。それは二年前の一件以降、毎夜毎夜を一人で過ごしていたことも理由の一つかもしれないが、しかしそれ以上に、多くの者が"夜は暗く寝るだけの時間だ"と考えているということが大きいだろう。夜闇を照らす蝋燭は、溶けた蝋を再利用したもので一本石貨二枚。これはライ麦パン一つとエール一杯、つまり最低限の一食分と同じ価値だ。数時間で消えてしまう灯りのために金を払って夜を楽しむよりも、食事を豪華にしたいと思うのは当然のことだろう。

 とはいえ、夜の早い時間であれば、銀貨数枚の手提げ燭台に蝋燭を立てて歩いている者も少なくない。もっともそういった者達は、夫婦喧嘩家族喧嘩の原因になるような性格だったりすることがほとんどなのだが。

 そう考えると、私が昼よりも夜の方を好むのも納得できてしまうな、とパイプを吹かし、灰皿にパイプの中の灰を捨てる。

「本格的に行動するのは新年祭の後からにしようと思っているんだけど、そっちは問題ないかしら?」

 変装に関しては及第点、あとはかな、と答えてグラスを空ける。"イラリオの食事所"でディアが指摘した通り、嫌味な相手と見れば考えなしに罵倒と皮肉を携えて殴りにかかる、というのは私の最大の欠点だ。しかしこれからフローラの常識しんこうを力業で変えていくのであれば、私が浴びるのは罵倒と皮肉などではなく、私を異端認定し、排斥し、神への信仰心に裏付けられた殺意をもって愚者の焼き印を押すような、否定と糾弾に石つぶてを添えたものになるだろう。それら全てを相手取って感情任せに啖呵を切るような短慮は、絶対にあってはならない。

 "イラリオの食事所"で、ディアとドメニコが互いに新年祭の準備について挨拶程度に触れていたが、実際のところ、貴族や神官が新年祭に向けて行う準備など大したものではない。聖芽祭からたったの七日なのだからそれも当然ではあるのだが、春、夏、秋の四季祭や聖芽祭と違って、生神が来ない新年祭はフローラ五大祭事の中で最も簡素で最も活気のないもので、何を用意するだとか何に大して準備をする、というような意識はほとんど誰も持っていないのだ。

 しかし祭事は祭事、聖芽祭の飾りつけもそのままに────これは一月六日の萌芽の祝日まで取ってはならない決まりだ────新年祭の飾りを置いて、多くは各ポリナの恵みの庭園で、一部の者は噴水庭園で、それぞれ祭りに臨まなければならない。特に貴族は、に権力者であるがために"気が抜けていたせいで祭事に遅れました"という言い訳は通用しないのだから、大した準備など必要なくとも最低限の時間は割かなければならないのだ。加えて、平民にとっては新年祭は豊穣祈願を行う祭りでもあるため、そこに生神が来ていなかったとしても、ある程度の体面────つまりは信仰心を保っていると示す意味合いもある。

 その新年祭の後から計画を実行するとなると、一月の三日か四日あたりだろうか、と庭に視線を落として予想する。

「灰被り祭までにメディの読者を増やして、収穫祭あたりで大きく動けたら良いんだけど」

 灰被り祭、収穫祭というのは、それぞれ春の四季祭と秋の四季祭のことだ。平民は冬の四季祭である聖芽祭以外は春、夏、秋の四季祭と呼ぶことがほとんどだが、貴族や神官は本来の祭名である灰被り祭、諸精霊祭、収穫祭の方を使う。収穫祭は獣の仮装をするという特徴から"獣被り祭"とも呼ばれているが、特に神官達はあまり快く思っていないらしい。

 余談だが、五つの祭事の他にも五つの祝日というものが存在する。こちらはその期間中、憲兵などの特殊な職業の者以外の全員が労働を禁じられるというもので、神官達は"生神へ信仰と祈りを捧げる日"としているが、一般的な平民にとっては年に数度の貴重な休日だ。灰被り祭に最も近い祝日は火起こしの祝日で、灰被り祭から火起こしの祝日までの四十六日間は肉を食べてはいけない、という、平民にはあまり関係ないが、しかしよく考えると理由も大して分からないような決まりがある。

 中でもパンと水、ワイン以外を口にしてはいけないという、普段から似たような食事ばかりを摂っている平民にとってはまさしく苦行とも言えるような祝日期間もある。獣被り祭秋の四季祭から一月弱後の、十月三十一日から十一月二日の魂を祈る祝日だ。秋の四季祭は一年で最も食事を楽しめる日だと言われているが、魂を祈る祝日は真逆である。獣被り祭で舌と鼻と喉と腹を存分に満たした分の帳尻合わせにしても、わずか一月弱でとなると高利貸しも改心して丸太運びに精を出すというものだ。

 その、仮装で個人の判別が困難になる獣被り祭で大きく動きたい、というのは私も少し考えていたことではあるが、それまでたったの十か月程度しかないのでは無謀が過ぎる。ディアと"ピアネータ"の力を含めて考えても、一年未満で全ての準備を終えられるとはとても思えない。

「でも、あまり時間をかけすぎて、メディと私が友好的な関係にあると知られるのも困るわ。そうでしょう?」

 パイプから灰皿に灰を移したディアが、ワインを一口含み、喉奥に滑らせて言う。

 確かに、悠長に構えていても、いずれは神官や他の貴族に目を付けられてしまうだろう。私は数年か数十年をかけて行動するつもりだったが、時間が経てば経つほど私の存在が発覚する危険は増していく。ならば短期間に集中して、というのも悪くはない。いや、むしろ望ましいくらいではあるが、それにはフローラの民一万四千四百人の考えと常識と信仰を即座に塗り替えなければならない、という大きな問題がある。人の思考しんこうは容易に矯正できるようなものではない。それは私自身が誰よりも理解していることだ。それゆえに私が書き手であり続けるためには時間が必要なのだが、ディアはそれを十月の間に全て済ませよう、と言う。

「一万四千と四百人を、子供が出来て胎から出てくる程度の期間で変えられるって?」

「ええ、もちろん。私と、彼女達ピアネータなら」

 バルコニーの入り口の方を見て、ワインボトルを盆に載せて現れたラウラを指して答えるディア。そんなディアにラウラは、呆れたような表情に大きな溜め息まで付けて小言を返す。

「私達が担う負担の方が、圧倒的に大きいように思えますが」

 ラウラの視線がこちらに向き、再び溜め息を零す。

「ディアがやると決めたなら私達は従いますけど、公務を放って遊びに耽るなら、問答無用で引っ叩きますからね」

 と、私にも釘を刺す。彼女の瞳には"私とイアソンお前達の存在と目的が私と"ピアネータ私達"の仕事量を増やしているんだぞ"とかなり本気の怒りが込められていて、それだけで普段の仕事の過酷さが想像できた。

 この別館で生活している使用人はラウラと"ピアネータ"の八人のみで、その九人で通常の使用人業務と"ピアネータ"としての任務をこなさなくてはならないのだから、余計な仕事を持ち込んできた私とイアソンを快く思えないのは当然だ。エスト=アガタ男爵家邸宅の本館でも当然使用人は雇われているが、彼ら彼女らはディア達の裏の顔を知らない上、平時は別館への立ち入りが禁じられているという。それはつまり、炊事、洗濯、掃除にベッドメイキング、湯沸かし風呂沸かしから庭の手入れに諜報活動まで、ありとあらゆる場面をラウラと"ピアネータ"が支えているということだ。特にラウラはディアの専属使用人でもあるのだから、この数日は私に殴りかかりたくなるほどに仕事漬けだったに違いない。

 そういえば、と口に指を当て、「"ピアネータ"はディアが勧誘したって聞いたけど、ラウラとはどこで知り合ったの?」と質問する。アリアとファヴィオラ、ベレニーチェの三人はノルド=トパツィアの借金を抱えた児童養護施設の職員、ロゼッタはその児童養護施設に返済を迫る金貸しの大元であるノルド=トパツィア男爵家の娼婦、マレリーナとキアーラは憲兵の中でも嫌われ役として有名な尋問官の娘、テオドラとセラフィナは親の死後に貧しい施設暮らしを嫌ってスド=ディアスプラの農耕地帯の辺りで盗みで生計を立てていた、というのは聞いたが、ラウラはいつ、どこで、どのようにディアと面識を得てここに来たのだろうか。通常、専属使用人はその家系にある者が従事するものだが、ディアの従者がそんな普通の経歴であるとは思えない。

 ディアは注がれたワインの香りを楽しみ、一口含んで飲み込んでから、「本館の方の、料理人の娘よ」と答えた。

「筆頭専属料理人ではなく、下級の、一般料理人の家の出です。おかげで周囲からの風当たりが強くて困っていますが」

 それを言うのであれば、他の面々────尋問官の娘であるマレリーナとキアーラは別として────の方がよほど風当たりというやつは強いのではないだろうか。なにせ彼女達には家柄というものがないのだ。

 ラウラがエスト=アガタ男爵家の一般料理人の娘なのであれば、この二人は幼少から付き合いがあったということか。"ピアネータ"のように外部から連れてきた人間を使用人として雇い入れた、というわけではないのだから、その点では多少は専属使用人の家系の者達からの反感も少なかったかもしれない。あくまで多少は、だが。

 ラウラの父は貴族の食卓を支えているという自負心が強すぎる人物で、彼女は「母から"早く息子を生め"と怒鳴るような男だったと聞きました」と語る。しかし生まれたのは娘であるラウラで、元々あまり体が強くなかった母は二人目以降を生むこともなく、父は仕事を継がせる相手がいなくなったという理由でラウラとラウラの母を鬱憤晴らしとして使うようになったのだ、と。六歳の頃のラウラは、毎日父の手によって新たな痣と傷をつけられていくような生活を送っており、その頃に出会ったというディアは当時を振り返って「本当に生気のない、絶望すら感じていないような瞳をしていたわ」とラウラの手を握った。

「殴る蹴るだけでなく、シーツを頭まで巻き付けられて一晩中ベッドの下に押し込まれたり、熱した鍋の底を背中に押し当てられたり………。"ピアネータ"の皆にも共通していることですが、私達が他の方々よりも信仰心が薄いのは、神などを信じていても苦痛は消えない、ということを身をもって知っているからかもしれませんね」

 ディアの手を握り返すラウラを見て、彼女が私を嫌っている節があるのは、私が持つフローラの信仰心への敵意や憎悪の根柢に、育った環境の悪さという命に関わる切実さが無いからなのかもしれないな、と思った。

「予想通りって言ったら失礼かもしれないけど、別館ここにいるのって皆そういう人ばかりなんだね。私とイアソンは別として」

「だってラウラがきっかけだもの。"ピアネータ"は私個人が社交界で権力を持つために作った組織だけど、アリアとファヴィオラと知り合った五年前に、彼女達の協力でラウラを私の専属使用人にして、その時の縁があったから"ピアネータ"ができたの」

 アリアとファヴィオラは、ここに来る前はベレニーチェと共にノルド=トパツィアの児童養護施設で働いていたはずだ。当時から金貸しを追い払える程度の護身術の心得があったとは聞いたが、その頃の二人にディアが必要とする技能や知識、あるいは人脈があったとは思えない。

「ディアは今十七歳だよね?ラウラが十八歳で、五年前ってことは………ああ、ラウラの成人の儀の前後くらい、ってことか」

 ラウラの父は跡取りとしての男児を欲しがっていたというが、大方彼女を適当な家に嫁がせて息子を生ませ、そのラウラの子を料理人として育てようと考えたとか、そういう話なのだろう。ディアとラウラが当時から恋人関係にあったのであれば、当然ディアもラウラもそれには反対したはずだ。とはいえ二人の関係を明かすこともできず、どうにかラウラと彼女の父との間にある親子という関係を絶てないかと頭を捻らせた結果、アリアとファヴィオラの紹介でラウラを一度ノルド=トパツィアの児童養護施設に預け、そこから身元不明の少女としてラウラを専属使用人として改めて迎えた、と、そんなところだろうか。

「なんというか、考えなしかと思えば妙なところで頭が回る人ですね。人の記憶でも覗けるんですか、あなたは?」

 どうやら私の予想はほぼ正解であるらしい。しかし、私のこれは長年の読書生活の副産物というか、ある程度の情報を基に"物語の登場人物ならこんな感じになるかな"という想像をして、それを現実に当て嵌めているだけに過ぎない。当然、そんなものが人の記憶を覗いたかのように毎回正答であるはずもなく、今回は珍しく当たった、というだけだ。

「ちなみに、その"少しの情報と想像で相手の経歴を言い当てる"という特技の正解率はどれくらいなの?」

「十三回やって、当たったのは一回。今のところはね」

 ならただの偶然か、と二人同時に声出して笑う。そもそもこれは人間観察の一環というか、創作に役立てるための趣味未満の癖のようなもので、当たるかどうかにはさして意味などないのだ。それに対してこうも笑われると、いくら前向き向こう見ずな私でも、食事を取り上げられた猫のように拗ねることくらいはしてみせるぞ、と頬を膨らませる。

「はいはい、ワインでも飲んで機嫌を直しなさい。………ふふ、なんだか、手のかかる妹ができたみたいで楽しいわ」

 妹ねぇ、とグラスを呷り、ラウラにワインを注ぎ直してもらう。

「貴族で一人っ子っていうのも、あまり聞かない話だよね。一人息子っていうならまだ分からないでもないけど、一人娘ってなると他家の次男三男を婿養子として迎えるしかないし」

 私がそう言うと、ディアは刻みたばこを丸めてパイプに詰めて「そういえば言ってなかったわね」とラウラに火をつけさせる。

「私がエスト=アガタ男爵家の一人娘なのも、あと半年くらいのものよ」

「てことは、ディアのお母さんは今妊娠三、四か月くらい?」

「三か月目ね。弟か妹か、どちらにしてもきっと可愛いのでしょうね」

 それはおめでとう、と返して、しかし生まれてくる弟か妹からすれば親子ほどに歳の離れた姉ということになるな、と未来の彼女たちの様子を想像する。

「私よりもメディの方が珍しいでしょう。平民の一人娘というのは、私はラウラ以外は知らないわ。街中では四人五人の子供を連れている者達ばかりだし」

「"ピアネータ"は皆一人っ子じゃないの?」

 私の質問に、ディアは「血縁関係として姉妹がいるのはロゼッタと、双子のマレリーナとキアーラ、この三人ね」と答える。アリアとファヴィオラ、ベレニーチェは児童養護施設で育った姉妹のようなもので、テオドラとセラフィナもお互いを義姉妹だと認識しているらしい。ロゼッタは親に売られる形でノルド=トパツィア男爵家の娼婦となったため、血縁はともかく本人は"ピアネータ"が自分の姉妹だと感じているようだ。

「マレリーナとキアーラが双子っていうのは、初耳なんだけど。だってあの二人、あんまり顔似てないじゃん」

「裏の顔がある人間が、双子なんて目立つ容姿でいるわけがないでしょう」

 あの二人は、元々双子にしてはそこまで似てはいないかな、という容姿だったらしいが、今はそれを化粧でさらに姉妹にすら見えなくしているのだという。

 ディア様、とラウラがディアの耳元で囁く。

「平民の子供は特に病気に罹りやすく、五歳前後で死亡する者も多いですから、"平民が子沢山"というのは、子供が死んでも代わりがいるという意味にも捉えられかねません。あまり深く聞くような話ではないかと」

「………そうよね。そういう話は私も聞いたことがあるし、貴族の娘として軽率だったわ。ごめんなさい、メディ」

「気にしなくていいよ。私から話を振ったんだし」

 私の表情で何かを察したのか、ディアは少し表情を暗くして、数秒迷うような素振りを見せてから、「あなたにも弟さんか妹さんが?」と聞いてきた。

「六年前まではね。アビー………アビゲイルっていうんだけど、熱と痛みが引かなくて、何の病気かもよく分からないまま、ね」

 私と同じ紫の髪をしていて、歩けるようになると私の後ろを小さな足でついて回るような、可愛らしい男の子だった。私が四歳になる少し前に生まれたアビーは、三歳のある日に熱湯を被せたような高熱と全身の痛みを訴えて、その二日後の朝には、それまでの発熱がなかったかのように冷たくなっていた。神官医師の邸宅の一室でアビーでなくなってしまったを見た時は、体が胸のあたりから上下に分かれてどこかへ飛んで行ってしまうのではないかと感じたものだ。

「確か、メディも四歳くらいの時に、熱と全身の痛みでヨケベダ様の邸宅に運ばれたと言ってたわね。当時は流行り病とかはなかったはずだけど………」

「どっちも原因不明、だってさ。神官医師でもどうにもならない病気って、きっと結構あるんじゃないかな」

 私がアビーと同じような状態になった時────といっても、その時のアビーはまだ元気そのものだったのだが────の父と母はきっと、酷く狼狽していたに違いない。熱と痛みが引くまでの間のことはほとんど覚えていないが、町医者に連れていかれた時も、ヨケベダ家の邸宅に連れて行かれた時も、二人が砂利道のように枯れた声で私の名前を呼んでいたことは記憶に残っている。両親が他に子供を欲しがらなかったのは、もしまたあの時のようなことがあったら、という恐怖心があるからなのかもしれない。

 だから、アビーが死んだ後から少しばかり私に対して過保護になったり、逆に私のやりたいことがフローラの一般常識から大きく外れていてもある程度までは口を出さないでいてくれたのは、きっとアビーにも向けるはずだった愛情をも私に注いでいてくれたのだろう。

「────………あなたのことを、ずいぶんと探しているようですよ」

 ラウラの言葉に「分かってる」とだけ返す。

 聖芽祭から五日、生神が祭りの後から姿を消していることでフローラの裏側はそれなりに混乱しているらしく、そのおかげで木札の一件の発覚は遅れているようで、"ピアネータ"が調べたところによると、木札はオニカ=ペタラを中心に広まり始めているらしい。計画の第一段階土台はひとまずは順調といえるが、それはつまり父と母が私のやろうとしていることを知った可能性が高い、ということでもある。私を匿えるような相手に心当たりがない以上、おそらくは比較的治安の悪い土地────南三区や北三区の一部のような、貧民が多い町を探しているのだろう。ヨケベダの邸宅くらいには足を向けた可能性はあるが、中央は生神の捜索で元神官付の娘程度に時間を割く余裕はないはずだ。

「あなたはご両親が憎い、というわけでもないのでしょう?"メディは無事だ"と伝えさせることはできるし、それくらいなら問題ないと思うけど?」

「ありがとう。でも大丈夫。その気遣いはまたそのうち、別の機会にしてくれると嬉しいかな」

 母は父との結婚の際に神官付という身分を捨ててはいるが、だからといって信仰心を失ったわけではない。木札の一件も、母がヨケベダの下に行くのであれば、その時に必ず報告をするだろう。何より二人は私の親なのだ。私の性格を私の次によく理解しており、その上で私が書き手であり続けることを否定するのなら、もう元の家族に戻ることはできない。それが分かっているから私は今ここにいて、二人は今私を探しているのだ。五日前の聖芽祭の後に家に戻らなかった時点で、縁を切るという意思表示はすでに終えている。

「数日後には、あなた達と私達の計画を、本格的に始めるつもりよ。憲兵に捕まれば、元神官付の娘であろうと投獄され、極刑にだってされるかもしれない。あなただけでなく、あなたのご両親も、イアソンさんも、あなたが話せば私達も。本当にそれで良いのね?」

 ディアが次の段階までに数日の時間を作ったのは、私の覚悟の度合いを見極めるためという理由もあったのかもしれない。この館の主である彼女は、親がいなかったり、親に売られたり、親から惨い仕打ちを受けていたりといった、そういう者達を多く見てきたのだろう。だから親がいて、親に愛されているはずの私がそれらを本当に切り捨てられるのか、いや、そもそも平凡に恵まれているはずの私がなぜ家族と縁を切ってまでわがままを通そうとするのか、それが疑問なのだろう。

「………良くはない、と思う。お父さんのこともお母さんのことも好きだし、大切に思ってるし、親不孝者だっていう自覚もあるよ。アビーのこともあったからなおさらね」

 それでも、やはり無理なものは無理なのだ。さして大きな理由や原因があったわけでもないが、私は私であることの高揚感と満足感を知ってしまっている。何があってもこうしていただろう、という確信が、心の臓腑から溢れ出てしまっているのだ。

「それにね、イアソンには言ったんだけど、"取り返しのつかないことをしてやる"って決めたから。そうじゃないと、きっとこの世界フローラで私は生きていけない」

 面倒な女だ、と呆れる二人に、「そういう呪いなんだ」と笑って返す。しかし、面倒な女だというのであれば、それはこの館で生活する全員が対象であるべきだろう。ディアもラウラも、キアーラとベレニーチェも、アリアもファヴィオラもロゼッタもマレリーナもテオドラもセラフィナも、全員が全員、度し難いであるはずだ。少なくとも、今のフローラの中では。

 グラスを空けて立ち上がり、伸びをしてから、鈴を鳴らしてキアーラを呼ぶ。

「酔いを醒ましたいから、少し外を歩いてくるよ。変装してれば私だってことは気づかれない、って分かったし、思い切って噴水庭園辺りまで行ってみようかな」

 私達が食事屋に行っている間、一人部屋で待っていたイアソンも連れて行くとしよう。この数日は外に出られていなかったから、彼もそろそろ新鮮な空気を吸いたい頃だろう。

「なら、テオドラも連れて行くといいわ。この時間なら空いているだろうから」

 護衛ならベレニーチェの方が適任な気もするが、彼女の仕事はディアの身を守ることであって、客人や共犯の護衛はそこに含まれていないらしい。テオドラとはまだ一、二度しか顔を合わせていないが、セラフィナと共に盗みで生活をしていた彼女であれば、確かに深夜の散策のお供には申し分ない。

 ありがとう、と手を上げ、バルコニーから屋内へと戻る。ガラス戸を閉める直前、ディアが「くれぐれも気を付けて。くれぐれも、ね」と念を押してくるのでそれに"私はよほど手のかかる女らしいな"小さく笑いを噛み殺し、蝋燭の小さな灯りが揺れる長い廊下を部屋に向かって歩いていると、唐突にエリアルシートが開いた。

「何………?」

 閉じようとしても操作ができず、やがて何も映されていなかったそのページに、一文字、また一文字と書き込まれていく。


 ────前の私が


 ────前の私が、あの場所に行かなくてはと


 ────あの場所で、あの子を助けなくてはと、そう言ってくるんです


 ────あなたなら、これを見ているんでしょう?


 ────私を連れ戻さないで、イコベヴィア


 ────私をここから出して


 ────ホワイト=シンクの、外に出して


 明らかに誰かと会話をしている。この文章を書いている者は誰かから逃げていて、"連れ戻さないでくれ"とその相手に伝えるためにエリアルシートを使用している。現在エリアルシートを使えるのはフローラの中で私だけだと思っていたが、しかし、実際に今こうして、目の前で………

「────………いや、これは………。違う、かな」

 何も映っていないエリアルシートというのは見たことも聞いたこともない。それに、無関係である私のページにも文章を書き記すことができるということは、これは第三者のエリアルシートを強制的に起動し、そこに文字を遠隔で記入できる、ということになるのではないだろうか。

 だとすれば、街では突如表示されたエリアルシートのページと、そこに浮かんでくる文字の羅列によって恐怖と混乱が広まりつつある可能性がある。

これでは計画も一時中断する必要があるかもしれないな、とガラス戸からバルコニーを覗く。しかし、ディアとラウラは隣に座り合ってグラスを傾けているだけで、私がバルコニーから出た時と同じで、異常な点は何一つとして見当たらない。彼女達のエリアルシートは、おそらく今もまだ使えないままなのだろう。

 つまりこれは、食事屋に着く前に発覚した、私以外のエリアルシートが開かないことと無関係ではない。

 そうなると、この文章を書いているのは一体なのか、という疑問が出てくる。

「逃げている者の正体は不明。追っている者の名前はイコベヴィア。逃げている者には目的地や目的の人物がいるらしいけど、"前の私"って何だ?前世とかそういう話?ホワイト=シンクって何?」

 そもそも、こんな芸当ができる人間が、この世界フローラに存在するのだろうか。エリアルシートを開けるだけであれば私と同じ、というだけで済む話だが………いや、その前に、なぜ私だけがエリアルシートを使えるままなのだろうか。

「────………神官付の娘だから?」

 神官筋の家系には特殊な体質がある。私の傷の治りが異常なまでに、不気味なまでに早いのもそれだ。それが神の祝福などと呼ばれるものなのだとすれば、も神官筋の体質の一つ、なのだろうか。

 それを知る術はないが、だとすれば追っているのも追われているのも神官筋の者、ということになる。しかし神官を指す際は姓名を合わせて呼ぶのが普通で、例外は当主だけだ。例えば単にヨケベダの名を出した場合はヨケベダ家当主であるクラ・ヨケベダのみを指し、私がヨケベダ家の娘に生まれていた場合あればメデイア・ヨケベダと呼ばれる、という具合である。

 だが、イコベヴィアという神官家は聞いたことがない。親しい者同士であれば神官家の者であろうと名や愛称で呼び合うことはあるかもしれないが、そういう話も聞いたことがないし、文面からはあまりそういう雰囲気も感じられない。

 逃げた生神、という言葉が、脳の先端あたりに落ちてくる。エリアルシートは神の恩寵と言われているが、その神であれば、こういう使い方ができても不思議はない。そうだとすると、イコベヴィアというのがエリアルシートを管理している生神ということになるのだろうか。ホワイト=シンクというのは、神域の言葉でフローラを指すのかもしれない。

「いや、それだと"フローラで逃げ隠れしてるのにフローラから出せ"って言ってる、ってことになるか」

 よくわからないが生神同士で喧嘩でもしたのか、とエリアルシートを見つめていると、今度は数字と記号が書き込まれていき、一分ほどで問題のページが消えた。元に戻った私のエリアルシートは、ただ東三区の降雨予定を示しているだけだ。

 ディアに知らせた方が良いかどうか、と数十秒の間考えを巡らせ、しかし、いよいよ酔いが回ってきたのか思考が纏まらず、酔いを醒ましてからでいいかと再び部屋に向かって廊下を進む。

 部屋に着くまでの間、私は表示された最後の一文を忘れないように、回らなくなってきた舌で何度も何度も暗唱していた。「三十一、ピリオド、七十七万六千四百五十五、コンマ、三十五、ピリオド、十七万八千二百九十四」………と。

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