CHAPTER X

 ディアは先代当主の急逝で引き継いだ案件の他に、アガタ=ペタラ中央部で平民が平民向けに食事を提供する"食事屋"を開業することへの援助も行っていたらしい。それまでは当然のことながら、今でも料理と酒を一つの店で扱うことへの貴族達からの反感は強い。酒は酒屋に、肉は肉屋に、野菜は野菜屋に、パンはパン屋にあるもので、食事は貴族や神官、一部の商家を除けば、各家庭で女が作るものなのだ。雇った者に食事を作らせるというのは最も一般的な権力誇示の手法であって、その因習的な常識をこの上なく好ましく思っている貴族達からすれば、たかが男爵家の小娘程度の発案で身に纏った権威を脱がされるのは、屈辱以外の何ものでもないだろう。とはいえ、ディアが後ろ盾となって進めた結果、三十年前の感染症による牛の減少とそれに伴って縮小された牧草地の影響を回復させること、つまり東三区の牧場経営に有益であると認められ、神官会議の末に東三区のみで平民が食事屋を営んでも良いとなったらしい。

 私達が食事屋を知らなかったのは、何も他の区域のことだからというだけではなく、それがこの二年の間に生まれたものだったからだ。食事屋の開業には審査が必要だと聞いたが、それも"ルーナ"・ディアナが支援しているというがあれば、他貴族同士で勝手に牽制し合って時間を作ってくれるのだろう。無論、ディアの命令で"ピアネータ"が裏工作を完了させる時間を、だ。

 私は食事屋を利用できるのは牧場関係者のみだろうと予想し、実際始めのうち貴族はそうすべきだと主張したそうだが、ディアやディアに協力的────多分に下心を含んでいるのだろうが────な貴族から"牧場関係者のみに食事を提供しても生活を支えられるほどの収入額には届かない"と反論され、今のような、ある程度客を選ばないという形に落ち着いたらしい。その中でもやはりエスト=アガタはディアのお膝元ということもあってか食事屋の数が三軒と多く、噴水庭園付近の賑わいに一役買ってくれているのだとディアは話していた。

 十二月三十日。時刻は午後八時三十分を過ぎた頃、といったところだろうか。聖芽祭から五日、エスト=アガタ男爵家の別館で過ごし始めて三日が経過した。ディアが手配してくれたかつらの納品が予定よりも遅れた結果、私は貸し与えられた部屋の外に出ることもできないままに過ごしていたが、今日の昼頃になって、ようやくかつらが届いてくれた。これを被れば、背中まで届く長い栗色の髪のどこにでもいるアンジェラに扮することができる………と、五日目にして計画を始められるという高揚感のままに外出しようとしたら、私の世話役になってくれたキアーラが扉の前に立っていて、「夜までお待ちください」と部屋の中に押し戻されてしまった。

 そんなことがあって、今から一時間ほど前に部屋に現れたディアに誘われた私は、服装などを用意されたものに変えた後、馬車でアガタ=ペタラの中央部にあるマナサ=スティーレ噴水庭園近くの食事屋の一つに向かうことになった。

 この三日間、彼女は時間があれば私の話を聞きに現れ、二年の間に私が書き記した物語たちを読み漁っては、ラウラに「仕事をしてください」と小言を浴びせられて部屋から連れ出されるのを繰り返し、ついにはディア、メディと愛称で呼び合う程度には親交は深まったが、多忙であるはずの彼女が公務を投げ出して読書に勤しむので、ラウラや"ピアネータ"の私とイアソンへの態度は冷たくなっていく一方である。

「変装してはいるけど、大丈夫かなぁ」

 馬車の中には私、ディア、ラウラ、ベレニーチェの四人がおり、キアーラが御者台で手綱を握っている。ディアの向かいに私が、その右隣にラウラが座り、私はディアの前、ベレニーチェはラウラの前………つまり私の左隣というように座り、件の食事屋"イラリオの食事所"へと向かっているが、正直気が気ではない。自分で言い出したことではあるのだが、かつらを被った程度で変装と言えるのだろうか。

「とは言っても、街頭演説スピーチの前後は変装していなくてはいけないのだし、こういった検証は必要でしょう?」

 ディアに「それはそうだけど」と歯切れの悪い言葉を返し、髪がかつらからはみ出ていないかとディアに確認する。かつらを被る前に散髪をする予定だったのだが、「綺麗な髪を切るなんてとんでもない!」とディアに猛反対され、そのまま押し切られてしまった。

「化粧もしているんだし、何より髪色が違えばあなただとは誰も思わないわ。情報として伝わっているメディの特徴は、紫の髪の女で同年代の者よりは多少身長が高い、という程度だから」

 確かに、化粧をする、髪を染めるといった行為は平民にはできない。今の私は、イアソンに話していた通りの、元どこかのご令嬢という役に恥じない程度の装いをしている。この四人の中にいる私は、きっとディアの古い友人のように見えることだろう。

「だといいんだけど。それと、今の私はアンジェラだよ」

「そうだったわね。アンジー、アンジー………。間違えないようにしないと」

 ディアは目を瞑り、私の偽名を忘れないようにと何度も口にする。数秒それを続けた彼女は、「というより、なぜ偽名がアンジェラなの?」と首を傾げ、ソフィアやヴィオラでも良かったのではと一般的な女性名を挙げていく。

「特に理由はないよ。偽名なんだし。ああ、でも、ソフィアとかヴィオラはちょっと、何となく嫌かな」

 そもそも、アンジェラとマッティアというありふれた名前であれば目立つこともないだろう、という理由で選んだのだ。偽名に深い意味があっては、偽名を偽名として役立てることが困難になってしまう。

 そのマッティアことイアソンは、"社交界の月精"の供回りに男がいては悪目立ちしてしまうだろうから、と今はディアの別館の一室で待機してもらっている。今夜の食事会は、ディアが古い友人や使用人と共に食事屋の視察に来ている、ということになっているため、独身であることが個人的な権力に直結しているディアにとっては、イアソンとの関わりは隠しておかなければならない部分だった。

 それにしても、と着慣れない白いドレスの裾をつまみ、権力者が身に纏う服というのはずいぶんと動き辛いものなのだなと心の中で不満を漏らす。腕を動かすだけで布地が張ってしまって、この拘束感が豪奢な服装の代償ならば知らないままでいたかったと溜め息を吐き、吐いた息の代わりにこの状態で食事をしなくてはならないのかと憂鬱を肺に押し込めていく。

「………あれ?」

 ディアが間の抜けた声を出し、体の前で両手を動かす。その彼女に、確かに馬車の中であればいつもの淑女調子な話し方をする必要もないだろうが、"ルーナ"・ディアナが一体何をやっているんだと冷めた視線を送る。すると、私と同じようにディアを見ていたラウラが、呆れを含んだ声音で「何をなさっているのですか」とディアの手を止めた。

「"光が落ちた泉の精"を読もうかと思って、エリアルシートを開こうとしたのだけど………。やっぱり、全然開かないわ」

 エリアルシートが出てこないと主張する彼女の言葉を聞いたラウラとベレニーチェは、エリアルシートを開こうとしているのかディアと同じような動作をし、同じように妙な手の動きを疲労しただけで終わった。三人はエリアルシートを管理する生神の怒りに触れたのだろうかと話し始め、私はしばらくそれを聞いた後、何とはなしに頭の中で「開け」と念じる。すると何の問題もなくエリアルシートが表示され、三人が「あれ?」と揃って声を上げた。

「私よりも先に三人が重犯罪者になっちゃった、ってことかなぁ」

 お前のものよりも重い罪など背負えるか、とベレニーチェが呟くのを聞きながら、エリアルシートが表示されないことなどフローラの歴史上にあったのだろうか、とページを進める。しかし神事の記録以外での、純粋なフローラの歴史を記したものは全くと言っていいほどに存在していない。

「最後にエリアルシートを開いたのはいつ?」

 三人に質問すると、ラウラとベレニーチェは七日前、ディアは六日前が最後だと答えた。私のように毎日エリアルシートと睨み合っている者など稀だし、ディア達は特にやるべきことが多いのだから、週に一度見るかどうか、といった程度だろう。ディアは私の書いた物語、その初めの六作の"写し"を持っており、暇な時間はそれを読んでくれていることも多いらしいが、六、七日前となると聖芽祭の最後の準備をしていた頃だし、聖芽祭の直後には外縁部の視察を行っていたりと、そんな時間はなかったはずだ。

「"ピアネータ"も知らなかったの?」

 隣に座るベレニーチェに聞く。

「そもそも、普通はエリアルシートなんて年に数回開くかどうか、という程度で、その数回は多くの者にとって四季祭や聖芽祭だ。情報自体がなければ情報収集などできるはずもないだろう」

 ベレニーチェの言葉に「それもそうか」と返し、三日前にディアが"今年の生神が逃げた"と言っていたことを思い出す。時期的にそのことと関係があるか、とも思ったが、生神が逃げたからといってエリアルシートを使えなくして一体何になるのだ、と首を傾ける。

 ディアが「食事所に着いたら、イラリオにエリアルシートを表示できるか聞いてみましょうか」とカーテンをずらして馬車の外を見る。イラリオというのは、おそらく"イラリオの食事所"の店主のことだろう。そう思っていると、ディアが思い出したように私を見て、「そうだ、今夜その店にはジャラ伯爵家の次男が来ているはずだから、何を言われても我慢すること」と口に人差し指を当てて忠告する。他の貴族がいるなんて聞いてない、とディアに詰め寄ろうとすると、馬車が小さく揺れ、御者台から降りたキアーラが扉をノックし、目的地に到着したことを告げた。 

「さぁメディ、楽しい食事会の始まりよ。万が一あなたの正体が知られることになったとしても、私と"ピアネータ"の力で必ず守ってみせるから、安心して料理を楽しむといいわ」

「不安を煽る発言の後だと、全然頼もしく思えないんだけど」

 馬車の外、マナサ=スティーレ噴水庭園の南東の一画は、家路を行く者、夜遊びに出る者、それを見ながら軒先で晩酌をする者などによって夜の明るさを見せており、街路の蝋燭以外にも道を歩く者の手提げ燭台の灯りが路面や壁面、街路樹などを照らしていた。

「中央にはさすがに劣るけど、北や西とはずいぶん様相が違うね。レンガ造りの路面は、ディアの成果の一つってわけだ」

 街の景観に最も重要なものは道である、と私は思っている。街路の左右隙間の建造物全てに違和感なく馴染み、溶け込むことのできる道でなければ、どれほど意匠を凝らしたものであろうと家の隅の蜘蛛の巣と同じだ。街は道が無ければ成り立たない。人々の暮らしは道が無ければ始まらない。中央は路面にガラスの仕切りがあったり、街路の両端にアーチが置かれていたりとフローラの中心地に相応しいをしていたが、他の区域では石材を埋めただけの道か、土を踏み固めただけの道がほとんどだ。それに比べてこの土地は、中央に肩を並べられるほぼ唯一の街と言っても過言ではないだろう。しかし、いくらエスト=アガタの中の、噴水庭園の周辺のみとはいえ、たった二年………いや、おそらくはそれよりも短い期間でこれほど大規模な街のを行うなど、ディアの権力は私が想像するよりもはるかに大きいらしい。

 そういえば、三日前、ディアが本気で私を捕まえようとしていたら、この二年の間に牢屋行きになっていたのだろうな………と思い彼女にそう話を振ったら、「私はあくまで一人の読者、これでも最低限の分別はあるつもりよ」と笑って返された。信用するとは決めたものの、この先もし彼女と対立するような事態になった場合、私は上手く立ち回ることができるのだろうか。彼女は他の貴族と大分毛色が違うとはいえ、やはり貴族というのはどうにも胡散臭く感じてしまう。恩を受けている身で無礼千万なやつだと自分でも思うが、これは今まで私を否定してきた他の貴族達の責任だということにでもしておいてもらおうか。

 ベレニーチェ、ラウラが馬車を降りたのを確認し、今そんなことを考えていても仕方がない、と彼女達に続く。ラウラがディアの手を取って彼女が降りるのを手伝い、キアーラが街路から突き出ている丸太に馬を繋いでこちらに一礼するのを見届けてから、扉の前でかしこまっている出迎えのイラリオとその妻に案内されるままに店内に入ると、店内の心地よい騒がしさが瞬時に静まり、発せられる音は私達の靴音のみになった。

 なんとも居心地が悪い、と注がれる視線に違和感なく見られるように歩く姿勢を正し、少しばかり顔を引きつらせながらイラリオを先頭に三階まで進む。この階は貴族や商人専用であるらしく、どうやら今は私達以外には一組しかいないようだった。

 バルコニー席に案内され、今頃一階二階の者達が「メデイアが来たぞ」と酒の肴に噂をしてはいないだろうか、と怯えながら椅子に座る。

 イラリオが一礼して立ち去って、ようやく一息つけると肩から力が抜けていくのを感じつつ、しかし、人のいない階では視察にならないのではないだろうか、と正面に座ったディアを見ていると、この階にいるもう一組のうちの一人が立ち上がり、こちらに近づいてくるのが目の端で見えた。

「これは奇遇ですねぇ、"ルーナ"・ディアナ嬢。新年祭の前だというのに、このような場所で出会うとは」

 服装からして間違いなく貴族家の者であろうその男は、長い髪を見せびらかすように揺らしてわずかに腰を折ると、ディアナの手の甲にキスをして、安っぽい笑みを浮かべた。

「聖芽祭以来ですわね、ドメニコ・ジャラ様。伯爵家の次男であるあなたが、新年祭の前に市井に来ているとは思いませんでした。何か気になることでも?」

「いえいえ。ただ、聖芽祭では話す機会を得られませんでしたからね。それに、視察というのであれば、伯爵家の者である私も同席すべきかと思いまして」

 ドメニコ・ジャラ。この男がジャラ伯爵家の次男か、とディアの表情を窺う。他の者であれば嫌悪感を眉か目尻あたりに浮かせてしまうような状況だが、やはり慣れているのか彼女は表情一つ変えず、座ったままドメニコに正対する。

「お誘いは大変嬉しく思いますが、あいにくと先約がありますの」

「先約ねぇ。こちらが?」

 ドメニコが私を視線で舐め回す。

「はい。わたくしの古い友人でございますわ」

 ディアが視線で「名乗れ」と指示を飛ばしてくる。疎まれる存在である私に名乗る機会などなかったことは容易に想像がつくだろうに、よりにもよって貴族が相手とは、これは裏切り行為に違いない。今こそまさに"社交界の月精"や"ピアネータ"の力で私を守ってくれる場面ではないのか。こんな、明らかに今夜ディアがここを訪れることを知った上で待ち伏せているような危険人物へんたいの前に、九割逃亡犯な私を出すのは遠慮してほしいものだ。

「お初にお目にかかります、ドメニコ・ジャラ様。アンジェラと申します。ディアナ様のご厚意で、しばらく御厄介に────」

「ああ、もういいよ。姓も無い女に名乗られても仕方がない」

 私の言葉を遮り、断りもなしに二つしか置かれていない椅子の片方に腰を下ろすドメニコ。彼は「古い友人だというから貴族の娘かと思ったが」とパイプを咥え、燭台の蝋燭で刻み煙草に火をつけて、大きく煙を吐き出した。その椅子は私が座るはずの場所なのだが………というより、ディアが"古い友人と来た"と発言した直後に、よくもまあ全く迷う素振りも見せずに無遠慮に座れるものだ。ある意味で感心する。この男は間違いなく、悪い意味で"お坊ちゃん"と呼ばれる類の人間だろう。間違いない。

「そもそも、男爵家の娘である君が、私の誘いを断ること自体が不敬なんだ」

 とは、またずいぶんと大層な物言いをする男だと内心苦笑する。それはディアも同じようだが、私の目を見た彼女は、その視線で変わらず「聖芽祭の後のような軽はずみな行動はしないように」と念を押してくる。

 しかし、とドメニコを一瞥する。伯爵家の者であればこの態度の大きさは当然にも思うが、今ドメニコの前にいるのは"社交界の月精"だ。上二階位伯爵家の次男と第四階位男爵家の長女という身分だけを考えれば確かにドメニコの方が立場が上ではあるが、ジャラ=コローラ東三区に最も貢献しているのはディア個人に他ならない。偶然手にした生まれながらの身分を個人の力だと心得違いをし、あまつさえ侯爵家にも匹敵する発言力を有する"ルーナ"・ディアナに対して"お前は不敬なやつだ"とは、なんとも可愛らしい思考をするものだと長身の小男から視線を外し、バルコニーから見える街の景色を楽しもうと意識的に気分を変える。無論、立ったままで、だ。キアーラもベレニーチェも、ディアの護衛が最優先だと言わんばかりに、椅子を取りに行こうとすらしてくれない。

「ディアナ嬢のご友人。悪いが君は席を外してもらえるかね?私と彼女はこれから大切な話をしなければならないんだ」

 先約があると断っている相手と何を話すというのだ、と呆れつつ、この男もやはりディアの婚約者争いのうちの一人なのだろうかと予想する。そこでハルとの会話を思い出し、ジャラ伯爵家と言えば三年ほど前、次男が一方的にオヴェスト=ジャデイタ男爵家の三女との婚約を解消したというような内容の噂が流れていたが、なるほどこの男のことかとドメニコに対する興味をさらに薄れさせる。

 貴族達の文化などさほど知りはしないが、一度決めた婚約を解消すれば、それがその家の汚点となることくらいは想像できる。合意の上での破談であればまだ良いだろうが、一方的にとなれば話は別だ。加えてディアのドメニコへの態度や馬車の中での私への忠告を見る限り、かなりしつこく縁談話を持ってきているに違いない。三年前というとエスト=アガタ男爵がまだ先代の頃だが、この男はおそらく当時からこんな調子だったのだろう。どことなく彼に対して既視感があるのは、何かの気のせいだろうか。

「ドメニコ様、どうか今夜はわたくしどものことはお気になさらずに、この店の料理をお楽しみくださいませ。視察と重なってはしまいましたが、アンジェラの歓迎の席に男性を同席させたとなれば、何を言われるか分かったものではありませんから」

 しかしドメニコは煙を大きく吐き出すだけで、一向に動こうとしない。

「侯爵家に匹敵する発言力、などと言われて心得違いをしているのかもしれないが、君はただの、男爵家の一人娘だ。いくら権力を渇望しようとも、君の価値はその容姿と一人娘であるという事実にしかない。男を惑わす魔性の女であるならば、せめてそれらしく媚びてみるのが務めというものではないかね?」

 ドメニコはそう言うと金貨を三枚取り出し、私の前に置いた。これを持って出ていけ、ということだろう。

「そこの従者二人も下がりたまえ。ディアナ嬢の身の安全であれば私が保障する」

 ラウラとベレニーチェは「ディアナ様の命であるならば」とだけ返してその場を動かず、それを見たドメニコの額に青筋が浮かび始めているのが分かる。そして数十秒の沈黙の後、ドメニコとディアが同時に口を開こうとした時、ドメニコへの妙な既視感の正体をようやく掴むことができて、「リンゴの貴族だな」という言葉が私の口を衝いた。それに対してディアとドメニコだけでなく、ラウラもベレニーチェも、ドメニコの従者と思われる者達も、私の方に"場をわきまえて発言をしろ"という視線を向ける。

「………発言の意味が分からないが。リンゴの貴族とはどういう意味で、どういう意図があって発したのだ?」

 ディアの視線が、もう治ったはずの顔の傷を刺しているように痛い。しかし、ここは黙ってディアの言葉を待つべきだと理解しているというのに、この下卑た高貴な貴族家次男に対する嫌悪感が勝ってしまったのか、意思に反して言葉が口を衝いて出る………というところで、店の外で待っていたらしいドメニコの従者の一人が室内に入ってきて、ドメニコに耳打ちをした。

「────………オヴェスト=ジャデイタから、書簡?」

 そう言うとドメニコは少し考えるような仕草をして、従者を下がらせた。

「大変残念だが、急用ができてしまった。君との食事はまたの機会に、ということにしよう。次は男爵家の一人娘としての礼節を身に着けた上で私に接してくれることを期待しているよ」

「お待ちを、ドメニコ様。由緒あるジャラ伯爵家の次男であるあなたが、物を落として忘れるなんて、お疲れなのではありませんか?」

 ドメニコの背にディアが声をかけ、金貨三枚を手に取り、彼へと返す。「それはご友人への贈り物にでもしたまえ」と軽薄そうに口角を釣り上げたドメニコに、ディアは「女性に似合うのは金より銀ですわ。彼女の場合は特に」と返して金貨を手渡し、頭を下げて彼とその従者を見送る姿勢になる。ラウラとベレニーチェもそれに倣い、私も見よう見真似で礼をして、隣のディアがこちらに向ける若干の怒気に身を縮ませながら、ドメニコ達が階下に降りていく音を聞いていた。

「────………メディ。座って」

 ディアの言葉に従い再び着席すると、珍しく本気で怒りを露わにしている彼女が、私を責めるような口調で言った。

「私は確かに"何を言われても我慢するように"と伝えたはずなのだけれど、さっきのあれは一体何?」

「いや、つい………はい、ごめんなさい」

「聖芽祭の後、ジネヴラ・エスト=オニカに顔を切られて反省したと言っていたのは嘘?あなたの目的は、嫌味な貴族に片端から喧嘩を売ることなの?」

 もっと慎重になりなさい。どうしてあなたはこうも思ったことをそのまますぐに口に出してしまうの────と、父と母にもよく言われたことをディアは言う。

「彼との会話なんて全くの益無しなんだから、さっさと帰ってもらえるように皆に頼んでおいたのに。あと少しで無駄になるところだったわ。反省してちょうだい」

 どうやら、オヴェスト=ジャデイタからの書簡は"ピアネータ"の工作らしい。馬車の中でのあの発言は、面倒事を起こすなという意味ではなく、少し時間が経てば消えるからそれまで待っていろ、という意味だったということだ。

 ディアの説教が数分続いた頃、扉がノックされ、イラリオと従業員が料理を持って現れた。卓上に並べられたそれ────スライスされたパンの上に、赤い果肉とおそらくは牛か豚の肉が乗せられたもの────は、平皿の上に静かに座り、食欲を煽るような色と香りでこちらを見上げている。量が少ないが、これが前菜アンティパストというやつだろうか、と見つめていると、イラリオが「トマトと酢漬け豚のブルスケッタでございます」とだけ言い、退出しようと背を向けた。

「お待ちなさい、イラリオ。あなたに聞きたいことがあるのです」

 イラリオの背にディアが声をかける。イラリオは「なんでございましょう」とディアに向き直り、彼女の言葉を待つ。貴族から"質問がある"などと言われれば普通は肝を冷やすものだろうが、この店の後ろ盾であるディアだからか、それとも慣れているのか、イラリオの額には冷や汗一つ見えない。

「いえ、大したことではない────かどうかは分からないのですけど、エリアルシートを開くことができるかどうか、あなたにも試してほしいのです」

 はぁ、と間の抜けた返事をするイラリオ。なぜそんなことを、と言いたげな表情のまま彼はエリアルシートを表示しようとして、しかし何も起こらずに、立ったまま「な、なぜ?」と左右の腕を忙しなく宙に走らせる。

 その姿を確認したディアは、続いてイラリオと共に料理を運んできた従業員にも同じようにエリアルシートを表示するよう指示し、「やはり、全員がエリアルシートを使用できなくなっているようですね」と呟いた。

「二人共ありがとう、もう十分です。この件はしばらくの間、口外しないでいただきたいのですが、構いませんね?」

 ディアの言葉を聞いたイラリオは、先ほどとは打って変わって不安げな表情で口を開いたり閉じたりしてから、「あ、あの、ディアナ様」と掠れた声を出した。

「何でしょう?」

「私達は、何か生神様の御心に沿わないことをしてしまったのでしょうか」

 エリアルシートが生神の恩寵で、それが使えなくなったとなれば、生神に見放されたと考えても仕方がないことだろう。しかしそれならば、ディア達はともかく、良きフローラの民として働いているイラリオやこの店の従業員からその恩寵が消えるというのは不自然だ。

 イラリオは"食事屋の開業が生神の怒りに触れたのでは"と考えているようだが、そうであればもっと早くに罰を与えていただろうから、彼らは無関係に巻き込まれた者達というだけなのだろう。元凶が私だというのであれば謝罪の一つもすべき場面かもしれないが、それはアンジェラという役に求められることではないし、それに、このエリアルシートの一件は私と直接の関係はないように思える。私が原因であるならば、二年前に私のエリアルシートの使用を禁じていたはずだからだ。

 イラリオの言葉に、ディアは柔らかく、街路の脇のプリムラのように微笑んだ。

「生神様の御心はわたくしには計りかねますが、仮にだと言うのであれば、わたくし達も同じ罪を犯したのでしょう。ですが不安に思うことはありません。わたくし達が神の愛から離れてしまったというのであれば、きっと生神様はその我々の罪を啓示し、贖う機会をくださるはずです」

 ディアの言葉に不安げな表情を解いたイラリオは、「ありがとうございます、ディアナ様。御座の主、芽吹きの御心のままに」と一礼して従業員と共に退室した。

 イラリオ達の足音が聞こえなくなり、ディアがラウラとベレニーチェに着席を促す。

「ひとまず、食事を楽しみましょうか。料理はまだまだ出てくるのだから。あなた達も座りなさい、キアーラ、ベレニーチェ。一応は食事屋の視察なのだから、二人の意見も聞いておきたいわ。この店の料理に対する意見を、ね」

 ディアはそう言うとブルスケッタとやらを口に運び、「遠慮しないで、メディも食べるといいわ」とナプキンで口元を拭く。そしてグラスの水を一口飲むと、呆れたように私を見た。

「………それにしても、イアソンさんが言っていた通り、馬鹿というか何というか、自制が効かないのね、あなたは」

 全くだ、とディアから視線を外して苦笑いを浮かべる。知識人のように振舞ってみても、結局私はその場その場の感情で動いているだけに過ぎない。そうでなければ、もっと前から計画を練っていたはずなのだ。

「そういえば、メディ。"リンゴの木"というのは、どういう意味だったんだ?」

 ベレニーチェは私が先ほどドメニコに放った言葉が気になっているようで、ティーカップを片手にこちらに問う。

 リンゴの貴族、と言ったのは、ドメニコがどことなく"金と銀のリンゴの木"に登場する貴族の息子に似ているな、と思ったからだが、それを説明したのは私ではなくディアだった。


『────有り余る富を持ちながら欲の底が見えないその貴族は、様々な不正や不義理を金貨で解決していた。

 ある時、その貴族は権力の象徴として、金貨を集めて溶かし、黄金のリンゴの木を作らせた。そのあまりの美しさに目を奪われた貴族は、他の貴族や神官にまで黄金のリンゴの木を自慢して回り、ついには不敬極まるとして捕らえられそうになったが、憲兵が屋敷に押し入った時にはすでにその貴族は黄金のリンゴの木の下で眠るように死んでしまっていた。貴族の死は神罰として受け入れられたが、実際には彼の富を一日でも早く自分のものにしたいと考えた息子がブドウ酒に毒を盛ったのが原因だった。

 その息子が家を継いだが、父よりもさらに権力を誇示しようとした息子は、あらゆる場所から金貨と銀貨を集めて溶かし、金のリンゴの木と銀のリンゴの木を作らせた。

 息子が金と銀のリンゴの木を自慢して回るようになった少し後、彼は美しい女性を妻として迎えた。自慢話の内容も妻に関することが増えてきたある日、息子は妻の美しさを永遠に残すべきだと考え、集めた金貨を溶かし、それを妻に塗って固めてしまう。そして息子は金と銀のリンゴの木と黄金の妻を他の貴族や神官に自慢し、神よりも美しいと語るようになった。

 神官達は彼に神罰を与えるべく用意をしていたが、娘を殺された妻の両親の怒りは強く、神罰の前に義理の息子を殺してしまおうと考え、彼を金と銀で塗り固めて、それを彼の屋敷の前に飾っておいた。

 そこに現れた神官達はそれを見て「人を罰するのは神である」と言って両親を捕らえ、息子と妻に塗られた金と銀を溶かして両親に塗り、金と銀のリンゴの木の下に下半身だけを埋めた。それからというもの、その周囲の土地は植物が育たなくなり、犬も猫も鳥も虫も寄り付かなくなった────』


「題名は"金と銀のリンゴの木"。私、この話嫌いなのよ」

 フローラの中ではそれなりに知名度のある物語ではあるが、ディアの趣味ではないらしい。といっても、私もディアと同意見ではあるが。

 登場する神官達の"人を罰するのは神である"という台詞を見れば分かる通り、"金と銀のリンゴの木"は特に生神賛美の色が強い内容で、どうにも人間の自由意志というものを否定しているように感じられる。これを初めて読んだ時は、"職業作家というのはどいつもこいつも人間性の無いやつらばかりか"、と気分が悪くなったものだ。

「かなり有名な話だと思うんだけど、ベレニーチェは知らなかったの?」

「私はディア様の護衛、身辺警護が仕事だからな。キアーラ達なら知っているかもしれないが」

 "ピアネータ"の八人の中で、表と裏の肩書きが変わらないのはベレニーチェだけだ。護衛長である彼女はそれだけディアとラウラの近くにいることが多くなるわけで、他の面々よりも所持している情報が少ないのは自然だ。無論、最低限の共有はしているだろうが、有事の際に情報を漏らす危険性のある"護衛"と言う役職のベレニーチェに、重要な情報を与えることの愚かさは私でも理解できる。とはいえ、創作物に対する知識が無いのは、きっと単純に彼女の興味の対象外だからなのだろうが。

 室内の調度品である時計────開店祝いにとディアが贈ったものであるらしい────によると、時刻は間もなく午後九時になる。今夜はいくつもの料理が順番に出される形式であるらしく、その料理はまだ一品目。これはもうしばらく気の落ち着かない食事会は終わらなさそうだ、と息を吐き、ナプキンで口を拭いて、グラスの水を一息で飲み干した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る