CHAPTER IX
貴族や神官の邸宅は、どれも同じような場所に建っている。例えば各ペタラの神官家の邸宅であれば迎賓館の中央側に、各スターメの祭神官家の邸宅であればコルツァ=カリチャ円形通りに面した場所に、大神官家の邸宅は中央大時計塔の北側で、神官付家の邸宅は大神官家の邸宅よりも中央大時計塔から離れて南北東西に、といった具合だ。貴族の邸宅も似たようなもので、境界森を除いたフローラの最も外側に位置する
ディアナが寄越した使者、"プルトナ"・キアーラと名乗る女に連れられて夜闇の中を進み、案内された先は、そのうちの一つであるエスト=アガタ男爵家の邸宅の別館の一室だった。
正面から入るわけにもいかず、私とイアソンはキアーラに促されるままに窓枠からその部屋の中へと泥棒のように身を滑り込ませ、調度品もそこそこな室内を見回す。
「この別館は、わたくしとわたくしの使用人達の生活の場です。ゆえにわたくしかお父様の許可がない限り、滅多なことでは人は来ないものと思っていただいて問題ありません」
「"
「メデイア様はまだ逃亡犯ではありませんし、もし木札の一件が発覚したとしても、ここは外からは手を出し辛い場所ですので、知らぬ存ぜぬを通せば良いだけのことです」
悪い女だ、とその光沢をもって高価さを主張するソファに腰を下ろして笑う。
彼女が指す使用人とは、一般的なそれとは少し異なっているらしい。私達をここまで案内したキアーラを含めた八人は、基本的な使用人業務の他に、情報を集めたり改竄したり、必要であれば手を汚したり、とディアナの命一つで主に裏工作を行う私兵のような役割があるのだという。その"ピアネータ"の指揮を執るのがディアナの専属使用人であるラウラであり、"月精"であるディアナに対して彼女は"
「月精とか陽精とかって、あれだよな?確か、天蓋の灯りを管理する生神様に仕える精霊と、その使者の精霊たち」
イアソンが月精や陽精、その他の精霊たちについて、かつて私が教えたことを反芻するように頭を揺らしながら、確認なんだがといった様子で質問する。
天蓋の灯りを管理する生神には、その役割を果たすための補佐ともいうべき精霊がいるとされる。それが双子の精霊であるソーレとルーナだ。
"ピアネータ"を取り纏める"ジオヴァ"・アリア、主にアリアの補佐と他の六人への伝令を行う"メルクリア"・ファヴィオラ、ディアナの護衛を務める"マルタ"・ベレニーチェ、情報収集を行う"ヴェネラ"・ロゼッタと"ネトゥーナ"・マレリーナ、そして"プルトナ"・キアーラ、資金の管理を担当する"サトゥルナ"・テオドラと"ウラナ"・セラフィナ。この八人は表向きは普通の使用人として行動しており、"ピアネータ"を知る者はディアナの父と一部の貴族のみなのだとか。
そんな話を重罪人候補の逃亡者達にするなど不用心にもほどがある、と思っていると、ディアナは表情でそれを察したのか「普通の逃亡犯であればこんな話はしませんよ」と、初対面の時よりいくぶん砕けた口調で言った。
調度品の一つである時計を見ると、時刻は深夜一時七分。小屋でディアナ達と出会ってからおよそ十時間、といったところだろうか。あの時は本当に肝が冷えた、とセラフィナから水を受け取って一息で飲み干す。あの場に訪れたのがディアナ達でなかったのなら、今頃どこかの地下牢にでも幽閉されていたことだろう。
「わたくしはエスト=アガタ男爵家が一人娘、ディアナ・エスト=アガタと申します」
およそ十時間前。私とイアソンが隠れ場所として選んだ小屋の入り口で、彼女は私に自らの名を告げ、深々と一礼してきた。彼女の容姿によるものなのか、それとも他の何かか、時と場所と相手を選ばずに身に纏ってみせたその品性は、たとえこの場に他の貴族がいたとしても、"重罪人に対して貴族の娘が見せて良い態度ではない"などとも言えぬほどに、淑女と呼ぶに相応しかった。
木札の一件が広まっているのであれば、こんな髪色の女が一体どこの誰なのかは容易に想像できるだろう。ましてやこの女が"社交界の月精"だというのであれば、その情報収集能力は他の下二階位貴族家のそれを凌駕すると考えていい。しかし、私の名前が彼女の口から出るのは不自然なことではない、と理解してはいても、やはり初対面の相手に瞬時に素性を見破られれば、多少なりとも混乱するものだ。
三十三の貴族家のうち、最も階位が下である男爵家の発言力や影響力は、貴族社会では大きくない。しかしその貴族社会の中心とも言うべき社交界において、最も位の高い貴族である侯爵家にも匹敵する力を有する男爵家が一つだけ存在する。それがエスト=アガタ男爵家だ。エスト=アガタ男爵家の発言力や影響力は、家が有する歴史でも功績でも人望でも人脈でもなく、もっと俗物的なもの────現当主の一人娘であるディアナの美貌のみによって支えられていると言っても過言ではない。二年前に急逝したエスト=アガタ男爵家の先代当主、つまりディアナの祖父は、ディアナが十歳の頃から彼女の美しさを周囲に話し、そしてディアナが十三歳の成人と共に社交界へ入ると、噂に違わぬ、いや噂をはるかに超える美貌と美声で興味と注目を攫っていったのだ、とハルが話していたことを思い出す。美しい女を抱きたいというのは男の根源的な欲求だろうから、ディアナの美貌、そして彼女の婚約者という椅子は非常に強力な交渉材料となるに違いない。その上、ディアナは才覚にも恵まれているらしく、先代当主が急逝したことによる様々な案件の引継ぎの停滞や、エスト=アガタの諸問題解決にも尽力していると聞く。
そんな女に捕まってしまっては、退路どころか前後左右に上下を加えてあらゆる逃げ場を失ってしまう。やはりここで殺さなければ、私は私の目的を果たすことができなくなるだろう。人殺しの経験などないし経験したくもないが、しなければならない状況だというのであればそうする他にない。イアソンに目配せをして手の中のナイフを握り直し、そこで先ほどディアナが私を指して口にした言葉を思い出す。彼女は私の名を呼ぶ前に、私のことをなんと言っていたか。確か、そう………"フローラ唯一の娯楽作家にして若き空想の記し手"、だ。娯楽作家という言葉が生まれたのは二年前で、その言葉の生みの親は他でもない私である。両親でさえ私の活動を職業作家の真似事と称するというのに、この女は私が書いた物語、その六作目である"リュート"の作中に出てくる言葉を口にし、私がそれだと言った。空想と妄想と幻想を書き連ねるうつけ者に対して、貴族の娘が"あなたは確かに空想を書き記す者に違いない"と言ったのだ。
「………"社交界の月精"が、私の御噺を知ってるとは思わなかった。驚いたよ」
イアソンに入口を塞ぐように目で指示を出し、ナイフを握ったまま一歩ディアナに近づく。
「当然です。わたくしはメデイア様の読者ですから」
「貴族が平民以下の女に敬称を付けるなんてね。お供を放っておいて良いの?」
するとディアナは少し目を細めて微笑み、「ああやっぱり」と従者の二人に目をやった。
「ご自身のエリアルシートのページ番号を彫った木札を子供達に渡している、というのは、どうやらただの噂ではないようですね」
ディアナが言い終わらないうちに、彼女の体を壁に押し当てようと掴みかかり、護衛と思われる女が私とディアナの間に割って入る。少しの格闘の末、護衛の女の首筋にナイフを押し当て、目を丸くしているディアナを尻目にイアソンの方を見る。
もう一人の女に掴みかかったイアソンは、組み合う間も与えられないままに取り押さえられてしまったようだ。イアソンに喧嘩の強さなど求めてはいないが、それにしてももう少しくらいは根性を見せてもらいたいものだと呆れていると、女がイアソンの右腕を掴みながら私に言う。
「ラウラを離し、ディア様から離れろ。従わなければこの男の腕を折る」
「残念だけど、イアソンには"いざとなったら見捨てるから"って言ってあるんだ」
女がイアソンの右腕に体重をかけ、イアソンの顔が少しずつ歪む。しかし彼の腕が折れるよりも先に、ディアナが女を止めた。
「お止めなさい、ベレニーチェ」
「しかし、」
「メデイア様は空想を書き記すことのみを目的として生き、そのためであれば全てを捨てる覚悟がある。二年前の件はあなたも知っているでしょう。もう一度言うわ、ベレニーチェ。その方から離れなさい。これは命令よ」
ディアナの言葉に渋々従い、イアソンを開放するベレニーチェ。それを見届けたディアナは両腕を少し広げて一歩私に近づき、「敵意も害意もありませんわ」と微笑む。
「ベレニーチェと違い、わずかな護身術の心得しかないラウラが相手とはいえ、素晴らしい動きをなさるのですね」
どうやらディアナの護衛は、イアソンの腕を折ろうとしたベレニーチェの方であるらしい。なぜ小屋の中を先にベレニーチェに調べさせなかったのかと質問すると、彼女は「幼少よりの好奇心によるものです」と答えた。"社交界の月精"としてその不用心さは省みるべき点だと指摘すると、返す言葉もありませんと苦笑し、もう一歩こちらに近づこうとするので、ラウラの首筋に押し当てたナイフを持つ右手に力を込めて"そこを動くな"と態度で示す。
「ラウラを解放してはいただけないでしょうか」
「ここにいるのが知られた以上、殺す以外の選択肢はないよ」
「わたくしが死ねば、使用人も含めて大騒ぎになります。逃げるのが困難になるのでは?」
「殺さなかったら逃げるのが不可能になる」
私はフローラの法を犯した逃亡犯で、この女は貴族の娘。ならばその主張は平行線に終わる。しかし次のディアナの一言で、私の思考はほんの数秒だけ、しかし確実に停止した。
「憲兵も狩人も、まだあなたを追ってはいませんよ」
貴族の娘、それも"ルーナ"・ディアナであれば、憲兵の動向程度は掴んでいても不思議はない。オニカ=ペタラの憲兵の動きと私の現在位置さえ分かっていれば、私に追手がかかっているかどうかも予想がつくだろう。だがそれが本当だとして、その情報を私に開示する理由が分からない。彼女達の来訪が偶然だったとしても、私は仮にもフローラで最も重い罪の一つを犯していて、そしてディアナもそれを知っているのだ。
あるいはディアナの"敵意も害意もない"という発言は偽りではないのでは、という考えが浮かぶが、それもすぐに途切れた。私の意識の隙間を縫って、ラウラにナイフを奪い取られ、ベレニーチェと二人がかりで組み伏せられる。
「メディ!!」
駆け寄ろうとするイアソンに、今度はラウラが私の首筋にナイフを当てて告げる。
「お前もメデイアと同じく、この女を"いざとなったら見捨てる"覚悟があるのか?」
これでは先ほどとまるきり立場が逆だ。首を切られるのを覚悟して振り解くか、いや完全に関節を極められていて動くに動けない、そもそも首を切られては傷の治りが早くても出血量的に命はないだろう、と頭の中を言葉が巡り、最終的に、ここまでか、短い逃亡生活だったと体から力を抜く。
「さて、メデイア様」
ディアナが私の目の前にしゃがみ、口元に人差し指を当てる。
「ここでは落ち着いて話もできません。そこで、どうでしょう。わたくしの館に招かせてはいただけませんか?」
"社交界の月精"の功績の一つになれ、という意味だろうか。私が「お断りだ」と言おうとすると、彼女は自分の口元に置いた人差し指を動かして私の唇を抑え、「視察中ですので、あまり長居も長話もできません」と悪戯っぽく小さな声を零す。
「結局、私を捕まえるのが目的ってわけだ。何が"敵意も害意もない"だ」
「捕まえるも何も、メデイア様はまだ罪状不明な状態で、犯罪者ではありません。ですので、わたくしが知人を招くことにも何の問題もない、ということになります」
罪状不明。犯罪者ではない。それが真実なのであれば、なるほど、先ほどの"まだ憲兵も狩人も追ってきてはいない"という言葉の意味は理解できる。ということは、木札の一件はやはり発覚すらしていなかった、ということか。二年前のあの一件もすぐに咎められたというわけではないのだから、たったの二日しか経っていない今回の件を憲兵が知らないのも、これまた不思議なことではない。
それはつまり、ディアナの誘いを受けたとしても特に不利益はないということなのでは────と考え、いや冷静になれと頭を振る。
まだ犯罪者ではない、というだけで、法を犯しているのは事実で、ディアナはそれを知っている。状況に変化はない。何一つとして、私達の現状は変わっていない。
この状況を切り抜けるには、誘いを受けるふりをして、隙を見つけてナイフを奪って、この小屋の中で三人を殺して、埋めて、すぐに別の土地へ移動する。これが最も手早い方法に思える。
意図が伝わることを願いつつイアソンに目配せをし、「分かったよ」と答えようとしたその時、ディアナがラウラの腕を引いて立ち上がり、「とはいえ、わたくしがお二人の協力者となり、フローラの犯罪者に名を連ねるなどと言ってみても、信用されるだけの根拠が無いのも事実ですので………」と、ラウラの後頭部に腕を回す。そしてそのまま、ディアナとラウラは唇を重ねた。
「────………と、このように、わたくしとラウラは恋人同士でございます」
ゆえに、同じ異端の者として、互いに手を取り合えればと────と、彼女は続ける。
状況が飲み込めていないイアソンを無視して、私は声を押し殺して笑った。なるほど、だから"リュート"の作中に出てくる娯楽作家などという言葉を使ったのかと理解し、するととたんに"社交界の月精"という二つ名が陳腐で滑稽で的外れなものに思えてきた。
私が書いた物語、その六作目である"リュート"は、女同士の恋愛が中心の内容となっている。二年前のあの日、最も貴族や神官の表情を怒りに染めた、私自慢の一作だ。恋愛は子供を生むためのもので、結婚の前段階である、とされるフローラの常識の中で、女同士、男同士の恋愛を書くこともある私の前で、ディアナは"女同士で恋人をやっています"と表情一つ変えずに証明したのだ。これが笑わずにいられるだろうか。仮に今の行動が私を捕らえるための演技だったとしても、この女はそのためだけにフローラの
ベレニーチェの拘束が緩み、もはやディアナを疑う気も失せたと立ち上がる。しかし最後に一つだけ、大した疑問ではないが、聞いておきたいことがあった。
「私に協力しても、あなたに利益があるようには思えないんだけど」
同じ異端の者として、互いに手を取り合う。彼女はそう言った。それはきっと、彼女が私に協力して、私の行動でフローラの常識が変われば、大手を振ってラウラと交際できる………ということなのだろう。
「これからもメデイア様の物語を読むことができます」
だが、ディアナは少しの間も置かずに、私の物語の読み手だから、と答える。なら、もうこれ以上何も聞く必要はない。私が書き手で、彼女が読み手であるならば、それに疑念を持つのは冒涜で、物語の、幻想の、空想の、妄想の神への反逆だ。
ラウラにナイフを返してもらい、鞄の中にしまう。彼女達が小屋を去った後、私達は可能な限り痕跡を消しつつ、使いの者が来るのを待っていた。
いわく、ディアナは放置された外縁部の牧草地を再整備するための視察としてあの場にいたらしい。外縁部牧草地は、三十年ほど前に元の所有者────というよりは管理者────が罪人として捕らえられたことでエスト=アガタ男爵家が管理することになったが、同時期に牛が感染症によって数を減らしたことで牧草地の縮小が決定された。その後二十数年が経過してようやく再整備案が持ち上がり、今から二年前には刈り取った牧草を保管するための小屋の建設や周囲を囲む柵の設置など、再整備、再開発が進められることになったが、そこで当時のエスト=アガタ男爵、つまりディアナの祖父が急逝したことで計画が中断されてしまう。当時十五歳ですでに成人を迎えていたディアナは外縁部再整備案も含めたいくつかの案件を引き継ぐこととなるが、社交界で美貌を讃えられてはいても所詮は女、まともな協力者など出てくるはずもない。
"ルーナ"・ディアナとして他家と並び立てるだけの
二年の間にエスト=アガタを駆け回り、そうして今年の十一月、つまり先月の五日になってようやく、どうにか外縁部牧草地の再整備に本腰を入れられる、という状態にまで漕ぎつけられたのだ、と彼女は言う。
「本来であれば今の段階で外縁部に人が出入りするようなことはないのですけど、年明けの前に視察しておこうかと思いまして」
ディアナのこの思いつきがなければ、私とイアソンは今でもまだあの小屋の中にいたことだろう。こうして衣食住を約束してもらえているのだから感謝しなくてはならない。手配してくれるというのでかつらもわざわざ作る必要がなくなり、ひとまずは気を抜いても問題なさそうだとソファの上でだらける。
「木札のことが知られてないなら、もう少しゆっくりしててもよかったかもしれないけど」
生れて初めての感触に表情を緩ませながら呟く。するとディアナが向かいのソファに腰を下ろしながら言った。
「木札のことは、表向き発覚していないというだけで、おそらく知ってはいると思いますよ」
小屋の中で、ディアナは私はまだ罪状不明の犯罪者未満だと言っていた。それはつまり、少なくとも憲兵や権力者には知られていないということのはずだと首を傾げ、続きを促す。彼女は「中央は現在、フローラ史上おそらく初、というような事態になっているようでして」とラウラが机に置いたティーカップを摘み、口元に持って行って紅茶を一口飲み込んで、茶葉の質も年々落ちているわねと呟いた。
フローラ史上おそらく初、というのであれば、私とイアソンも大差ないだろう。そう思い二人で顔を見合わせていると、ディアナはティーカップを持ったまま肩を竦め、「今年の生神様が逃げ出してしまわれたようで、神官様も貴族も憲兵も大慌てだったらしいのですよ」と苦笑した。
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