CHAPTER VIII

 干し草の上にシーツ代わりとして敷いていた服を丸めて鞄に突っ込み、替わりの服を着ながら、さてイアソンが戻ってくるまでの間に何かできることはないかと頭を捻る。

 鞄の中にはわずかな食料と少しの水と、同じく少量のエール、洗濯待ちとなった服が一式とちょっとした裁縫道具、あちこちがへこんでいる小鍋、ナイフ、境界森で入手した野犬の骨や臭いの取れない皮、拾っておいた枝が大小合わせて七本、秋の四季祭で配られた小さくなってしまった石鹸で全てだ。食事は済ませたし、水もこの辺りでは入手がし辛いだろうことを考えると飲み水の確保や洗濯もできず、水がなければ石鹸で髪や体を洗っても流すことができない。今着ている服も一時間ほど前まで着ていた服も裁縫道具を使わなければならない状態ではないし、野犬の骨や皮の加工には火が必要だ。

「今は特に、体を洗いたいんだけどなぁ………」

 着替えたとはいえ、汗を流さねばどうにも気持ちが悪い。

 手持無沙汰になってしまったと天井を仰ぎ、リュートくらいは持ってくるべきだったかと反省し、いや必要以上の音を出すわけにはいかないから持ってこなくて正解だろうと思い直す。

 それにしても、想像以上に疲れてしまった。四年前の左足の骨折後を筆頭に、二年前のあの一件の翌朝や、その他怪我をした後にも倦怠感があったなと思い出し、この疲労の半分程度は顔の傷がほとんど治っていることと関係があるのだろうなと予想する。

 治癒力の高さによるものと先ほどまで体力を使っていたことによる二つの疲労感が脳と眼球から手足に広がり、目が覚めてからまだ数時間しか経過していないというのに強い睡眠欲を引きずり起こす。しかし、捜索の手がすぐそこまで近づいているかもしれないのだ。いつでも逃げられるように準備をして、より綿密な計画を立てなければと頬を叩く。せめてイアソンが戻るまで起きていなければ、彼の行く末をわがまま一つで捻じ曲げ続ける者として示しがつかない。

 エリアルシートを開き、逃亡計画を練り直そうかと考えるも、私の頭の出来が悪いのか、単純に楽観的なだけか、イアソンに話した以上の案は浮かばない。ならばと"死人の夢占い"の続きを書こうかとページを変えるが、しかしやはり文章が進まず、ページを開いては閉じて、閉じては開いてと繰り返すうちに、気が付けばうたた寝をしていたらしい。いくら疲れているからといってあまりにも危機感が無さすぎるぞとかぶりを振って気を引き締め、窓板の隙間から外の様子を窺う。

 特に変わった様子はないか、と小屋の地面に落ちていた木材になり損ねたような太めの枝を拾い、護身用に使えるかとその場で数回振る。私の筋力が多少人よりも強いとはいえ、所詮は数人に抑え込まれてしまえば為す術がなくなってしまう程度のものだ。武器くらいは持っておくべきだろう。

「まぁ、棒切れ一つでどうにかなるとも思ってないし、そんな状況になったら逃げるのも無理だろうけど」

 そもそも武器になるものならナイフがある。この枝は必要ないかな、と放って捨て、干し草の上に寝転がり、昔弾いたリュートの旋律を口ずさむ。

 書き手であることが私にとって自身の存在意義であるならば、音楽はその隙間を彩る趣味だ。例えば石畳の隙間には土や小石があり、家々の間には庭や誰も通らないような細く狭い路地がある。イチゴジャムだって果肉だけでなく種が入っているし、川の流れの一部を遮る岩がなければ景観としては少し物寂しい。私の中でのリュートはまさにそれらのようで、無くてはならないものではないが、しかし、それが無ければどこか違和感を覚えてしまう、そんなつまらなくも重要なものだった。

 音楽に関しては、おそらく私も私以外の者達も同じ考えのはずだ。平民の音楽と貴族や神官が好む音楽は違うが、その本質が娯楽であることに変わりはない。祈りの言葉や信仰心を旋律に乗せていようとも、見聞きしている者達がそれに笑顔で触れている以上、根本的な部分に違いはないのだ。聖歌隊が歌うことで生計を立てていても、楽隊が音を奏でることで収入を得ていても、しかし観客は日々の、人生の彩りとしてそれに触れる。それを娯楽と呼び受け入れられるのであれば、私の物語たちが同じように扱われるだけのは十分にあるはずだ。

 と、あれやこれやと頭の中で言葉を巡らせていても、やれることがない今のこの状況で思考が行き着く先は、結局のところ"何か書きたい"と"何も書ける気分じゃないからリュートを弾きたい"の二つだけだった。

「男と女が一人ずついれば暇を潰せるっていうのは、結構本当のことだったんだなぁ」

 そりゃあ子沢山にもなるか………と、家の近所の各家庭を思い出す。十歳未満で死亡する子供も多少はいるが、しかし私の家のように子供は実質一人だけ、というのはなかなか見ないことだ。私の両親が他に子供を作らないのはアビーのことがあったからだろうが、それでも母の血筋を含めてかなり稀な家庭だった。

 私の場合、仮に結婚しても他より子供は出来辛いだろうけど………とエリアルシートを開き、パブリック、インフォメーション、ウェザーフォーカストとページを進め、次の降雨の予定を確認する。それによると東三区にはしばらく雨の予定はないようで、これでは水の確保がさらに困難になってしまうなと溜め息を零す。ウェザーリポートを見るまでもなく小屋の外は静かなもので、いよいよやることが無くなってしまった私は、ライブラリから"井戸の国"を表示し、冒頭部分を読みながら、今度はそれなりに深い眠りに落ちてしまった。


       ❅


 外縁付近で飼われている家畜の多くは豚か羊、それから牛で、鶏や馬はあまり見ることはない。この辺りのような、半ば放棄されている土地ではなおさら家畜などいるはずもなく、イアソンは馬を見つけられないまま夜明けの一時間ほど前に小屋に戻ってきた。しかし全くの手ぶらというわけではないようで、周辺の地理を記憶しながら馬小屋を探していたらしい。その話を聞きながら自分のエリアルシートに写し、その後ようやく起こした火でウサギ肉を燻製にする作業に取り掛かることができたのは、もう昼も大分過ぎた頃だった。

 燻製にするための釜戸は、煙を外に出さないための最低限の処置として、小屋の地面に少し深めかつ縦長の穴を掘り、その底の奥側の半分で火を起こして、横向きの枝に刺したウサギ肉を煙に当て、その上を枝葉と土で覆った。これなら、少なくとも灯りが漏れ出るのは防げるはずだ。

 逃亡生活が始まって今日で二日になるが、未だに追手が来る様子はない。そのことに不安を募らせつつも安堵し、干し草のベッドで小さな寝息を立てるイアソンを横目で見る。今夜も馬を見つけられないのであれば、ひとまず私の頭髪を剃って、それからフードを被って凌ぐしかない。

「まぁ、どっちにしても髪は切らないといけないだろうけど」

 肩にかからない程度とはいえ、かつらを被るにはこの髪は邪魔だ。イアソンが起きたらナイフでばっさりとやってもらおうかと考えつつ、時折水を一口飲んでは火の番に徹する。

 そんな状況に変化が訪れたのは、イアソンが戻ってきてから九時間は経つかという頃だった。

 エリアルシートと火を交互に眺めつつうたた寝をしていた時、牧草が揺れるかすかな音と、その向こうから聞こえてくる人の声に気が付いて、そっとイアソンの体を揺らして起こして、二人で身構える。

 声の主は三人のようで、どうやら全員女であるらしい。

 慌てつつも音を立てないように注意しながら火に土を被せ、鞄を抱えてイアソンと共に干し草の中に身を潜めようとした瞬間、小鍋が腕をすり抜けて、その小鍋と地面が音になり損なったような間の抜けた声を奏でてしまう。

 一瞬、骨まで冷たくなってしまうほどにその場で固まってしまったが、小鍋を放置し、一秒でも早くと川で遊ぶ子供のように干し草の中へと身を沈めていく。

「────………どなたかいらっしゃるのでしょうか?」

 川のせせらぎもここまでたおやかではないし、鳥のさえずりも彼女の言葉に比べれば石を打ち付け合っているようなものだろう。そんなことを思わせるほどに美しい声だった。

 まだ完全には隠れ切れていない私のことなど気にも留めず、美声の主は小屋の中へ入り込もうと無遠慮に歩みを進めてくる。

 美声の主が斜めになった小屋の扉を開くのと、私がどうにか干し草に隠れるのとでは、不運なことに私の方が数瞬遅かったらしい。ただでさえ目立つ髪色をしているというのに満足に干し草を頭の周りに集めることもできず、乾ききった細い砂の色の隙間から、紫色を相手に見せつけてしまうことになってしまった。

「あら、珍しい髪色をしておられるのですね」

 干し草の間から覗いた私の視線と美声の主の視線が重なる。美声の主というのは、声だけでなく容姿も秀麗でなくてはならないという決まりでもあるのだろうか………と、現状から目を背けるかのように考える。聖芽祭の生神といいこの女といい、どうにもこの数日間に出会う女は美貌と美声を兼ね備えている者ばかりだ。あるいはこれも呪いというやつなのだろうか。

 隣に隠れるイアソンが動く気配を感じ、私も鞄からナイフを取り出していつでも飛び出せるように身構える。

 今、ここで、この女達を、三人とも殺してしまわなくては。

 私とイアソンが、バッタのように干し草から飛び出して三人に襲い掛かろうとすると、美声と美貌の主は私の手の中のナイフに気づいていないのか、あるいは気づいた上で笑顔を崩さないのか、先ほどと同じく礼節をわきまえているといった態度でドレスの裾をつまんで一礼をし、続く言葉を発する。

「お会いできて光栄でございます。フローラ唯一の娯楽作家、若き空想の記し手たるメデイア様」

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